「「李香蘭」こと山口淑子 テーマは「自己欺瞞」」醜聞 スキャンダル neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
「李香蘭」こと山口淑子 テーマは「自己欺瞞」
一見すると芸能人のスキャンダルを扱った法廷劇のようでいて、実のところは「人間の弱さ」と「良心の目覚め」という深い主題を内包している。中心にいるのは志村喬演じる蛭田弁護士。貧しさと過去の屈折を抱えた彼が、依頼人を裏切りながらも最後に正義に目覚める姿には、『生きる』や『悪い奴ほどよく眠る』へとつながるモチーフが明確に現れている。
この映画がとりわけ優れているのは、蛭田が自らの過ちを悟るシークエンスにある。彼と青江(三船敏郎)が居酒屋で「俺たちはやるんだ」と語り合い、店の客たちも一緒になって「蛍の光」を歌うシーンは、当時の日本社会における“自己欺瞞”と“良心の呵責”が表裏一体であることを象徴的に描き出している。盛り上がりはするが、何も変わらない。弱さに負ける人間の滑稽さと哀しさが染みる。
主人公の青江は観客の視点を担い、蛭田の変化を傍で見つめる立場にある。物語は最初こそ青江が主役のように進むが、最終的には蛭田が真の主人公であったことが明らかになる構造も見事だ。
また、山口淑子の起用も見逃せない。かつて“満洲の歌姫”として国家プロパガンダの象徴だった彼女を「虚偽のスキャンダル被害者」として登場させたことにより、黒澤は国家・マスコミ・大衆・個人の力関係を裏から批判している。現代の観客にはこの起用の意味は伝わりづらいかもしれないが、戦後日本における「虚構と現実」「加害と被害」「清純と汚名」の狭間に立たされた存在としての山口淑子は、非常に強い象徴性を帯びていた。
黒澤はここで「良心」「正義」「自己犠牲」といったテーマに真正面から向き合っており、のちの作品群で繰り返し掘り下げていく核心がこの一本に凝縮されている。本作を通じて、黒澤が「ヒューマニズムの苦み」をどう捉えていたのか、その萌芽を感じることができる。
83点