自由の幻想のレビュー・感想・評価
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自由くたばれ!
個人的にはルイス・ブニュエルの最高傑作であり、フランス映画史上でも他に類を見ない傑作だと思っている。
これまでもシュールレアリスムの芸術家として既成概念や美徳を打ち壊し、冒涜的とも取れる作品を数多く世に出してきたブニュエル。
今回の映画でも常識を覆すようなシークエンスが多々挿入されており、登場人物がリレーのようにバトンを繋ぐことによって物語が展開していくシュールなコメディになっている。
バトンは繋がっていくが、それぞれのエピソードに関係性はない。
ブルジョワな夫妻が様々な風景の移った絵ハガキを眺めながら卑猥だと顔をしかめたり、同じように裕福そうな人たちが慎ましく便座に座りながら談笑する傍ら、周りを憚りながら個室で食事を取ったり、目の前に本人がいるのに少女の捜索願が出されたりと、不条理なコメディの場面があれば、警視総監が死んだはずの妹から納骨堂で待っているという電話を受けるなど、『世にも奇妙な物語』を思わせるようなエピソードもある。
また危篤の父を見舞うために急いでいたはずの看護師が宿屋で神父たちとトランプゲームをしていたり、死刑判決を受けたはずの殺人鬼が周りと握手をしながら堂々と法廷を出ていったりと、道徳を疑うような場面も。
脈絡がないようでいて、実はこの物語は最後に大きな輪で繋がっていることが分かる。
冒頭、ナポレオン軍に占領されたトレドで、反逆者たちは「自由くたばれ!」と叫び銃殺される。
そしてラストの動物園での学生運動の鎮圧場面でも「自由くたばれ!」の叫び声が聞こえ、銃声がこだまする。
まるで夢のようにブルジョワ夫妻の寝室に現れたダチョウが印象的だったが、ラストにも暴動の起きた動物園でダチョウの姿が映し出される。
その姿は暴動に無関心なようにも、どうして良いか分からず困惑しているようにも見える。
檻から出されてもダチョウには自由はない。
人間にとっても本当の自由などあり得ないのかもしれない。
奇天烈小百科
奇天烈なエピソードを融通無碍につないでいくブニュエル真骨頂の作品。前の話の脇役やチョイ役が次の話を牽引したり、読んでいる本の内容や語っている話の中身だったりして、物語はあてどもなくさまよっていく。
各々のエピソードはおよそ他愛もないものだが、名だたる俳優たちが律儀につきあっている。ミシェル・ロンズデールは尻を出さされているし。ビルの高層階から無差別に銃撃する男のエピソードは、テキサスタワー乱射事件を彷彿させる。後期のブニュエルの映画にはかなりテロリズムが影を落としているが、当時の時代背景と関連があるのだろうか。
ブニュエルの作品で一番好きなのは「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」だけど、この映画も同じく原作なしのジャン=クロード・カリエールとの共同脚本で、奔放なイマジネーションが汲めど尽きないようだ。
【「自由よ、くたばれ!」で始まるもの/“林檎”、“ゴリラ”、“ラッパ”、“パリ”、“林檎”】
シュールで、さまざまなメッセージを詰め込んだ作品だ。
ただ、よくよく考えると、“シュール”と単純に呼んでいいのか分からなくなる。
この作品は、「自由よ、くたばれ!」と言いながらも、結構“自由”な作品だ。
もう言い古されていることかもしれないが、それぞれの場面の最後の部分を引き継いで綴られる“しりとり”のような展開だ。
でも、これが僕たちの世界の現実ではないのか。
関連性がないようで、関連しているのだ。
ある行為があったからこそ、次のイベントに繋がるのだ。
僕たちは、それについて気が付いていないだけなのではないのか。
そして、映画の構成としては、しりとりの“林檎”から始まって。“ゴリラ”、“ラッパ”、“パリ”、そして“林檎”に戻ってくる、そんな感じだ。
だから、戻って、エンディングの叫びになるのだ。
分かってもらえたかしら?
映画をご覧になった方は、なんとなく分かってもらえるように思うが、要は、僕たちの世界はさして変わっていないと云うことのような気がする。
ただ、こうした構成の中でもテーマとして重要なのは、一見、何も関連性がないように見えて、実は、結果には必ず、きっかけや原因があると云うことなのではないのか。
そして、自分たちや、その行為が独立して存在しているのでない……、つまり、“自由”とは“独善”や“自分勝手”とは明らかに異なると、そんなことも示唆しているように感じる。
更に、それぞれの場面に皮肉が込められているのも見どころだ。
世の中でテロだのが懸念されるなか、変わらず残る偏見や因習はもとより、
ギャンブルに興じる聖職者、
近親相姦の甥と叔母だが、裸を見られることを恥じらう叔母。恥じらいとはいったい何なのか。
目の前に娘がいるのに見えていないのか、意識的に見ていないのか分からない両親。
そして、無差別殺人者を称賛するような人々など。
自由ではなく、独善や自分勝手が支配的な僕たちの世界の矛盾や暗い部分を示唆しているのだ。
シュールなように見えて笑えるけど、よく考えると実は、背筋がゾッとする作品だ。
巨匠ブニュエルの脳内遊園地を探訪する、ナンセンス・コント満載の変態ごった煮お笑い道場。
角川シネマ有楽町、ブニュエル特集鑑賞三本目。
NHK交響楽団の演奏会が、団員にコロナが出て急遽中止になったので、代わりに観てきた。
ブニュエル作品のなかでも、とりわけ不条理と笑いに特化した、ほぼ関連性のないショートコントを緩やかにまとめあげたようなキテレツな作品で、会場では何度も乾いた笑い声があがっていた。
ノリとしては『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にいちばん近いが、あれはいちおう一貫した筋書とテーマがあった。『自由の幻想』は、まさに「自由」奔放である(いや「自由なんてしょせん幻想」って意味のタイトルなんだろうが)。
とにかく、くだらないネタを連発しては遊び倒すブニュエルの、いくつになっても衰えない稚気と悪戯心に圧倒される。
とはいえ、さすがに「ブニュエルだから許されてる」ようなところはあるよね、この芸風(笑)。
「不条理」というよりは「ナンセンス」に近いノリが横溢しており、別にこの映画に出てくるどのネタを今の吉本のシュール系ギャグの芸人がやってても全然おかしくない気がする。
そして、いうほど深いテーマ性があるようにも、僕には思えない。
このおバカな映画を観させてなお、「笑劇の形をとったシュルレアリスム」あるいは「巨匠のゆとりが生んだ至芸」みたいな感想が観客側から出るというだけで、ブニュエルの懐の深さと神通力が思い知らされる。
公園で遊ぶ美少女をつけ狙う、ペドフィリアっぽいオヤジ。
彼が少女のポケットに滑り込ませた写真を、家で少女から見せられた両親は激昂する。「なんて破廉恥な!! 不審者を見逃したベビーシッターは今すぐ首よ!」
で、これがなんの写真かというと、ただの観光用の建築写真。
エッフェル塔や、聖堂の写真を観ては、ふたりは「あああなんて卑猥な(形状)!」と叫び、そのうち発情してむさぼり合い始める。
あるいは、少女が誘拐されたと学校から連絡を受けて駆け付ける両親。
ところが、ふつうに教室に少女はいる。
でも、なぜか両親は、誘拐事件として「子供と一緒に」警察に赴き、
警察は「本人がいると特徴が分かりやすい」とか言いながら、その子供の捜索を開始する。
しばらくして「その子供を連れて」警察が戻ってきて、事件は解決する。
一事が万事、そんな調子で、ナンセンスなシチュエイション・コントが、ちょっとした偶然や、共通の登場人物を介して、数珠繋ぎにされていく。ようするに、やっていることは「モンティ・パイソン」とそう大きくは変わらない。
そこでは、嫁の像にちょっかいを出す男をポカリを殴る夫の石像(ハナ肇かよ!と思ったが、西洋だとこれ『ドン・ジョバンニ』の騎士団長が元ネタなんだろうな)だったり、叔母と甥の性行為だったり、飲んだくれて賭けポーカーに興じる聖職者たちだったり(構図にセザンヌやフランドル絵画の伝統が感じられる)、ケツに穴のあいたズボンをはいたマゾ「豚」男だったり、授業のてんで成立しない警察学校だったり(授業の内容がマーガレット・ミードwww)、居間の便器型の椅子でみんなでくつろぎ個室で食事する「排泄と食事」の逆転劇だったりの、いかにも「ブニュエルごのみ」のエロネタ、下ネタ、おバカネタがつぎつぎと登場し、われわれはブニュエルという知と妄想の巨人の脳内遊園地を引きずり回されることになる。
終盤にライフル魔が唐突に現れて、次々と街行く人々をほふっていく黙劇のようなテロリズムの発動は、『あいまいな欲望の対象』や『昼顔』でも見られたブニュエルお得意のショック演出だし、警視総監がふたり出てきて(片方がミシェル・ピコリ!)談笑する、ふたつの世界線が重複するような仕掛けも、ちょっと『あいまいな欲望の対象』を想起させる。
そもそも、この手の「ショートギャグの緩やかな集積」「ブルジョワジーと聖職者を揶揄するエロネタ、下ネタ」「イロジカルな話を大真面目にやる面白さ」「存在のあやふやさ、時系列の錯綜を根拠とする違和のシュルレアリスム」「唐突なテロリズム」といった要素は、そんまんま無声映画期の『黄金時代』(1930)でやっていたネタとまるでおんなじで、その意味では三つ子の魂百まで、といった感が強い。
総じて、重苦しいテーマ性や、難解なメッセージ性などをいっさい考慮せずに、ブニュエルの奇想天外な面白ワールドを趣味的に堪能できる、ファンにとってのご褒美のような映画だ。
もちろん、冒頭の警句(「自由はくたばれ」)やラストの動物園ネタから、何かしらのシリアスな意味性を見出してもいいんでしょうが……、まあ良いんじゃないの、この映画は? 「ブニュエルが面白いと思ったこと」をただ追体験して、こちらも童心にかえって楽しめば。
なお、勘違いする人はいそうなので、いちおう付記。
終盤で警視総監1号(『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』にも出てた、ザッケローニ監督みたいな顔のオッサン)が、4年前の追憶として語る、妹(『革命前夜』の若く美しい叔母、アドリアーナ・アスティが初老のおばはんになってる!)が全裸でピアノを弾くシーン。死後、彼女は納骨堂から電話をかけてきて、「最後にブラームスのラプソディ」を弾いた、というのだが、こちらはラプソディ 第2番 ト短調 作品79−2で、警視総監がスコアを差し替えてから冒頭のワンフレーズだけを弾いている。
その前、警視総監が部屋に入ったときに弾いているのは、シューマンの「謝肉祭」第12曲「ショパン」です。
自由な欲望に支配された人間の可笑しさと生理を風刺したルイス・ブニュエルの傑作
普通の劇映画の枠には収まらないルイス・ブニュエルの面白い作品だった。この何処か澄ましていながら欲望と体裁が真逆になる不道徳でナンセンスな日常の社会風刺を楽しく見せてくれる。これは、これまでに色んな映画を創作してきたブニュエル監督の作品故の存在価値であり、他の監督では中々成立しない内容と表現力がある。
ナポレオン占領下のスペインで抵抗するスペイン人が射殺されるシーンで、“自由くたばれ”と叫ぶプロローグから、ラストの動物園の騒動場面では“鎖バンザイ”と閉じられるオムニバス形式のような構成は、連鎖するシチュエーションの自由気儘さで映画は進む。そのどれもが頓珍漢なお話ばかりで、観ていて驚きながら思わず笑ってしまう。こんなユーモアの描き方はコントのようだが、どれもが奥深い。もっとも先鋭的な知的ユーモアで遊んでいる、とても贅沢極まる娯楽芸術ではないだろうか。
子供が見知らぬ人から貰ったローマの観光絵葉書を観た、両親のジャンクロード・ブリアリとモニカ・ヴィッテが卑猥だと言いながら興奮する。ある看護師が泊まったホテルでは、様々な人々が欲望に自由な、精神が裸の人間の姿を露呈する。敬虔な神父たちの息抜きのカード遊び、学生の甥と中年の伯母のカップルの不道徳な愛の場面もどこか可笑しい。度肝を抜かれるのが、ある教授が憲兵たちを前に講義をする回想話だ。友人の家に招かれて居間に入ると、椅子の代わりに洋式便器がある。しかも食事は突き当りの個室で鍵を掛けて済ませるのだ。人間の生理についての何たる皮肉だろう。ケッサクは、そこに子供がいるのに行方不明と騒ぎ出し、話を肥大化する場面。このシーンの台詞のナンセンスさがいい。そして、一番印象に残るのが、死んだ妹から突然深夜電話があり翌日気になって墓場まで行ってみると墓石の傍らに受話器が置いてあるシーン。この兄と妹の関係性が温かい。
悪ふざけと真面目さの境界線を絶妙に辿り、自由に映画を作っているブニュエル監督の傑作。それは観客の立場からでも羨ましいくらいの、映画愛を感じるからである。
1978年 12月2日 高田馬場パール座
伊丹十三監督の「タンポポ」を観た時、先ずこの映画を連想した。このブニュエル映画に触発されて生まれたのではないかと勝手に思い込んでいる。ユーモアの質は違うが、どちらも映画と人間を愛しているのが素晴らしいと思う。
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