「少女の受難と地獄めぐりの果てに」少女ムシェット じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
少女の受難と地獄めぐりの果てに
恥ずかしながら、初ロベール・ブレッソン。
先月『異端の鳥』のヘンタイ「中世」映画ぶりに驚倒し、ひたすら子供が受難する「地獄めぐり」のサディズムを心ゆくまで堪能した結果、「地獄めぐり」の原点ともいえる伝説の二作品が、ちょうどシネマカリテでかかっていることに気づき、これは良い機会だと足を運んだ次第。
やはり聞きかじりのイメージと、実際に観た印象は大違いで、60年代という時代を考えても、およそ一筋縄ではいかない監督さんだなあと。
事前の印象では、素人俳優の起用、モノクローム、音楽使用の制限、淡々とした描写など、ビター・テイストのフランス版ネオ・リアリズモみたいなのを予想していたのだが、ところがどっこい、そんな程度の代物じゃなかった。
まず、ナラティヴ自体が、全編を通じて非常にわかりにくい。
これは明らかに「意図的」だ。
難解とか、複雑ということではなく、純粋に「今なにが起きていて」「前のシーンとどうつながっているのか」が、あえて「わかりにくく」つくられているのだ。
(なぜかすらすら読めない純文学の文章に似た、細かな関節外しが随所で行われている)
同様に、感情の流れや理屈付けも、シーン間でそこかしこに意図的な断絶があり、ひと続きのドラマとして観客がのめりこめるようには、最初から作られていない。
単に「そっけない」とか「エンタメ色が薄い」というより、もっと「禁欲的」で「抑制的」な意志――意味性や演出という概念そのものをなるべくそぎ取り、排除して、映画に「けれん」や「これみよがしさ」を残さないという強い意志を感じさせる。
俳優の演技にしても、プロ俳優の臭みを排除するというと、リアリズムを目指しているかのように聞こえるが、この映画で俳優たちは、そもそも「リアルな演技」すら要求されていない。
監督の指示どおり、バミってあるポイントに入って、やれといわれた動きをして、いわれたセリフをいうだけの「コマ」のような存在。ブレッソンが求めているのは、そういう「記号化」された演技者(ブレッソン言うところの「モデル」)である。
まさにただの「段取り」に過ぎない立ち回りや、「あん、あん」というムシェットのダサすぎる喘ぎ声、みんな似たり寄ったりの演技プランのせいで見分けすらつかないオッサン連中、ただ涙が流れている「だけ」で他に余分な演技のまるでないムシェットの「泣き顔」。
要するに、ブレッソンは、映画から「ストーリー」や「ドラマ」のみならず、「演技」まではぎ取ろうというのである。
しかも、だからといって、じゃあ「演出」や「レイアウト」「映像美」に走るかというと、そういうわけでもない。フレーミングは極めて厳格だが、殊更、印象に残るようなカットを作ろうという意志は希薄である。
本作においては、ゴーカートのシーンと、ラストのムシェットがごろごろ転がるシーンは、確かに強固な「我」を感じさせる特異な演出だ。だがそれとて、敢えて違和感の残るような「ダサい演出」に終始しているし、違和感をあえてむき出しにしたまま放置してある。なんだか、「おっと思わせる演出なんかやったら嬉し気なバカだと思われる」と恐れているかのような武骨ぶりだ。
削り、削り、削る。
そうして、残るのはなにか。
それはおそらく、「純粋に映画的な何か」だ。
ブレッソンは、通常の映画から、約束事、体感的な興奮、笑いや悲しみといった情緒的要素、演技、音楽、目新しい演出などといった、「一般に映画らしいと思われる要素すべて」をばっさりオミットして、なお残る何かを模索する。
「意味」にも「感情」にも左右されない、映画の「核」のようなものだ。
彼の映画作法が、人一倍強烈な含羞や自意識ゆえなのか(「何かこれみよがしなことをやるのが、気持ち悪くて仕方ない、創作者としての傲慢さが許せないという中原昌也的なアレ)、強固な映画理論に基づくものなのか(中条省平は宗教的・汎神論的背景を唱えているそうだ)、はたまた単に強度のASDだった(たとえばキューブリックのような)のかは知らないが、彼の表面上ネオ・リアリズモ風に見えるスタイルの背後には、もっと激烈で熾烈で自己破壊的な「そぎ落とし」のミニマリズムが支配している。それは間違いない。
この映画の最高に面倒くさいところは、以上のような禁欲的な映画作法で作られながらも、扱われている題材は、「薄幸の少女の悲劇」という、本来なら猛烈に情緒的で心に訴えるものだということだ(これは、同時上映で観た『バルタザールどこへ行く』とも共通する。両作は、誰が見ても一見してわかる「姉妹作」である)。
本来なら、少女の受けているいじめ、教師の体罰、極限の貧困、父権的な父親、寝たきりの母親、ワンオペの赤ちゃんの世話、レイプといった「絵にかいたような不幸」の数々は、もっとわれわれ観客の心をざわつかせ、慟哭に近い衝撃を与えるはずの題材だろう。
しかし、ブレッソンの語り口は、のめりこむにはあまりにそっけなく、ドラマとして浸るにはあまりに淡泊だ。
とにかく、全体を通じて、そもそも何が起きているのかよくわからないし(だから感情移入しづらい)、ムシェットは「不憫」というには芯が強く(鳥罠も仕掛ければ、泥も投げる)、じゃあ「不幸にも負けずに力強く生きている」かというと、それほど勝気なキャラクターにも見えない。相応に現状に融和的で、でも実はぎりぎりのところに追い詰められていて、「うんざりよ」の一言でこの世からおさらばする、正直なかなかにつかみどころのないキャラクターだ。
どうも、ブレッソンは、観客にムシェットの境遇や悲しみに殊更同化したり同調したり「してほしくない」ようにも思えてくる。「不幸度マシマシの鉄板で泣ける話」を、「徹底的に面白くなさそうに話す」という奇異な実験をしかけてきている――そんな感じだ。
唯一映画のなかで活気に満ちて、アクションの愉楽に興じられるのがゴーカートのシーンだが、あれはさんざん世間に翻弄され、ぼこぼこに叩きのめされるムシェットの運命を表現した(この映画にしては珍しいくらいわかりやすい)隠喩だろう。陽気で楽しい娯楽のなかでも、ムシェットはしいたげられ、男性の暴力的な性欲にさらされているのだ。
ただ、そのほかの「可哀想なシーン」が、「可哀想と思わせるように撮っては映画がダメになる」くらいのそっけなさで常に提示されることを考えれば、このシーンだけは何かしらブレッソンの「ゆるみ」というか、「ここくらいはいいだろう」みたいなはっちゃけ感があって、ほっとしたのは確かだ。
総じて、ブレッソンの強い意志と映画思想をひしひしと感じさせる、緊迫感のある映画である。
テーマ的には、ネオ・リアリズモというよりは、「宗教・男女の情交・世間の目」と、実はベルイマンと激しく通底するのではないか、という気もすごくしたが、肝心のベルイマン映画を観たのが昔すぎて概ね忘却しているので、ここでは語らない(笑)。
とはいえ、普通に見て楽しめるかといわれると、結構労多くしてなんとやら、といった感じもしないでもない。少なくとも、そんなに面白くないし、情動に訴える部分もないから……。
こうやって、映画について考える「あと作業」の楽しい映画といえるのではないか。