「流転の只中で、変わらぬ愛を」さらば、わが愛 覇王別姫 abokado0329さんの映画レビュー(感想・評価)
流転の只中で、変わらぬ愛を
1920年代から1970年代の中国を舞台に、京劇の古典「覇王別姫」を演じる程蝶衣(チョン・ティエイー)と段小樓(トァン・シャオロウ)の愛憎を描いた作品。
彼らの愛憎は、必然的に当時の政治状況とも絡み合い、何度も流転する様は諸行無常の響きあり。
程は遊郭で働く母に身売りされ、幼年期/幼少期は京劇の芸を習得するために過酷な修行をする。段も似た境遇だと思うが、二人の修行は師匠らの体罰を含む虐待でしかない。しかし彼らは必死に芸に励むことで「覇王別姫」の大役をつかむのである。彼らが演じる「覇王別姫」は凄い。いや京劇自体が凄い。絢爛な衣装とメイクで浮世離れしているが、セリフとしぐさと音楽と舞台装置で確かな世界観を築いている。まさに「唱・念・做・打」の表現。カットのテンポのよさもあって、スクリーンに釘付けにされる。
1920年代から1970年代の中国を舞台にすることは、パンフレットに記載される藤井省三のコラムに則れば、「軍閥政府期」「統治期」「盧溝橋事件後の日中戦争期」「戦後の国民党統治期」「中華人民共和国・建国」「文化大革命」の時代を描くことでもある。時代によって統治権力は変わり、戦争や紛争が起き、彼らの人生や京劇のあり方も変わる。
段は日中戦争期、日本軍の軍人の命令で彼らの目の前で演舞をする。それは彼が生き延びるための苦渋の選択であるが、戦争が終わり国民党統治期になると、逮捕の対象となり裁判で糾弾されることになる。このように時代の変遷によって、統治権力が変わると称賛から糾弾の対象になるのはあまりにも不条理だ。それは京劇にも言える。京劇は中国の古典芸能であるはずなのに、「文化大革命」では労働者のための芸術ではないと迫害の対象となる。さらに彼らが保身のために、彼ら同士が非難を言い合うことに転じるのだから尚更、理不尽だ。
彼らが悲劇的な結末に向かうまでを辿ってみる。
程と段は舞台上でのパートナーである。しかし段は遊郭の女・菊仙(チューシェン)を妻にすることで、綺麗な三角関係になっていく。程と段に関係は儚い。彼らは舞台の関係でしかないと言えばそうではあるが、幼年期や幼少期は生活を共にしたほど私的な関係
であった。だから程は舞台の延長として生活でも親密な関係を求めるが、段は大人になって舞台と生活を切り離す。さらに菊仙の関係の介入は、舞台上でしか男女の関係を演じられない程とは対称に、法的にも身体的にも男女の関係になれる「女」の優位を際立たせる。
三人の関係は、師匠や袁世凱、軍人、大衆との関係とも絡み合っていく。それにより、各人の思惑や誰が権力を把持しているかによって愛憎が流転することも見事に描くのである。
印象的なのは程と段の弟子の存在だ。彼は程や段と1世代ぐらい年が違うが、同様に幼年期は厳しい修行に励む。しかし大人になって程や段の端役で演じていると反発していく。程や段は自分を主役にするつもりはないと言ったり、厳しい修行は時代遅れと言ったり。両者の言い分は理解できるのだが、実際に彼が程の役を奪うことは驚きだった。彼に能力がないとは言わないが、それ以上に時代の政治状況が運命を分けることを痛感した。さらに彼は「文化大革命」の時、共産党に加担し程や段を糾弾するのである。権力への迎合。世代間で意志を引き継ぐのは困難なのである。
彼らは「覇王別姫」と同様に悲劇的な結末を迎える。それを回避する手立てはなかったのか。時代をひとりの個人が変えるのは難しい。しかし時代をつくるのもひとりの個人たちであるのだから、京劇としての「覇王別姫」にある古典的な本質を見据えて懸命に生きていくしかないのではないだろうか。愛憎は流転してしまう。政治もまた流転してしまう。しかしその流転の只中で、変わらない「愛」を私は迎えたい。