ブロークバック・マウンテンのレビュー・感想・評価
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観終わってからジワジワくる
静かな山の景色と共に淡々と流れていく映画。
言葉はあまり無くてもお互い惹かれあう
それがたとえ男同士でも。。
一線を越えなければ苦しむことも無かったのだろう。
だけど、超えてしまった・・
イニスは葛藤を続け、結婚生活も破綻してしまうけど
最後はジャックの思い出を持ちながら満ち足りた気持ちで
過ごして行けるのだろうなと思うと、そう悲しい映画でもないのかもしれません。
“燃える”…もとい“萌える”お兄さん!てか?
やれ“ホモ映画”だの“ゲイの映画”だのと騒がしかったですが、そこはそれアン・リー監督に、アジア人初の“アカデミー監督賞”をもたらしたほどの映画です。果たして如何ほどのモノでございましたでしょうか?
いやあ、確かにこれは“ラブ・ストーリー”ですよ。しかも最近では珍しいくらいに、純粋な部類のお話(まあ、時代設定が少々昔ですけど)です。ただ対象が“異性”ではなく、“同性”なのですね。で、結論から申し上げますと、吾輩はやはり少々感情移入できませんでした。いや、決して悪い話じゃないんですよ。でもちょっとリアルなシーンもありましたし、何よりも“そこ”へ行き着いてしまうまでのストーリーが、若干説得力に欠ける(言い換えると少々ヨワイ!)かな?と感じられた(そう、『何でそうなる?!』みたいな…)モンですから…。
それよりも、ジャックが初めてスクリーンに登場したときの、手や腰の仕草そしてニヤけた顔を見て、吾輩思わず『うわ、コイツやる気満々やがな!!(笑)』と心の中で叫んじゃいましたし、『そんなアッサリ奥さんに見られたらアカンがな!』とか、『何でそんな下手な嘘をつくねんな?!』と思わずツッこまずにはいられない、この“ゲイ”カップル(特にイニス)の、お間抜けさに毒気を抜かれたっていうのも、多分に影響しているとは思うのですが(笑)。
ただ、この映画がアカデミー賞を獲れなかったのは、正解だったような気がします。ゲイの映画と言う以前に、映画としてパンチに欠けている気がしますから。まあ、佳作であるとは思いますが…。
アン・リー姐さん大いに叫ぶ
アカデミー作品賞を「クラッシュ」と争って敗れた「ブロークバック・マウンテン」。個人的に「クラッシュ」を非常に面白く感じていたので妥当なんじゃ?と思っていたが、「ゲイ映画だから差別したんだ」との声があちこちのブログやらで見受けられた。それほど素晴らしい作品だったのかと期待してみたが、これがあんまりだったというわけ。
確かに映像はきれいだ。だがその映像には何の意図が込められていたのだろうか。明度と彩度をすみずみまで行き渡らせた結果、綺麗ではあるが画一的な映像になっていたと思うし、風景は風景としてただそこにあるだけで、その中になにか心象風景が組み込まれていたようには、私には見えなかった。「獅子座」のように別に美しくもなんともない汚い川の風景にもかかわらず、水面の煌きが人生の儚さと美しさを圧倒的なまでに表現したことに比べ、この「ハリウッド」映画の「映像美」がいかに作り物めいていることか。「バッドランズ」(邦題「地獄の逃避行」)における、木々の一葉一葉にまで丁寧に気を配られた映像美を思い出せば、ただただCGで洗いをかけたような「人工的な自然美」には食傷気味になるだけだ。
映像に関してはこれぐらいにして、では物語はどうか?
この映画に関するレビューを読んでいると結構無邪気に「男同士の愛だから純愛だ」と断定してしまっている人(高確率で女性)もいて、私としては考えなしにそういいきってしまうのは、それこそ差別なんじゃねーの?と思ってしまう。そんな神聖視するものなのだろうか。
少数派をゲイ、多数派をヘテロという単純な区切りで考えるのならば、男女というのはある意味「両者の合意があるのならばくっついて当たり前」であるのであって、そこに“両者が合意しているにもかかわらずくっつけないのは何故か?”という理由が物語を成立させる--どっちかが既婚者である、身分が違う、本人のメンタル的なところに問題がある等々--とするならば、同性愛というのはまだまだ“くっついている”のが不自然であるという部分は否めない。ゆえに「なぜ恋愛が成立しているのか」という部分を丁寧に書き込まないと、(ヘテロに属する)観客は感情移入しづらかったりする。普遍性を見出せないと共有できない。
そういう意味でいえば主人公二人の馴れ初めが、恋には理由はいらないよとはいえ、アン・リーの一人合点という感がする。「いいのよ!アタシがこれでいいって思ってんだから!もうこれよこれ!サイッコー」というアン・リー姐さんのお言葉を受信シマシタ(嘘。テキトウ)。そんなことはどうでもいいんですが、どうして二人が恋に落ちたのかというキモがあまりにも説明不足ではあると私は思う。そしてそのあたりを風景や情景で心象風景を代弁させているわけでもないので、なんだか成り行きと成立具合に唐突な感を覚えてしまう。(性欲から始まった恋愛が普遍的な恋情へ昇華されるのかっていうことをテーマにしたわけでもなさそうだし)そして男二人が無邪気に楽しむ姿を見ているうちに、ブロークバック・マウンテンから追い出され生活の只中に晒される場面へあっという間にうつってしまい、以後はその「永遠の夏」に縛られ、再現しようとして挫折していく男たちの姿を見続けることとなる。観客が二人の「愛」に納得し共感していることを前提に話が進みすぎではないか。
大事なところを置き去りにしてしまったがゆえ、ゲイであるとかないとかいう以前に物語としてフツーに面白くないのだ。最後さすがに泣かせるシーンがでてくるが、それは愛という不確かなものを心のよりどころにしてしまった結果縛られ殉じることとなった人間の悲しみ、最も偏見を抱いてのは誰かということに気づいたが既に遅すぎたことを熟知した男の背中にグッとくるのであって、ここにいたって初めて物語は普遍性を獲得したといえる。どちらにしろ「遅すぎた」と思えますが。そういうわけでこの物語を男女間に置き換えたら(不成立条件にどのような理由をつけたとしても)陳腐で退屈な作品に仕上がってしまうのではないだろうか。であるからこそ、普遍性を獲得していないと私は思う。
以上、私としては「アカデミー監督賞」というのは非常に妥当な線だと思えました。わかったわかったアン・リー、みたいなところですかね。悪い作品ではないけれども、傑作とは言いがたい。そういう作品でした。(しかし「クラッシュ」が作品賞で「マグノリア」が無冠っていうのがどうにも納得できないなアカデミー賞ってやつは)
う~ん、賛否両論。ちょっと判らんかった。
2006年アカデミー賞作品賞大本命と言われながら、受賞を逃がしたと言う曰くつき。その代わりと言っては何だが、監督賞を受賞している。作品賞受賞を逃した原因の一つとして、”ゲイ”を扱ったからだとも言われているが、真相は不明である。
現代の話かと思っていたら実は違っていて、1960年代後半から80年代初めの辺りの話。今でこそ、ゲイも市民権を得られ、(アメリカの)州に依っては同性同士の結婚も認められてきていますが、この映画を正しく理解するためには1960年代~1980年代のアメリカにおけるゲイの扱われ方を知らないと、この映画の本当の意味は理解できないでしょうね。って言うか、差別されていたと言うこと以外、私もわからないんですが(今も、差別されているのかもしれないですが)。あと、メキシコに言及する件があります。これもその場面を見ていればどう言うことなのかは理解できますが、ゲイの世界におけるメキシコの意味を知っている方が、このシーンの意味はもっとよく理解できるでしょう。
などと書いていますが、期待しすぎたのかなぁ。愛しても結ばれないと言う悲哀がこの映画の良いところ?なのでしょうか。その意味では、一方の男を女に置き換えて男女の話としても成り立つ物語で、そう言うストーリーだったら、とても哀しいラブストーリーとして認識されると思います。でも、特に最後の終わり方があまりにもあっけなくて、結構拍子抜け。特に、ジェイク・ギレンホールの最後があのような最後を迎えることになった理由が、アン・ハサウェイが説明している通りなのか、あるいは、フラッシュバック映像に描かれているようなことになったのかが不明です。ちょっと消化不足気味になってしまいました。
男同士のラブシーンが結構出てくるのでビックリです。あんなにきちんと描いているとは思いませんでした。そう言う意味で、映画批評家の世界では評価されたんでしょうか? でも、一般の日本人の感覚からいうと、ちょっと判りにくいかなぁと思います。
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