アカルイミライのレビュー・感想・評価
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虚しい日々のミライ
・虚しさは何をしても付きまとう感覚がある。好きな女性と付き合えたから虚しさが消えるわけでもないと決め込んでいる。そもそも好きな女性もいない状態。行きたい場所が仮にあって行けたところで、その時はとても感動したりしても虚しさの揺り戻しにあって結局虚しかったという気持ちが勝つ。
・そんな日常に対してどうするのかなぁと思ったら赤クラゲを育てて、理屈を超越したクラゲが床下で生存、穴を掘って脱走。川を埋め尽くすほどの繁殖。あり得ない気がするけど何だかありえそうと思ってしまう世界観が良かった。乃至はそうあってほしいという気持ちが沸いていった。黒沢清監督作品に共通してある背景の違和感がクラゲの脱走にも説得力を持ってくる気がした。現代劇に背景でファンタジーですよっていう説明をしている気がする。
・虚しさというのはとてもきつい。何をしても虚しいと感じたら全て虚しくなる。そんな状態の青年2人がどう生きるのかとなると何となく憂さを晴らしてまた虚しくなるのが現実的な話かと思う。そういう事になると何をどうするとかがわからない映画でこんなに面白い映画があって驚いた。加えて虚しさがどういうものか分かっている感じが凄くして救いも感じられた。
・ストーリーを振り返ると説明できない。ただオダギリジョーと藤竜也が浅野忠信に振り回された話かと思う。ただただ、どうなっていくんだろうという期待が続いた。結局、虚しさを解消する完全な答えはないわけだけど、虚しさを忘れさせてくれる映画だった。
クラゲと怪物性
この作品における「クラゲ」の立ち位置がとても秀逸だと思った。
生きているのか死んでいるのか分からない。見た目からは想像できないような猛毒を持つ。それなのに人を引きつけるような魔力がある。
これがそのままマモルが持ち、ユウジが獲得しつつあった「怪物性」の象徴になっていた。
この象徴がそのままメタファーになることで、クラゲとそれぞれの登場人物の関係性の変化が「怪物性」への向き合い方の変遷になっている。物語終盤、マモルの父が海に向かおうとしているクラゲに触れて刺されるところなんか物語序盤の父と子の面会室のくだりそのままだった。
父、上司、同僚、とクラゲに刺された(刺されかけた)彼らのことを考えると、マモルが向けていた敵意や排他的な意思がそのまま物語上のクラゲによる被害の大小になっていたようにも思えるそう考えると、物語中唯一姿が映らないクラゲの被害者である彼女はマモルが持つ「家庭」への敵意とも解釈できる。
ここで考えなければならないのが、他でもないマモル自身がクラゲを淡水へ馴染ませようとしていたことだ。クラゲが「怪物性」のメタファーだとするならば、マモルは「怪物性」と向き合いそれを不自然であるとしながら淡水という名の「社会」に馴染ませようとしていることになる。もしマモルが本当に「怪物性」を「社会」に馴染ませようとしていたのなら、それはきっと失敗してしまったのだろう。まるで物語中、ユウジがマモルからの指示が嫌になって水槽を倒してしまったように。
頭の中でまとめながら書いているから混乱してきた。
つまり何が言いたいかと言うと、物語内の「ユウジ&シンイチロウ(マモルの父)とクラゲの関係性の移り変わり」がそのまま「マモルが「怪物性」と向き合い失敗するまでの過程」の比喩になっており、それを俯瞰的に見る観客がメタ的に「怪物性」の存在と触れ合うという構図がこの映画にはあるのではないかということだ。
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