ライフ・アクアティックのレビュー・感想・評価
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苦手・・・
最初の航海で長年彼の右腕となるエステバンを失ったばかり。その命を奪った幻のジャガーシャーク。ミスター・ジスーの妻であり実質的なボスであるエレノアは、彼の天敵である海洋学者(ジェフ・ゴールドプラム)が元夫である。
途中、タガログ語を話す海賊にも襲われるが、中には日本語を喋る者もいたようだ。あっけなく片付けた一行は性懲りもなく鮫を求めて航海を続けるが、オフビート感というか、ビル・マーレイ節というか、お遊びで作った雰囲気が緊張感を生み出さない。せっかくの豪華なキャストも生かされないまま(特にゴールドプラムとウィレム・デフォー)、息子ではないかと疑う大人の物語もファミリー向け映画という名に隠れてしまう。
唯一いい雰囲気を出していたのは、ボサノバ(デヴィッド・ボウイの曲)を弾き語りで歌う黒人青年の姿。
なんだか、可愛い素敵な海の男たち
不思議な生き物たちなのか、可愛い赤いニットの帽子を被ったおじさんたちなのか、ちょっと滑稽で、ちょっぴり寂しくて、でもなんだか、あったかくなる映画でした。船の断面のセットはすごい!人がミニチュアみたいに見えて、ごちゃごちゃしてて、めちゃくちゃかっこよかった。あのセットに行きたい←笑
はぐらかし
海洋冒険映画かと期待したが出てくるのはリアリティのない残念な人達ばかり、いったい何をしたいのか、ダラダラした展開には閉口した、もっともそれがアンダーソン映画の持ち味と言えばそうなのだろう。
やっと一時間くらいして海賊襲来あたりからちょっとは観る気がでてくるがほぼビル・マーレイの独り舞台だから銃撃戦も嘘っぽくて、アクションシーンとも言い難い。
妊娠中のジャーナリストが鮫退治の船旅に同行取材というのも無理なシチュエーションだし主人公が可愛がる犬は3本脚、結局、飼う訳でもなく島に置き去り、人の気になることを承知で盛り込むのはSNSで俗にいう炎上狙いの口なのだろう。
肝心のジャガー鮫はラスト数分前にちょっとだけ姿をみせるが鮫に豹柄を張り付けた子供だましの造形、それを美しいという空々しさ、しかも何の緊迫感も無く見送って終わり、そもそも航海目的は親友を殺されたリベンジだったというのに拍子抜け。それではテーマは父子愛なのかと思ったが実は父は種無しなので他人の子、挙句に事故死というのでは意味不明、鮫も息子も尺稼ぎの気持たせだったのか。
フランスの海洋学者クストーをモチーフにトレードマークの赤いニット帽や船名まで彼のカリプソ号をもじったベラフォンテ号にしておきながら内容的には海は添え物程度、タイトルに「人生は海だ」と掲げたものの、この体たらくではクストーも浮かばれまい。
虚構への意識
【80点】
わくわくさせてくれる映画です。まるで夢の中の荒唐無稽な冒険をそのまま描き出したような無茶苦茶な世界が描き出されます。しかし統一感があって、しかもポップな美しさがある、素晴らしい映像美でした。
物語は、主人公であるスティーヴ・ズィスー役のビル・マーレイが撮影した、映画の試写会のシーンから始まります。しかし、その映画が非常に嘘くさい。まずジャガーシャークという鮫が存在しそうにないし、それに食われたというエステバンの存在がわざとらしい。さらに、撮影スタッフ自身が冒険を行う被写体でもあるので、いかにも客観性がない感じがします。だから、観客たちもスティーヴの映画に対しては疑いをもった白けた態度をとります。エステバンの死を誰も信じません。
そうした嘘の雰囲気は、試写会が終わったあとでもスティーヴのまわりから消えません。彼の息子だと主張する謎の青年が現れるからです。しかし、スティーヴとネッドという青年は顔が似ていませんし、親子だという明確な根拠は何もないようなのです。そして、これは終盤になってから明らかにされることですが、妻のエレノアの直感ではスティーヴは無精子症らしいのです。終盤というタイミングとエレノアのキャラから考えて、私はスティーブとネッドに血縁関係はなかったのだと思っています。
しかし、実際にスティーヴたちが冒険に出たとき、彼らの大冒険が本物であったことを観客は思い知ります。スティーヴの映画は嘘であるどころか、実際には映画以上の冒険が繰り広げられていたのです。だから、残された嘘くささへの疑念はエステバンの死とネッドが息子であるか否かという2点になります。
この作品では、エステバンもネッドも、同じ方法で真実性を獲得したと思います。結局、エステバンについて私たちはさっぱり分かりませんでした。しかし、そのような、エステバンについて何も知らないという立場を観客と共有するネッド青年が、大冒険を経たのちに彼の死を認めて、「チーム・ズィスーのマーク」にエステバンのEを書き付けるに至ったとき、初めて彼の死は真実のものになったのではないでしょうか。つまり、冒険の真実性を肯定することで、過去の冒険における死もまた認められたということです。
同様に、ネッド青年は恐らくスティーヴと血縁がない赤の他人でしたが、嘘のような冒険を本当に行うという物語のなかで、嘘のような息子もまた本当の息子になったのだと思います。エレノアは彼が偽物であることを分かっていましたが、それでも最後に人一倍悲しんだというのは、物語がネッドの息子としての正当性を生み出し得たということです。
スティーヴが撮った新作は、映画内の観客に非常に好意的に迎えられますが、そこで発表された編集済みの映像よりも、いま『ライフ・アクアティック』を観ている私たちのほうがより多くを知っているという優越感こそが、この作品の肝である気がします。つまり、スティーヴの映画という虚構に私たちの意識を引きつけることで、『ライフ・アクアティック』自体の虚構性への疑念を取り払うという作り手側の狙いがあるのではないかと思うのです。そして、そのような作品の虚構性への明確な意識こそが、現代の映画監督に求められる資質ではないかと私は感じました。
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