イノセンスのレビュー・感想・評価
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渾身のひと振り
しまった…この映画を楽しめるオヤジになっちまったー
15年前にこれを「攻殻機動隊PART II」として初めて観た時は、若かった… 当時は全くそう思わなかったが。
その時は、物凄い美麗なオープニングにその後の展開を物凄く期待したのに、サイバーパンク空間に没入すると言うよりいかにも非現実な疑似体験迷路をボーッと見せられているうちに終わってしまった感覚だった。ストーリー立ては良し、少佐が出てこないのも演出上の判断だが、バトーも荒牧課長も通院を勧めたいくらいに鬱状態で暗く、やたら犬とクラッシックカーばかり出てくる。
そして、これを言う人多いと思うけど、登場するキャラクターが皆まるで「明日廃校で全員失職する大学の哲学の先生」みたいに絶望的にシニカルで、物語中誰もが「オマエら歩く金言集か!」とツッコミたくなるほど格言や諺ばかり呟いている。
その部分がどうも引っ掛かってしまってお話を楽しめず、終盤漸く良いスピード感を味わっていたら終演で、なんじゃこりゃ?といった感じだった。その後DVDで再見するにつれ、この嫌味なほどの「引用句づくし」は押井守監督の性格の表れだろうと思うようになり、彼を正直嫌いになった。それは私の先入観となってしまって今でも抜けない。その時点までだったら、不当と思いつつも私の評点は3以下だっただろう。
ところがこの映画の未来性も流石に廃れたろうコロナ禍の2021年、気まぐれにVODで小さいPC画面でイノセンス観てみたら、悲しいことにバトーや課長のうつ症状も気にならず、ムダな聖書の引用やよく分からん漢詩の意図も物語進行上の情報としてアタマに入ってくる!
不可解と非現実的美麗描写が多すぎて結果的に内容足らずの(ほぼ)失敗作と思っていたものが、それなり纏まりのある“事件捜査日誌”に見えてきた… なぜだ?オレ!
そーです、自分の知らぬ間に、今コロナを“日本の奇跡(意味は違うがSACで登場する日本成功の言葉)”で制圧したかも知れない東京に居ても、自分自身は過度にシニカルで鬱っぽくなり、世間や自分の状況を他人事のように格言でうまいこと表現しようとしたり、頼まれない蘊蓄を勝手に語り出したり… イノセンスの暗部・ムダ部に共感し楽しめる「嫌なひねくれウンチクオヤジ」になってしまったのです。そんな今の自分からすると、いやー良い映画です。
なんか殆ど映画レビューと関係なくなってしまった。もし何かの間違いでココまで読んでしまった方がいたらゴメンなさい。
つまり… 押井守監督は(実写はマジダメですが)アニメ映画の解釈と制作は天才です、でも面倒くさそうなオヤジでキライです、がたぶん私も今や天才な部分を抜いて彼と同類です。イノセンスは美麗な凄いオヤジ映画です。
人形という理想の死をめぐる極私的アニメ
1)本作のテーマ
本作は性的愛玩アンドロイドによる殺人事件を捜査する公安9課バトーとトグサ、少佐の活躍というアクションドラマを表面に立てながら、実はその奥にドストエフスキー以来の「近代人の自意識の苦悩」と、そこからの解放=〈人形という理想の死〉をテーマとして潜ませている。
2)自意識の苦悩から解放された人形という死の形
上記のテーマからみると本作の主要シーンはハッカー・キムの屋敷における疑似体験の迷路、なかんずく彼のモノローグにあることは明らかであり、押井の意図はその言葉にすべて含まれている。少々長いが引用しよう。
〈真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身のことだ。崩壊の寸前に踏みとどまって爪先立ちを続ける死体。人間はその姿や動きの優美さに、いや存在においても人形に適わない。
人間の認識能力の不完全さはその現実の不完全さをもたらし、そしてその「種」の完全さは意識を持たないか無限の意識を備えるか、つまり人形あるいは神においてしか実現しない。
いや、人形や神に匹敵する存在がもう一つだけ…。シェリーの『雲雀』は我々のように自己意識の強い生物が決して感ずることのできない深い無意識の喜びに満ちている。認識の木の実を貪ったものの末裔にとっては神になるより困難な話だ。〉
続けてバトーがそれを敷衍する。
〈生身の人形は死を所与のものとしてこれを生きる。キムが完全な義体化を選んだ、それが理由だった。〉
以上から考察するに、本作に頻出する「人形」には「認識(=自意識)の苦悩を免れた完全なる存在」という意味が付与されている。神にもなれず雲雀にもなれず、中途半端な自意識に苦しむ人間にとって、そこから解放された人形とは一つの理想であり、死体の別名である。完全な義体化の実現した世界が、このアナロジーを成立させる。本作で押井は、死を理想とともに語っていると言えよう。
3)物語と映像について
前項の内容さえ解読できれば、あとは押井の衒学趣味と映像上の労作を鑑賞すればよい。
引用の洪水は多様な教養の果実として楽しめるし、「生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落落磊磊」のようなフィクション論も謎々のような効果を利かせている。
さらに択捉経済特区の祝祭、疑似体験の迷路、ロクス・ソルスのプラント船での人形群との戦闘はちょっと無意味なくらいに豪勢な映像である。
ちなみに疑似体験の迷路でバトーがキムの工作に気づくのは、少女人形の広げた「2501」というカードから。それは前作のラストで「次に会う時の合言葉にしよう」と少佐の言った数字だ。
引用や映像にこだわる一方、登場人物の造形はずいぶんいい加減である。
例えば、殺人を犯した愛玩用アンドロイドはバトーからすれば苦も無く確保できるはずなのに、あたら破壊して原因追及の手がかりを抹消してしまうのは馬鹿げている。ヤクザの事務所に入るや否やマシンガンを乱射して数十人を殺戮ないし破壊するシーンも、いかにロクス・ソルスを引きずりだす狙いがあるとはいえデタラメすぎる。
娘の誕生日がどうした女房がこうしたと泣き言を言うトグサだって、猛者の集団・公安9課メンバーとは到底思えない。
このように人物造形がチープなため人間ドラマがほとんど感じられず、バトーの犬にしか心を開けない孤独も、少佐と再会した歓喜もろくに伝わってこない。
4)テーマと物語の乖離
ロクス・ソルスのプラント船を完全に制圧した後、誘拐された少女を救出したバトーは、こともあろうに「犠牲者が出ることは考えなかったのか。魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか」と彼女に詰問する。少女は「あたしは人形になんかなりたくなかった」と答えるが、この会話はどう見ても不自然だ。
実はこれは、押井がバトーに「人間と人形は地続きの存在だ」という認識を代弁させ、人形が人間という「種」の完全形であること、したがって理想の死の形と見做し得るというテーマをダメ押し的に提示したシーンなのである。
しかし、この人間認識は唐突すぎるし、直前に数十体の人形を破壊しまくってきたバトーのセリフとしてはあんまりだろう。
また映画の前半で、警察の鑑識課職員が「子育ては人造人間をつくるという古来の夢をいちばん手っ取り早く実現する方法だったのではないか」と、無茶な論理をねじ込むのも同様な理由からだが、やはりあんまりといえばあんまりであるw
これらはテーマと物語が乖離していることを強く印象付けるところで、独りよがりの失敗シーンだと言わざるを得ない。
4)結論
本作は押井の死生観をめぐる極私的アニメである。エンタテイメント性も希薄だから誰にでも薦められる作品ではない。しかし、その衒学趣味や美意識に共感できるならば傑作と感ずるだろう。米国の映画会社は恐らくは押井に騙されてw、本作に出資してしまったらしいが、お気の毒さまではある。
5)補足
1)で「ドストエフスキー以来の『近代人の自意識の苦悩』」と書いたので、参考までにその原典を掲げておこう。
「誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。(中略)たんに意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである。(中略)いったいどうしたわけで、ぼくはあの瞬間、つまり、一時期、わが国でよく使われた≪すべての美にして崇高なるもの≫の微妙なニュアンスをあまさず意識するのに最適となるあの瞬間に、まるでわざとのように、それを意識するどころか、あんな見苦しい行為をしでかす羽目になっているのだろうか?」(ドストエフスキー『地下室の手記』)
ドストエフスキーがこれを欠いたのは1864年だったが、それより20年ほど遡った1844年、マルクスはドストエフスキーが苦しめられた自意識について、次のように記している。
「意識的な生命活動をおこなう点で、人間は動物的な生命活動から袂を分かつ。そのことによって初めて人間は類的存在である。いいかえれば、人間はまさしく類的存在であることによって、意識的な存在であり、みずからの生活を対象とする存在である。だからこそ、この活動は自由な活動なのだ」(マルクス『経済学・哲学草稿』)
2つの巨大な知性が自意識に対して、正反対の見方をしているのが、とても面白い。もちろん押井は本作では、ドストエフスキー側に立っている。
ゴーストは、肉体を必要としないのか
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』のIMAXリマスター版を鑑賞したので、イノセンスがまた見たくなった。
サンプリングといってもいいくらいの小難し言葉を引用したセリフは、雰囲気だけ感じて聞き流す事にしている。作中で語られる哲学的な命題を考えながら見ていたとしても、択捉の祭りが全てを吹き飛ばしてくれる。
数多くのアニメを見てきたが、この祭りシーンを超える映像にはまだお目にかかっていない
。
インドまで含めた東洋的なものを飲みこんだ中華圏の成れの果てなのか、取り込んでキメラ化した姿なのかはわからないが、傀儡謡とともに練り歩く山車の偉容さに圧倒されて言葉が出てこない。セル版を購入してからこのシーンを何度見たことか。
人間のゴーストを人形にインプリメントできるのか?
できたとして、それは人間と言えるのか?
鑑賞後の思索の時間が楽しい。
フォロ〜ミ〜
オーディオコメンタリー目当て。
Blu-rayやDVDでのオーディオコメンタリーが面白いです。押井守と西久保がコメントしててアニメの見方に役立ちます。
一応大作の予算で贅沢に作られたものですが、監督の押井があまりに独りよがりに作ったので意味が分からず初見では腹が立ちました。
しかし家でリピートしてるとBGM代わりに良いです。見慣れてくるとイラッと感も薄まってきて、マニアックな作りがツボにハマってきます。この映画はブレードランナーに影響を受けている山ほどある映画・アニメのひとつですが、そういった作品はほとんどが得てしてブレードランナーよりわかりやすくなっているのに対して、本作については同じくらいかまたはそれ以上に難解にしようとしています。それがうまくいっているかどうかは別として、ブレードランナーオマージュ作品としては珍しい部類の作品ではあるので、ブレードランナー感覚で見ていると心地よいです。
人間が人形?人形が人間?
"GHOST IN THE SHELL" シリーズ第2作。
Ultra HD Blu-rayで4回目の鑑賞。
原作は既読です。
前作よりも難解。何度観ても難しい。
おおまかなストーリーは理解出来るけれど、格言だらけで煙に巻かれているような気になるし、「何故人は自身の似姿をつくりたがるのか?」と云うテーマに関しても分からない。
「前者は教養不足、後者は理解力の無さだろ?」と指摘されてしまったら、正直ぐぅの音も出ないですが…
[余談]
UHDブルーレイで鑑賞したら、押井守監督が目指した映像美の真髄を堪能出来た気がして感無量でした。前作よりもUHDの恩恵を受けているように思いました。
※修正(2023/04/10)
人形はなぜ人の形をしているか
ここまでくると悟りを開けそう
キム・マッスル尚美(なおみ)さんも心酔!押井守監督代表作で海外でも人気のSFアニメ!
こんにちは。キム・マッスル尚美(なおみ)です。
なんといっても、この映画は日本のアニメの中でも、
海外での評価が高いものになる押井守監督の代表作ともいえます。
むかし、キム・マッスル尚美(なおみ)が観たときは、
表現が怖いと思って、避けていました。
ジョジョを一瞬だけ観て、この画力と表現えげつないと思って、
避けていたのを思い出します。
今考えると、あの時のわたしなにやっってんだ!って感じですが笑
たまたま、この映画を観る機会があり、
最後まで観てみて、押井監督のこの世界観の虜になりました。
大人がみて楽しめる内容でもあります。
いつかこの私たちが生きている世の中にも、
起こりうる可能があるロボットと人間が住む世界、
いったい、どこがその境界線なのか、いつかわたしたちの世界がぶつかりそうな、
リアルな問題を題材にしており、深すぎて理解できない部分もあります。
けど、そのSFの世界観が大好きです。
以上、キム・マッスル尚美(なおみ)さんでした。
絵と音楽が最高
セル画とCGを巧みに組み合わせて映像美を追求したアニメに感動します。これはリアリティ追求し過ぎて、実写をも凌ぐほどの徹底ぶり・・・脱帽。アンドロイド、ガイノイド、セクサロイドといっぱい用語が出てきますが全てロボット(ゴーストを持たない電脳ロボット)だ。
ストーリーの根底はいたって単純で、ロボットが殺人、自殺するという前代未聞の事件を公安9課のバトーたちが捜査するというもの。しかし何故か肉付け部分がかなりのウェイトを占めてこの作品を複雑化しているのだ。特に登場人物の台詞の中には孔子の言葉や哲学者の名言を引用して比喩表現を多用。真剣に考えるとついていけなくなります。また、検査官ハラウェイとハッカー・キムが「何故人間は人間の姿をした人形を作りたがるのか」のようなニュアンスの問いかけをするものだから、観ている側は真剣に悩んでしまいます。
伏線として、「ロボット3原則」なるものがいつ破られてもおかしくない状況への警鐘・・・ロボットを作りすぎるなというメッセージが感じられます。また、バトーの電脳がハックされることの恐ろしさ、警察等の国家権力のネットワークが漏洩すると恐ろしいよ!なんてことも感じました。
電脳じゃないと理解できない
アニメ界のゴダール監督作品
今回『イノセンス アブソリュート・エディション』なるBlu-rayを手に入れて改めて10年以上前のこの作品に触れることにした。
本作は上映当時に映画館で1回、DVDソフト化されたものを購入して1回、そして今回と計3回観たことになる。
押井守作品は実写も含めて結構観ていると思うが、改めて感じるのは映画としては致命的に語りが多いことだ。
ただ凡百の監督と違うのはそれが意味深なために作家性や奥深さが込められているのではないかと観客に納得させることである。
TV版では全くと言っていいほど政治色のなかった『機動警察パトレイバー』に政治を持ち込んだ『機動警察パトレイバー2 the movie』、こちらもやたらと主要登場キャラクターたちの此岸や彼岸で政治信条が語られる物語であった。
とにかく語りが多い。
なので、小難しい映画なんか観たくない!と思う人には全く薦められない。
また本人自身が語っているように人間性には興味がなく社会システムに重きを置く作家性からか実写映画は超絶面白くない。
筆者も実写映画に関しては押井という監督が好きだから観たり買ったりしているにすぎない。
さて本作は『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の続編である。
前作は言わずもがなハリウッドリメイクもされた程の押井の代表作である。
『マトリックス』シリーズを監督したウォシャウスキー兄弟(今は2人とも性転換して姉妹になった)に与えた影響は測り知れないし、ジェームズ・キャメロンもこの作品を観て以降ファンであることを公言している。
押井本人は本作だけを観ても面白いように創ったと強弁しているが、前作を観ないと全く理解できないと思う。
下手をするとTV版の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』や『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』まで観ておいた方がいいのではないかとすら思う。
筆者は『攻殻機動隊』に関しては、TV版、OVA版、劇場新作も含め今も創り続けられるものは全て観ているので、正直なところどこが一般の観客にわかりにくいのかに鈍感になっている。
ただこの難解さは本人も大分意識していたと見えて少しでも売れるように宮崎駿の右腕とも言えるジブリの鈴木敏夫を三顧の礼をもってプロデューサーに迎え入れている。
前作で草薙素子という主役が実体である肉体を捨ててネットの世界にダイブしてしまった後の公安九課を描くのが本作になるが、もうそもそもこの前提が観ていない人には?かもしれない。
押井いわく「説明のつかない事をする人間というものを、人形の側から語ってみよう、そうすれば少しは人間というものがわかるかもしれない、と考えた」らしい。
まあ、???だろう。
観ればわかる!とは言い切れないが、?が1つは減って??になるかもしれない。
また本作は前作の『攻殻機動隊』へのオマージュ的な対比を意図的に演出しているように思われる。
冒頭のロボット製造シーンもそうだし、バトーの水中へダイブするシーン、そして最大の見せ場である敵の本拠地へ殴り込みをかけるシーンを当然のごとく最後に用意し、前作ではバトーが草薙を助けたが、今回は逆になる。
また前作で扉を開くために把手を回して腕がちぎれるシーンへのオマージュも忘れない。
もっとも自分で自作へのオマージュを入れるのはどうなのか、ツッコミを入れる余地はある。
前作同様、西田和枝社中の謡がオープニングそして本編途中で流れることで音楽から映像を盛り上げ、最後はエンディングでも流すことで余韻をもって締める。
特に前作の本編途中でこの謡が流れる際に香港を想起させる雑多なアジア調の街並のショットをいくつもつなげて最後にその人並みに埋もれている草薙を映し出すシーンは筆者の最も好きなシーンであり、この市井の中に埋もれていく個人を音楽と映像だけで魅せる手法を押井は多用している。『パトレイバー2』にもある。
ただ前回は主役の内面を映すシーンとして何気ない日常を切り取っていたのに対して、本作では主役が退場し残された者たちの侘びしさを逆に際立たせるためにあえて街中で祭りが行われている映像を使用することで異化効果を狙っているように思えた。
建造物の特徴や関羽像も登場するなど漢族系の祭りには間違いないが、日本の情緒的な祭りにせずド派手な祭りにしたことでこの効果を増したように思える。
劇中で登場人物たちが語る様々な格言のような片言はどこから引用されているか皆目検討がつかないが、そもそもありもしないディテールをでっちあげて世界を構築する作家であるボルヘスよろしく全くの嘘の可能性もある。
いずれにしてもこのような伏線や罠を張る手法は押井でなければ許されない。
何度観ても新たな発見があるだろうし、逆に何度観ても真の解答にはたどり着けなさそうでもある。
作曲を担当した川井憲次は最近では香港映画の『イップ・マン 継承』にも起用されるなど活躍の場を日本以外にも広げているが筆者には何を聞いても同じ曲に聞こえる。
『相棒』の作曲家である池頼広も数々のアニメに曲を提供しているが、彼の曲も全て同じに聞こえるので、筆者の中で彼ら2人は聞いてすぐにわかる作曲家の双璧をなしている。
そのせいか川井のも池のもなんとなく曲だけが浮いてしまうように聞こえることが殆どだが、押井作品にだけは妙に川井の曲が腑に落ちる。(池も『相棒』だけはしっくりくる。)
また当時映画館で観た時は最先端の映像技術に感じ入っていたが、今観ると車の動きなどがCG然としているなど思ったほどではないことに時の流れを感じる。
事件を解決するためにバトーとトグサは択捉島に向かうのだが、経済特区に指定されたものの施政の所属が曖昧なため無法地帯と化したという設定は北方四島の未来として全くあり得ないシナリオではない。
力を持っているのは前述した祭りの主体である漢族系のようだが、同時に敵の本拠地で話される言語は広東語であり、光と闇の両方を担わせている。
もっとも現在経済成長が鈍化してバブルも既にはじけている現実の漢族たちにはこのシナリオはいささか荷が重いだろう。
今年『CYBORG009 CALL OF DUTY』というアニメの3部作を観た。監督は神山健治という押井の弟子に当たる人物だが、劇中主人公の口を借りて今更ながらのありきたりな戦後平和主義を主張されて面食らった。
押井の著作である『監督稼業めった斬り』を読んで思うのは、彼の思想の特徴は左右の思想を超えたもっと冷たい視点で物事を捉えている点である。
宮崎駿は自身の左翼的な思想に縛られたままゼロ戦を描いたことで『風立ちぬ』において図らずも戦争は否定するが戦争兵器にロマンに覚えるという自身の分裂した感情をさらけ出してしまった。
押井もある意味分裂しているかもしれないが、人間が好きであるがゆえに、左右の思想で争い合っている人類自体が煩わしい!それならいっそのこと論理的な機械を信用する!というひねくれた印象を受ける。
本作はこれだけ書いても書き足りているようには思えないほど奥深い作品である。同時に通り一遍に楽しめる作品ではなく一見さんお断りなのも事実だ。
何度も見たくなる前作と、今作の違い
久々に見ましたが、この映画は押井監督の映像的な集大成であることは間違いなく、別の世界へ飛ばされるような雰囲気は最高です。
がっ、、、
映画として完成度が高いのはやはり前作でしょう。哲学的でありながらしっかりとクライム物、サスペンス物としてのエンターテイメント性を持ち、映像的にも想像を掻き立てる異様さと美しさがあり、何度も見ました(笑)
しかし、今作品は監督のノイローゼ臭が強すぎます。これまでに陰謀系や自我と魂系の作品を扱って来た途中で、あまりにそっち方面にのめり込みすぎてしまったのでしょうか(笑)
シリアスな作品とはいえ、前作には未来への憧れを感じられる雰囲気がありましたが、今作にはそれが無い。
哲学ゾンビでは無いですが、
『証明のしようが無い不安』に執着しすぎているように思えました。
映像的には申し分ないので、もっと映画として、攻殻としてのカタストロフィを押し出して頂ければ私は最高でした。
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