「160307『ディパーテッド』感想」ディパーテッド 水玉飴さんの映画レビュー(感想・評価)
160307『ディパーテッド』感想
『ディパーテッド』は、多様性社会の左翼的理想の欺瞞への皮肉と、過去の遺物と捨て去られたキリスト教的精神文化やこのダイナミズムへの喚起をテーマに込めた、合衆国版真正保守主義の傑作映画なんだろうなぁ。
「この国(合衆国)はねずみの国だ」。
本作品のアイリッシュアメリカンマフィアは、決して合衆国の人種差別問題が白人vs黒人による一方的で単純なものなどではなく、イタリア系、ヒスパニック系、アジア系…、他様々な移民人種への過剰な寛容を煽ってきた合衆国民主主義の政治経済思想の欺瞞の成れの果てとしてのカオスに対する、世界の映画市場向けの分かり易い嘆きの切り口といった風な位置付けの題材なのだと思う。これはスコセッシ監督による『ギャング・オブ・ニューヨーク』の「ファイブ・ポインツ」のくだりでも語られていた。合衆国の多民族多文化共生の実態は、相互差別的な民族感情衝突の入り乱れであり、これを人種の坩堝とか理想的な共生社会とか如何様に言い換えるのは勝手だが、少なくとも私はそんな欺瞞に対して無批判であることは無理だ。ブキャナンのような合衆国の保守論客の言説によれば、オバマ大統領の「我々はキリスト教国だとは思っていない」に象徴されるように、合衆国連邦政府の党派を超えた、新規票田欲しさに目が眩んだが故の軽薄な移民受け入れや所得移転政策(バイリンガル教育援助、フードスタンプなど)により、最早合衆国は伝統的キリスト教精神での社会統合はなせず、代わりに、自由、平等、博愛だとか、多民族多文化共生を標榜する多様性(Diversity)の理想こそをこのナショナリズムやアイデンティティの拠り所に求める他なくなったそうだ。省み、依って立つべき伝統をその政治経済思想的な腐敗によって放棄した理想主義国家は、フランス革命以来のリベラルな理想(自由、平等、博愛)だけに偏重した挙句、理性のみに依拠した脆弱なナショナリズムの底の浅い限界に慢性的に苦しめられ、感情や情念といった根本から公共や歴史に貢献したいと衝動を掻き立たせるような、塩梅のいいナショナリズムを喪失し、ただ自由競争市場への放任のみを尊重し、レバレッジ資本主義に無抵抗であらざるを得ない没規範の統治理念に身を持ち崩し続けている。移民は所得移転政策で保証される恩恵を欲しいままに要求集団としての性質を肥大させ、一方的に要望を適えてくれる福祉機構としてだけの意義を合衆国に見出す。多様な要求集団としてのマイノリティに、連邦政府議員が党派を超えて迎合するので、最早自己本位的という意味合いの強すぎる「多様性」に富んだ合衆国ナショナリズムの乱立は、収拾がつかない。こんなものはナショナリズムではないし、ハミルトンの『ザ・フェデラリスト』の合衆国建国精神とも断絶している。伝統を失った理想に未来は無い。マフィアであろうと州警察であろうと関係なく、組織のまとまりを脅かすスパイ合戦の疑心暗鬼の重圧に終始振り回され続ける物語展開や登場人物らの辛苦が、アイリッシュアメリカンマフィアの存在感と相まって、現代の合衆国の理想にのぼせ過ぎたナショナリズムの欺瞞を象徴しているようにしかとれない映画である。合衆国はねずみで溢れかえっていると。
私は、人類が死を普遍的宿命とする限り、死後への不安に対応する習俗としての本質の定義に適った、いわゆる「宗教」という概念もまた人類普遍の尊厳だと考えている。ただし概念としての「宗教」が人類普遍だというだけで、この実態としての、多様な気候風土に根付いて必然と多様に展開せざるを得ない宗教の多元性、或いはこれを否定する一神教的な普遍宗教、これに対する嫌悪感も又、私の宗教観における一貫した持論である。で、私のおおざっぱな内観哲学によると、人は情念と理性とによって衝動を抱き、これを源に生活し、ともするとこれらによって幸福如何を計ったりもする存在だが、先述の死を含めた、生、性、死の普遍的宿命と、これによって帰結される文明、愛、宗教といった普遍的習俗(の概念)と、更に彼らの生存拠点たる地球惑星の気候風土の多様性などが前提に併せられたところから導き出される、人類にとっての至上の尊厳とは、人類の集団化を促す、この媒介の要としての「信頼」とか「愛」とかいったものであり、しかしこれは関係性当事者に限定された主観を本質とした衝動であるため、第三者による阻害やこれに対応する排他性をも想定させざるを得ない尊厳でもあり、従って人類は、集団化した経済(利害)圏における主体を個人(家計や私的自治や投資家や労働者など)や企業(公益的経営理念とかギルドとか)ばかりでなく政府統治機構にも見出すべきとする当為の集結(社会契約)が、これもまた人類普遍的に迫られざるを得ない存在であり、これは現に歴史学、考古学、文化人類学の成果が立証するところである。ところでここから先、社会統合における社会統制(法制度)の誕生が先か、それとも土着的慣習や宗教的な規範の誕生が先かの疑問については、私はとりたてるほどの見識も興味もないが、しかし少なくとも、そういった様々なレベルの規範の中でも宗教的規範が示す存在感や影響力は看過できないことは確かだと思うのであり、これは繰り返すが、人類の死の不安払拭の目的を本質とした「宗教」から生まれる当為の体系や伝統や精神が、どれだけ人々の暮らしに切実に寄り添った知恵の蓄積であろうかと推論、というか想像をめぐらすだけで一定の納得に及ぶには十分である。何が言いたいか。そのような仮定で、近代以降の国民国家体勢においても、この集団組織を成立させる当為の集結としてのナショナリズムや倫理観、道徳観、そしてこれに併せて勿論のこと、自由、平等、博愛などリベラルな理想論に懸ける情熱における節度も含め、これら全てが宗教的規範の尊厳を抜きに、まともに成立したり効果を発揮できたりする道理は極めて考え難いということだ。日本の場合は神道や八百万信仰が、そして合衆国の場合はキリスト教が、これ抜きにしてナショナリズムのまともな維持は考えられないほどの位置付けの尊厳となる。更に言えば、その厳格過ぎた過去のプロテスタンティズムへの回帰は、ややもするとフランクフルト学派を系譜の祖とする左翼思想、精神文化破壊工作への反動、親和性、大成功を招いたともとれる意味での文化的脆弱性が露呈した合衆国の歴史への反省の欠如にあたるのではないかという危惧から私には、合衆国固有の歴史に刻まれたより大らかなキリスト教精神潮流たる超越主義文学精神に依拠した合衆国ナショナリズム再建の可能性を期待するお節介な持論があったりもする。正直なところ私は、他でもない『ディパーテッド』のディカプリオの台詞から、馬鹿の一つ覚えでホーソンを知ったくちである。真正保守の立場からグローバル資本主義の矛盾を批判するだけで、その実真正の左翼から逆に左翼のレッテルを貼られるような社会風潮は、戦後日本だけでなく合衆国でも同様に存在するようで、私はそんな被害者の一人たるマーティン・スコセッシから極上の保守主義的な教養を頂けた恩義を噛み締めている。
『ディパーテッド』終幕間際で、この惨劇に一矢報いたのは、最早法の規範を超えて、個人的倫理観、或いは義憤の情念に従って犯罪者に身を落とすことも辞さなかった覆面捜査チームの上司だった。社会腐敗の自浄作用は、法の限界を補う、又別の規範の働きに突き動かされる人間の偉大さやこれを育成する良識の土壌としての国民国家のダイナミズムがあってこそ、より豊かに、強靭に保障されるものなのだろう。合衆国の場合、その補われるべき規範の礎こそが、ざっくり言ってキリスト教的精神文化なのだということは、『ディパーテッド』最終シークエンスの、窓際から望むややモスクっぽい形をした教会(現行の多様性への配慮?)の景観と、これを嘲笑し穢すかのようにして横切るドブネズミとの構図画面へのトラックアップによって、強調されているかのようで、少なくともこういった感想を誘発させてくれたりもする。人の法を欺けても、天の神様はちゃんとお見通しだ。これは天誅だ、喰らえ!ついでに合衆国よ、この精神に覚醒せよ!そんなメッセージ性のカタルシスが最後の最後に用意されてるから、この映画は悲劇だけど後味はそんなに悪くないってのが、今のところの私の感想です。グローバル金融資本主義を皮肉りまくる『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も大好きです。