「事実の感動をただなぞった映画か」栄光のバックホーム 暁の空さんの映画レビュー(感想・評価)
事実の感動をただなぞった映画か
私は強烈な野球ファンである。
したがって「横田選手の話」はそれだけで泣ける話。映画化と聞いて、この有名過ぎる話をどう扱い、印象をどう超えるのかと期待していた。
結論から言えば本作は「泣ける」ことを約束された題材を扱いながら、そのアドバンテージに寄りかかった瞬間に映画としての勝負を放棄してしまった印象が強い。事実の凄まじさをなぞれば涙は出る。しかし映画とは、本来その涙の質をもう一段深めるための装置であるはずだ。ところが本作は、観客の感情を“取りこぼさない”ことに汲々とした説明過多の演出で物語の自走力を奪い、観客が自分の速度で感情を掘り当てる余白を消し去ってしまう。これはまさにテレビ的な構造で、映画固有の呼吸が理解できていないのではないかと感じてしまう。
最も致命的なのは、野球映画であるにもかかわらず「身体」を撮るという基本の美学が欠落していることだ。横田役の俳優の身体性と技術が圧倒的に強い一方、北条役は身体の厚みも技術的な滑らかさも不足している。二人が並ぶたび、その差はカメラに容赦なく露呈し、映画はそれを埋めるどころか、むしろ強調してしまう撮り方をしている。フォームの美しさや動作の連動性よりも、常に“顔を撮る”ことが優先されるため、身体の真実が画面に宿らない。これは役者の問題というより、映画が野球という競技の身体性に向き合う姿勢を欠いている結果ではないか。
加えて、端役に大物俳優を多用するキャスティングは、映画世界の密度を乱すノイズとして機能してしまっている。“あの人が出ている”というメタ意識に観客が都度引き戻され、実話が持つはずの没入感が削がれる。さらに野球シーンも、競技そのものを撮るのではなく“感動の背景”として並べられるにとどまり、プレーの因果関係も身体の重さも画面に映らない。野球を小道具として扱うこの態度は、作品全体の誠実さを損なっている。
そして最大の欠落は、本作には“祈り”がないという点だ。誰かの犠牲や献身を扱う実話映画には、本来スクリーンの外の世界へと物語が開かれる瞬間、つまり祈りの気配がある。しかし本作の人物たちは説明され、感動は周到に設計されるものの、その先にあるはずの「この人生が世界のどこに接続するのか」という視点が最後まで見えてこない。祈りがないから、事実の感動にすら映画が追いつけない。涙は出るが、その涙の奥にあるべき深みへ到達しない。結果、一番感動するのが祈りの気配を最も感じるエンドロールのリアル映像になってしまうという現象を起こしている。
「栄光のバックホーム」は、本来なら題材の力を越え、映画として独自の感動を創造できたはずなのに、土壇場でその可能性に手を伸ばすことをやめてしまった作品に見える。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。
