「さよならはベビーブーマーへの挽歌」さよならはスローボールで LukeRacewalkerさんの映画レビュー(感想・評価)
さよならはベビーブーマーへの挽歌
原題は"EEPHUS"。MLB用語で山なりの超スローボールのこと。
結論から言って、私の感想としては「かなりクセは強いが、悪くはない」。
ただし、この映画は少々秘孔を突かれないと刺さらないので、恐らく大いに評価が分かれる映画だろう。
アメリカの田舎町の爺さんたちが、廃止予定の球場でドタバタと最後の草野球をするコメディだと思って映画館に行けば、間違いなく当てが外れる。
平板なストーリー展開にはうんざりして途中退席する人も居るだろう。
さりとて特別アーティスティックな香りの仕上がりでもなく、何かのファンタジーでもない。
なので、低い評価が多くなるのは無理もない。
むしろコアなミニシアターでかかりそうな、カルト的な作品とも言えるが、それでもハコ側としてはけっこう勇気の要る買い付けだろう。繁華街のミニシアターで2〜3週間で打ち切られて、しばらくしてからちょっと郊外に流れて来るようなイメージだ。それでも客席はまばらだろう。
良くもまぁ、ヒューマントラストシネマで初公開したものだと、妙な感心をしている。
この作品は、普遍的な感情を強く揺さぶらない。そういう設計もされていない。
文化や文脈を共有しないオーディエンスを端から無視しているとさえ思う。
もちろん、長年地元の草野球チームに愛されてきた場がなくなることによって、ガキの頃からここで育った中高年たちの「居場所がなくなる悲哀」を丹念に描いている、という意味では共感は(少しは)呼べるかもしれない。
ただ、それではあまりにも陳腐な、今までにさまざまな作品で語り尽くされてきた物語だ。その割には語り口に新味はない。
あるのは、ただひたすらに極私的なノスタルジーであって、その描き方が常軌を逸しているレベルでベタなのだ。
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ほとんど劇伴がない中で、ラジカセから聴こえてくるのは地元商店の宣伝と街のニュースばかり。
それだけでここが半径5km程度のスモール・タウンの世界なのだ、ということが良く分かる。
むしろ、このだらだらと鳴るラジオが作品の最初から最後まで、特定の鑑賞者にだけ刺さるように意図的に使われている。
それは試合が終わって誰も居なくなるダグアウトでも鳴り続けている(あれは誰の持ち物で、誰が持って帰るのだろう?とふと思った)。
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両チームは野次で罵りあっているけれど、全員、お互いの人柄や家族のことを骨の髄まで知っているだろう。
そこには分断すらない。
乗り付ける車に日本車など1台もない。V8の野太い咆哮を発するアメ車のセダンやピックアップ・トラックばかりだ。
それで1970年代の終わり頃か?とも思ったが、温存される隣のサッカー場で若者がプレーしているのが何度か映るので、サッカー人気の興隆と「おやじの野球」の凋落ぶりが対比されている。ということは1990年代末以降かもしれない。
その年代でこの雰囲気ということは、本当にかなりの田舎だと思う。
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季節は、ハロウィン・セールのCMが聞こえるが、別れ際に「良い感謝祭を」と言い合うような、北米では日が暮れればあれほど吐く息が白くなる晩秋だ・・・。
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こんな、極めて特殊でハイコンテクストな設定を煮詰めた作品であることを覚悟しないと、何が何だかわからない。
そういう意味では変態A24の『TVの中に入りたい』に通じるセンスがある。
ただし『TVの中に入りたい』は、現実にあったであろう一種独特なファンタジーチャンネルの番組に囚われ続けるティーンエイジャーたちとそのセクシュアル・マイノリティを重ね合わせていたので、極私的な世界線がわかりやすい。
しかしこの『スローボール』は、一見日本人にも馴染みが深い草野球がモチーフなので、実はそこに描かれた時代性やアメリカ東海岸の中~下層社会のいわば符牒のような表現が却ってわかりにくい。
われわれが感じる脱力系の笑いと、まさに当事者たちであるあちらの人びとが受け取る笑いのほろ苦さは、自ずとまったく違うはずなのである。
恐らくそれは、「アメリカ社会の最後のベビーブーマーへの挽歌」であると思う。
別のYouTubeで、昨年開催された第62回ニューヨーク・フィルム・フェスティバルでカーソン・ランド監督と”エド”役(赤チームの監督兼投手で途中で姪の洗礼式のために居なくなる人)をやったキース・ウィリアム・リチャーズを招いたトークイベント動画が見られる。ここでリチャーズは、映画でのキャラと設定はまさに自分たちのことだという前提で話している一方、自分の年令を61歳と言っているので、つまり1963年生まれだ。
アメリカの「ベビーブーマー」は一般的に生年が1946年から1964年までの幅広い世代と言われている。だからまさに彼らは「アメリカの戦後」を代表し、その世代の最後の幕引きをする役割を持っているに違いない。
また、監督のランドは、東海岸北部のニューハンプシャー州で生まれ育ったと言っている。このことも舞台となったソルジャー・フィールド球場の周囲の森や紅葉、夕方以降の冷え込みを想像させるし、両チームのメンバーの顔ぶれにも頷ける。
多くは白人だが、白人の中にも東欧系のルーツを持つ者やイタリア系らしき人、白人以外ではアフリカ系もわずかながら居る。この顔ぶれはいかにも東海岸だ。
こうした記号がいくつも散りばめられているが、ひょっとするとアメリカ国内だって極端な話、西海岸で生まれ育った人にはまったくピンとこない映画なのかもしれない。
だからこれがカンヌの監督週間部門に選出された、というのが不思議で仕方ない。コンペティション部門でもある視点部門でもないので、勝手に想像すると「かなり変わった監督」をピックアップしたとも考えられる。
最後に。
やや『フィールド・オブ・ドリームス』っぽいキャラクターが一人いた。
突然森の奥から現れた、プレイヤーたちよりちょっと年上の世代の自信満々の男性で、選手不足を嘆く青チームのワンポイント・リリーフで三者アウトを取り、いつの間にか居なくなっている。また森に消えたのか。
スコアブックを付けるのが趣味の観客、老フラニーは「ああ。確かに見たことがあるやつだった」と呟く。
それは、ひょっとするとかつてこの球場でプレーし、ベトナムから帰ってこなかった男かもしれない。
あるいは、この球場の「野球の精」かもしれない。
あるいは、歴代この球場でプレーしてきた人たちの念の化身かもしれない。
しかしそのキャラクターも特に印象付けるような演出ではなく、「あれれ、今の人、何?」と拍子抜けしてしまうような、場合によればいとも簡単に忘れてしまうような位置づけで、さらりと描かれている。
この不思議なキャラの登場のさせ方と見せ方は、『スローボール』という作品のテイストの本質を物語っているような気がする。
そして、原題がなぜ「超スローボール」なのか。
徐々に退場していく世代が、その後のGenXやZ世代にがつんと速い球を投げ込むのではなく、人を食った超スローボールで「打てるものなら打ってみろw」と表現したかったのか。
それとも、もう速球なんか投げられないぜ、勘弁してくれよ、あばよ小僧ども、という寓意か。
超スローボールのイメージと、「最後の記念すべき試合」なのにぐだぐだと終わってしまうことと、冬にはまた集まろうな、という呼びかけに生返事で「ああ」と答えるがたぶんもう絶対に集まらないだろうことと、スコアブックと折りたたみ椅子を脇に抱えて車ではなく徒歩で闇に消えていく老フラニーの後ろ姿が、全部重なってえも言われぬ余韻を残す。
そんな、ちょっと心苦しい映画だった。
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