テレビの中に入りたいのレビュー・感想・評価
全36件中、1~20件目を表示
繊細で大胆で生々しい表現力。刺さる人には刺さるはず
本作に触れた瞬間、なぜか胸が震えた。と同時に、子供の頃のノスタルジーやあの頃の漠然とした不安がこみ上げ、正直、恐ろしくもなった。優しい顔をした亡霊のような、はたまた一向に醒めない夢のような一作だ。手掛けた監督はトランスジェンダーなのだそうで、おそらくあの少年少女は、閉ざされた町で自分に違和感を抱え続ける、かつての監督の分身とも言うべき存在だろう。しかしたとえその状況や心情が重ならなくとも、思春期における「俺はおかしいのか?正常なのか?」という自問は誰もが少なからず共感可能なものではないだろうか。逃げ出したい。でも逃げ出せない。正気が保てなくなる。叫び出したい。そして気がつくと、最近あまりにも年月が経つのが早すぎるーー。A24作品はいつも言語化不能の感情を豊かに提示してくれる。酷評する人もいるはず。意味不明に思える人もいて当然。だが私は繊細かつ大胆なタッチで世界を彩った才能に拍手を送りたい。
個人的に深く刺さるところまでは行かなかったけど 独特過ぎる世界観と...
なんとかジェンダーとかなんとかクライシスとか
10月のファーストデーはバタついてて1本のみ。
冷静に考えると各映画館のサービスデーの方がお得なんだよね。
とはいえなんか1日に映画をハシゴする習慣は気に入ってたり。
さて、本作のレビューは他の方が語っているのでお任せするとして、少し前にネットでバズってたクソださいジェイデン・スミスのほうがウィル・スミスの息子で、ジャスティス・スミスは全然血の繋がりがないことがわかってほっとしました。
あんな有名人二世拗らせた承認欲求の塊みたいにダサい人がこんな演技できるのかー、って思いながら観てたので。人の顔がイマイチ見分けられないのは本当に映画好き向いてないですね。
向き不向きとか好き嫌いとか価値観とか倫理観とか…一度立ち止まってしっかり自分のアイデンティティと向き合うことは大事だなと思いました。
そういや最近ぼーっと光る砂嵐のモニター見てないな…。
それではハバナイスムービー!
A24らしい作品でもこれはストーリー無茶苦茶
A24作品はエブエブや愛のステロイドのように話が複雑でも最後はしっかりまとめる作品も
あれば、関心領域のような歴史や現代社会のガチの作品と幅広い。今回の作品はA24らしく
話が複雑。確かに話は複雑で後半はホラー要素も満載だったが、気になったのはストーリーが無茶苦茶。残念。オチも首をひねる内容。いくらA24でもこれは不出来。今年のワースト作品有力候補。
人生何処かで断絶している気がしてくる
クィア映画を初めて見た。
クィア映画を初めて見た。こういう感じなのか。
TV番組「ピンク·オペーク」にハマる2人、オーウェンとマディ。「ピンク·オペーク」では、敵のボスMr.Melancholyが毎週色んな怪物を登場させ、それをちょっと臆病なイザベルと自由で解放されているタラが、退治していることになっている。
マディはタラと同化し自分自身を見つける(=クィアであることを自覚)が、オーウェンは卵の殻に閉じ込もっていて、臆病なまま。
あなたは孵化しますか?
それともMr.melancholyのLunaJuiceを飲み続けて「甘美な」監獄に居続けますか?
と問いかけられているような気がした。
自分自身(59才男)のことを考えると、小さい頃から疑いもなく男として育ち結婚し子供も3人いるが、割合乙女チックなところもあり、多少理解はできるかな。
A24史上最高の憂鬱
1回目の鑑賞で1mmも理解出来ませんでしたので、再鑑賞しました。結果3分の1ぐらいには理解度が深まりました。
全体的に負のオーラは感じましたが、ノスタルジーやエモーションはほぼありません。中二病ほど知ったかぶりしてる風でもないし、リンチワールドも望めません。映像美に浸るほどでもない。
ただ独自の世界観を最後まで押し通せる力量は、ある意味逞しいと言えます。
中高生時代のマディの口元にうっすらと髭が生えているように見えてしまい、ずっと気になっていました。たまたまそう見えるだけなのか、セクシュアリティの表出なのか。
オーウェンが中年になって胸を割いても、やっぱり空っぽでTVの光しかないっていうのは、ちょっぴりペーソスを感じました。
音楽はよかった。特にパンクボーカルにはとても惹かれました。
【ピンクの混沌】今作品は居場所がTVのみだった少年が、成長する中でも閉塞感を脱せないまま、年齢を重ね、精神に異常を来すメランコリックスリラーである。
ー 1990年代のアメリカ郊外を舞台に、自分のアイデンティティにもがく若者たちが深夜番組の登場人物に自らを重ねる姿を、不穏かつ幻想的に描いたメランコリックスリラー映画。ー
■冴えない毎日を過ごすティーンエイジャーのオーウェン(ジャスティス・スミス)にとって、毎週土曜日の22時30分から放送される謎めいたテレビ番組「ピンク・オペーク」は、生きづらい現実を忘れさせてくれる唯一の居場所だった。
オーウェンは同じくこの番組に夢中なマディ(ジャック・ヘブン)とともに、番組の登場人物と自分たちを重ね合わせるようになっていく。
しかしある日、マディはオーウェンの前から姿を消してしまう。
残されたオーウェンは、自分はいったい何者なのか、知りたい気持ちとそれを知ることの怖さとの間で身動きが取れないまま、時間だけが過ぎていくのであった。
◆感想
・今作品はA24本来の、若手映画製作者に思った通りに作品作りをさせるスタイルを貫いている。
・故に、アーティスティック過ぎるシーンも多数あるが、私はこれで良いと思う。
・今作品では、劇中に流れる曲も格好が良い。特にゴシックパンクの曲を演奏するシーンかな。
◼️劇中で、歳を重ねたオーウェンが昔、夢中になって観た"ピンク・オベータ"を観て、”全然面白くない"と呟くシーンがあるが、それはオーウェンが成長した事を意味しているのだが、彼は自分の成長を受け入れられず、精神を病んでいくのである。
そして、それは、失踪したマディも同じなのである。
<今作品は、青春期の閉塞感から抜けられずに、年齢のみを重ねた男女の姿を、シニカルに描いたメランコリックスリラーなのである。>
<2025年9月28日 日本最古の営業映画館長野相生座・ロキシーの相生座にて鑑賞>
<2025年9月29日 追記>
◼️さあ、今から宴会じゃなかった、歓迎会だあ。お仕事、お仕事。呑み過ぎ注意だね!と昨晩書いたけれども、飲み過ぎた・・。
残念ながら、私には向いておりませんでした。。
短い期間で続々と公開が続いているA24作品、ハピネットファントム・スタジオさん、頑張ってます。
以前に一度だけ劇場でトレーラーを観た記憶がある本作。その時はあまり自分向きな作品ではないように思えていたのですが、公開が近づくにつれて評判が聞こえだし、特に業界方面はザワついている様子。と言うことで、用途が決まらないまま使用期限切れが目前に迫ったU-NEXTポイントを使い、ヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞することにしました。
毎週土曜日22時半。謎めいた深夜のテレビ番組『ピンク・オペーク』に激しく傾倒している少女/女性・マディ(ジャック・ヘブン)。そして、そんなマディと出会い彼女に“通じるもの”を感じて自らの意思で『ピンク・オペーク』にのめり込んでいく少年/男性・オーウェン(ジャスティス・スミス)の30年に渡る人生。時代の変遷とともに“見方・見え方”も変わり、戸惑いつつも自分の本質についてこだわって探し続けるオーウェンの“行き着く先”は…
と言うことで感想ですが、、惨敗ですね。ごめんなさい、私には正直解りませんでした。。元々「理屈」に頼るタイプの私にとって、この手の作品はいちいち自分が解らないことにこだわってしまい、ストーリーやその中にあるメッセージについていけなくなりがち。本作の場合、冒頭の展開までは問題ないと思っていたのですが、全般を通して独特すぎる表現や編集のアレコレに理解が追いつかなくなり、自己防衛本能が働いて正直何度か気を失っていたような気がします。
勿論、理解できないものに対しそれだけの理由で作品を否定する意図はありません。むしろ、「あゝ、これこそA24作品だな」と感じるようなクリエイター・ファーストを地で行く(将来的にも)重要な作品なのだと思います。ただ、トレーラーを観た際の印象は間違ってはおらず、“自分向き”な作品ではなかったと言うこと。なので、低い点を付けてしまうこと、何卒ご理解いただけますと。。ご容赦ください。
TV Maniacs
予告すらほぼ見ないまま鑑賞。
自分は22時半で“深夜”番組ということに驚きを隠せない夜型人間ですが。笑
『ピンク•オペーク』をきっかけに親しくなったオーウェンとマディ。
番組を見るためにオーウェンがマディの家に訪れるところから話が動いていくが…
正直よく分からないし、まったく刺さらなかった。
オーウェンの疎外感や閉塞感は台詞のみでしか語られず。
“2年後”の会話や他の映画評から、ジェンダーアイデンティティを扱ってはいるらしい。
しかし抽象的過ぎて自分には理解が及ばない。
更に“8年後”、戻ってきたマディは「『ピンク•オペーク』の世界こそ現実だ」と言う。
これを妄言として突き放したオーウェンの元には、二度とマディは戻ってこない。
それが真実かどうかは多分どうでもいいのだろう。
そこからまた20年も時間を飛ばし、その中でオーウェンは妻子をもったことが語られる。
ただ、意味深にもこの“家族”は影すら映らない。
最後は錯乱したオーウェンで終わり、これはアイデンティティと向き合わなかった末路か。
表現が分かりづらい上に、ひたすら横顔のアップを映すマディの一人語りなど退屈が過ぎた。
独白もモノローグもあるのに、第四の壁を越えた語りかけまであって胃もたれ。
あと個人的にはせめて“8年後”までで締めてほしい。
少なからず存在するのだろうが、おっさんになってまだ現実と折りあえてない様は見てて痛かった。
テレビの中に入りたい(映画の記憶2025/9/28)
シーズン5で1000話超え!?
アメリカの郊外で暮らす中学生の男の子が、同級生の女の子に教えてもらったTV番組「ピンク・オペーク」にハマって行く話。
マディの家にお泊りに行って、毎週土曜日22:30から放送されるヒーロードラマ?「ピンク・オペーク」をオペークを教えて貰ったけれど、オーウェンの就寝時間は22:15と決められており観られません!ってことで、録画して貰ったビデオで鑑賞!となって行くけれど、見る順番はぐちゃぐちゃなので?そして良くわからないけれど初回はPILOT?
なんだか不思議な女子2人組ドラマのピンク・オペークを観続けたけれど、環境が変わってマディは引っ越してしまい、取り残されたオーウェン君ががるぐるぐるぐるぐる…そしてマディが現れこいつマジか!?
現実とドラマが交錯しなんだか良くわからないことになっているけれど、アイデンティティ云々ってそういうこと?
スリラーといえばそうなのか?
どういうことかはなんとなくは分かったつもりだけれど、ちょっと自分には理解できない話しだった。
「自分」とは?
家庭での居場所や性的アイデンティティについての自分探しをする若者達の右往左往を独特の映像美(と言っていいのか否かわからんが)で描く、いかにもA24な作品。
TV番組と現実との区別が曖昧になっていく描写を通じて、物事を認識する主体としての「自分」がいったい何処に居るのか、さらに、その「自分」の知覚が実際に目の前で起こっている出来事の忠実な反映なのが、脳内の神経回路で生じたそれっぽい情報伝達が生んだだけのバーチャルなイメージなのかも分からなくなっていく。
自分の内側を覗いて空っぽだったら怖い、みたいな台詞が象徴的なのだか、そもそも「自分」なるものが存在する、という前提で考えるから出口が見つからない訳で、仏門に入って、自分なんて「空」だぜ、と悟ってしまえばOKじゃないのかな、というのは意地悪かな。
主役2人の、様々な場面での居心地の悪さの描き方が独特で面白かったのだが、監督もこの2人も性的アイデンティティについて少数者に属するらしい事と関係してるかどうかはわからない。
徹底して「出口がない」表現が痛々しい。
予想していた内容とは違っていた。ジェーン・シェーンブルン監督はトランス女性でノンバイナリーである。90年代中頃のアメリカの田舎町ではキュアな指向をカミングアウトするのはとても難しかった、その体験を作品として取り上げマイノリティを勇気づけるというようなことをインタビューで話していたのだが。
主役のオーウェンは母親を病気でなくし、父親とも血の通った関係性にない、おそらくはほとんど友達もいない孤独な少年である。「どれだけ掘り下げても自分が見つからない」というようなことを言っているので広い意味ではキュアな傾向にあるのかもしれない。一方、彼に「ピンク・オペーク」の存在を教えるマディは同性愛者であると自分で述べているし「ピンク・オペーク」の内容(少なくともオーウェンの目に映る限り)は性的に規範外である匂いはする。でもこの映画は性自認や性指向は主題ではないのかも。
1996年が起点で、その2年後、その8年後、さらに20年後と時制が進んでいく。この間、オーウェンは多分、一度たりとも町を出ていないのである。両親の残した家に住み、最初は映画館に、その後はゲームセンターに勤める。家族を持ったとのモノローグがあるがその姿は示されない。
徹底的に地元暮らしなのである。閉じ込められているといっても良いかもしれない。彼が外界と接したのは、「ピンク・オペーク」とマディだけ。でも「ピンク・オペーク」は10年後、配信で見直してみたら全く違う印象の作品だったし、マディについては2回も裏切ったという罪悪感が残る。ひょっとしたら「ピンク・オペーク」もマディも彼の心が見せるまぼろしだったのかも。それならば彼の人生は一体、何だったのか?映画は最後、おそらく喘息の新薬の副作用でフラフラになった彼が、ゲームセンターの中で誰彼構わず「すいません、すいません」と謝って回る痛々しいシーンで終わる。(マディには謝らないよう言われていたのに)
生きることの徒労感、出口が見えない不安感が、オーウェンと同じ世代(日本で言えば氷河期)の人たちに共有化されたことがこの映画がアメリカで拡散され支持された理由じゃないだろうか?
映画の中に入りたい…
■ 作品情報
監督 ジェーン・シェーンブルン。主要キャストは、ジャスティス・スミス、ジャック・ヘヴン、ヘレナ・ハワード、リンジー・ジョーダン、フレッド・ダースト、ダニエル・デッドワイラー。脚本 ジェーン・シェーンブルン。製作国 アメリカ。プロデューサー エマ・ストーン、デイブ・マッカリーほか。A24製作作品。
■ ストーリー
1990年代のアメリカ郊外。冴えない日々を送るティーンエイジャーのオーウェンは、毎週土曜深夜に放送される謎のテレビ番組「ピンク・オペーク」にのめり込んでいた。「ピンク・オペーク」は、イザベルとタラという二人の少女が「ミスター・憂鬱(メランコリー)」の送る怪物と戦うヒーローものだという。同じ番組の熱心な視聴者であるマディと出会った彼は、二人で番組の登場人物たちに自分を重ね合わせ、生きづらい現実を忘れられる唯一の場所としていた。しかし、ある日突然マディはオーウェンの前から姿を消す。一人残されたオーウェンは、自らのアイデンティティや真実を知ることへの葛藤を抱えながら、漠然とした不安の中で時を過ごすことになる。
■ 感想
全体としては、まるで90年代のアンダーグラウンドな空気感に吸い込まれていくような感覚に陥ります。少年オーウェンと少女マディが、架空の深夜番組「ピンク・オペーク」に自分たちの居場所を見出す姿は、多くの人が経験するであろう「自分探し」の切実さを象徴しているように感じられます。
しかし、正直なところ、物語の核心や登場人物たちの内面に深く共感するまでには至りませんでした。思春期の漠然とした不安、理想と現実のギャップ、そして性自認といったテーマはなんとなく感じます。そんな思いが絡み合って、マディは現実からの逃避を選んだのでしょうか。
一方で、マディについて行かなかったオーウェンは、マディほどの強い不安や不満を感じていなかったということでしょうか。それとも彼女のように一歩踏みだす勇気が持てなかったということでしょうか。そして、大人になった今、当時を振り返りつつ、選ばなかった方の選択肢を思い描いたり、選ばなかった後悔に苛まれたりしているということでしょうか。
まさに「ピンク・オペーク」が特定の視聴者に深く刺さったように、この映画もまた、観る人を選ぶ作品なのかもしれません。深く没入し、自らの体験と重ね合わせることで、唯一無二の感情を呼び起こされる人もいるでしょう。ただ、残念ながら自分にはそこまで刺さることはなく、むしろもう少し「映画の中に入りたい…」と感じるような作品でした。なんとも理解し難い作品です。
Show
青臭く、しかし一生に関わる問い「本当の自分探し」を突きつける快作!
A24がまたまたやってくれた!という感じである。直近で劇場で観たA24の『異端者の家』『シビル・ウォー』よりもさらに作家性が高く、わかりにくい。見る人によって解釈が変わる映画、内省を促すような映画ではないだろうか。
A24らしい含意の豊富なシナリオ、映像美(ネオンの光を生かした暗い画面が美しい)、凝った編集が見事だ。さらに音楽も、馴染みのないジャンルのものだったけれど、シナリオを進行させる重要な役割を負っていて、それぞれの曲が味わい深い。
これまでのA24作品と同様、映画館の暗闇で、そしてちゃんとした音響設備で、あれこれ内省したり、考察するといい映画だと思う。
そんなわけで、僕なりの解釈で考察してみたい。
無料配布のパンフレットには「若者たちの〝自分探し〟メランコリックスリラー」とある。「自分らしさってなに?」「本当の自分って何者なの?」「自分はどうしたいの? 何が好きで、何は嫌なの?」こういったいわゆる実存的な問い(=自分探し)をテーマにした映画だ。
この映画では「テレビを見る」という行為が主人公たちの自分探しの方法となっている。主人公の二人、オーウェンとマディが熱中し、大人たちから隠れてみる番組は「Pink Opaque」。ふたりの平凡な若者が、人知れず絶対的な悪のミスター・メランコリーと戦うという30分の連続ドラマである。
Opaqueは「不明瞭な/わかりにくい」という意味もあるようで、実際その番組は映画中でも何度も流されるが、確かに寓話的でわかりにくい感じだ。そして、この映画『テレビの中に入りたい』もまた、ふたりの平凡な若者が同志となって、得体の知れない何かを探し戦う物語であり、それを暗闇の中で見る私たち観客がさらに重なる。
つまり「テレビの中(Pink Opaque)/その番組を見るオーウェンとマディ/その二人を見る私たち観客」という三重構造で「自分探し」が描かれている。
「本当の自分」という問いは、多くの人が思春期にぶつかる。その後、学校や会社、家庭での役割(仮面・ペルソナ)を引き受けることで、それを問うこと自体を忘れていく。それが社会性を身につけ、責任ある大人になるということだ。
だから、多くの場合は「本当の自分」という問いにぶつかっても、答えを出さずに(出せずに)その問いを棚上げにして、社会の中で自分の役割を見つけていくことで、安定した自己をゆったりと形成していくことになる。
しかし、近年の社会のリベラル化・多様性尊重によって、この映画に描かれる主人公たちのように、10代で答えを出す必要に迫られるようになっていると気付かされた。
監督ジェーン・シェーンブルン自身がノンバイナリーということもあり「彼/彼女/彼ら」にとって「自分とは誰か」という問いは、単なる思春期的悩みではなく、生存の基盤そのもののはずだからだ。
主人公ふたりの冒頭の会話がその状況を象徴している。
父親が遅くまでテレビを見ることを許さないオーウェンは、家を抜け出してマディの家で「Pink Opaque」を見せてもらう。そしてもうまた一緒に見てもいいかなと言う。そこでマディは、オーウェンに「私は女の子が好きなの」と伝える。
これは異性として好意を持たれることへの警戒でもあるし、同時に思いやりでもあるだろう。性的自認や嗜好が自由で多様な社会においては、事前に自分の嗜好をオープンにして、その同意の上で、関係性を深めるということが作法として必要なのだろう。
マディはオーウェンに「あなたはどうなの?」と質問する。これは、オーウェンの性的嗜好を問う質問でもあるし、もっと幅広く「あなたはどういう人なの?」という問いでもある。
ここで戸惑いながらのオーウェンの答えは「僕はテレビが好き」だ。可愛らしくて笑えた。しかし、それに続くセリフには深く考えさせられる。
「そういうことを考えると、誰かがスコップで僕の中身をえぐり出しているみたいに感じるんだ。中には何もないのがわかっているのに、怖くて自分でも確かめられない」
中学1年生のオーウェンは、自分が異性愛者なのか同性愛者なのか、そして、どういう価値観を持った人間なのかもわからないのだ。でも、そこで出てきた答えが「テレビが好き」。その中に何か人生の真実が見つけられそうな予感があって、それが彼の正直な答えだったのだ。
中1のオーウェンは未熟だけれど、すでに大人の僕らだって同じく未熟だ。本当の自分は何で、心底からどんな欲求を持っているのかなんて、何年生きてきてもしっかり認識し、言語化するのは困難だ。
マディにはこの苦しさが十分にわかっている。だから、それを率直に表現したオーウェンに彼女は心を許し、同志であると承認することになる。そして、オーウェンに自分の一番大事な本音を伝える。
「時々思うの。ピンク・オペークは現実よりもリアルに感じることがあるって、わかる?」
マディも真実はテレビの中にあると直感しているのだ。未熟な若者同士の、この切実な対話がこちらを揺さぶってくる場面だった。
(いきなり日本人論になるけれど)オーウェンとマディの苦悩は、明治初期に実存の課題に向かって自分が空っぽであると苦悩した夏目漱石とも重なるし、河合隼雄がユング心理学を学びながら「日本人の無意識の底には統合すべき自我がなく、中空(からっぽ)だった」と発見して(おそらく)苦悩したこととも重なって見えた。
自分の内面に、自分が頼りとする価値や本当の欲求を見つけるというのは、自分の確からしさを確認し、自信を持って生きるために必要なことだ。
しかし、明治の近代化以来、私たち日本人は価値観や制度、学問的な成果の全てを欧米から輸入して、自分の内面を掘り下げることを放棄した。それによって明治期は強い軍隊を作り、大戦後から現在までは強い企業戦士・資本主義の戦士を作り上げることにつながっている。
その副作用が、本当の自分=アイデンティティ不在。世間(=空気)や権威や所属する社会的価値観などに従順に生きることで、調和と成長を成し遂げてきて、それは良いことでもあったのだけれど、でもその反面、現在の日本人は自分の内的欲求を見失い、その結果「世界で一番自分の所属する会社」を内心では憎んでいるし、高い生きづらさを抱えて生きることになっている。
テレビ番組ピンク・オペークの絶対的な悪ミスター・メランコリーとは、ジョージ・オーウェル『1984』のビッグブラザー(あるいは村上春樹『1Q84』のリトルピープル)のようなものだと思う。
それはつまり、本当の自分に気づくことを妨げて、何かもっと大きなものに巧みに従属させようとするシステムの象徴だ。そして、マディはそうした社会システムに飲み込まれることを拒絶して、その先に見つかるかもしれない「本当の自分探し」という戦いに身を投じることを選び、オーウェンはその戦いから逃げ、虚しい日々に戻っていく。
ただし、映画は「マディが自分らしく生き、オーウェンがその勝負から逃げた」という二元論で描いているわけではない。マディの行方も決して明るいわけではなく、破滅の予感をはらんでいる。「戦うか/適応するか」という二択自体が問いであって、どちらが正しいかは示されない。
オーウェンには、夜10時以降テレビを見ることを絶対に許さない強い権威者である父親が家にいる。この父親は、社会システムや空気の象徴でもあって、オーウェンはその巨大な権力にはとてもじゃないけれど抵抗できないことを実感している。
10代のマディのシステムを拒絶して戦う方法も、完全にシステムに従属する方法も、残念ながらこの社会ではうまくいかないことになっている。
おそらく正解は「本当の自分」という探索対象は、とりあえず棚上げして、まずは学生や職業人として、あるいは家庭の夫や妻、父や母として、あるいは地域社会や国民の一人として、役割の仮面をかぶって、そこで十分社会的に貢献できる人物であることを示し、自分でも確認することだ。それによって、自分を安定させることができるし、ミスターメランコリーと戦う強さと自信を手に入れることができる。
マディのドロップアウト的生き方が困難なのは自明のことだけれど、現代的な問題はオーウェンのように完全に社会と調和して、自分を押し殺して生きることを選ぶことだと思う。社会との調和は、それなりに快適だ。社会(周囲)こそが自分を必要としてくれ、承認を与えてくれるからだ。だから、なおさらその期待に応えることを大切にして、調和し適応することを自ら引き受けていくことになる。しかし、それは自己を失っていくことでもある。
大人になった24歳のオーウェンも映画館での仕事という自分の身の丈にあった居場所を手に入れて、誠実に立派に生きていることが示される。そこにマディが再び現れる。
オーウェンには、これが最後のチャンスだった。マディと共に本当の自分探しの旅に出ることができた。しかし、オーウェンはそれを選択せず、というか「何も自分では選択しない」ことにして、戦いから逃げてしまう。おそらくそれは懸命なことだったのだけれど、その挙げ句の果ての54歳のオーウェンが最後に描かれる。
54歳のオーウェンは、かつてはPink Opaqueの中に感じ取ることのできた「本当の自分らしきもの」が、全く感じられなくなってしまっていた。それはなぜかといえば、「本当の自分」への問いを捨てて、(父に象徴される)社会や権威に適応することだけを基準にして生きたからだろう。
54歳のオーウェンはすっかり体力も心も弱くなり、廃業した映画館から変わったゲームセンターで相変わらず働いている。職場で体調を崩し、休憩室で休憩した後、職場に戻ったオーウェンは「すみません、薬が合わなくて、体調が悪くなっちゃいました」などと、周囲に語りかけながら働き続ける。そのオーウェンの声は誰も聞いていないし、オーウェンも特定の人に話しかけているわけでもない。
周囲の〝空気〟に「私がここにいることを許可してください」「私を承認してください」と言っているのだ。痛々しい場面だ。
そして、私たち多くの日本人にとって他人事ではない。昭和の大ベストセラー山本七平『空気の研究』で書かれた通り、私たち日本は内的基準ではなく〝空気〟を基準に生きている。そして、これは決して昭和限定の話ではないし、この映画でも同じテーマが描かれるということは、世界的かつ現代的な課題だということなのだろう。
繰り返しになるけれど、周囲の空気に適応して生きることが悪いことだとも言い切れない。そうするからこそ、その場に適応し、周囲から承認され、倫理的な安定した生き方をすることができるからだ。
ただ、この映画の寓意は、そうしたときに残る何らかの違和感、本当の自分はどう感じているのだろうという青臭く中二病的な問いを完全に捨ててしまってはいけない、ということではないだろうか。
ユングは中年期以降に「個性化」という課題が現れると言った。少なくともかつては焦ることはなかったはずなのだ。オーウェンにとっては24歳が最後のチャンスであったけれど、僕らにとっては、彼が封印した問いを持ち続けることで、人生の中盤以降に「本当の自分」と向き合う時間が必ず訪れる。 家庭の夫や妻、父や母、社会での職業人という役割(仮面・ペルソナ)は次第に不要となるものだからだ。
しかし、そこまでに「できる職業人」とか「良き家庭人」という役割だけに全てを振り切ってしまうと、オーウェンのように空虚に同化した人生後半を生きることになるかもしれない。それがこの映画の残酷な寓話性である。
この映画を見終わって、Apple Musicで英題 “I Saw the TV Glow” で検索したらサントラが見つかった。サントラを聴きながら歩く銀座の街は、現実感を失って、虚構のシステムで作られているかのようでもあり、不思議な浮遊感を味わいながら、考察することになった。
若い人向けの映画のようだけれど、むしろ、生きづらさをわずかでも感じる人なら、世代に関係なく観てみて、自分を振り返る材料になる映画だと思う。
予告が100点だった
予告と本編で使われているyeuleの「Anthems For a Seventeen Year-old Girl」。これが刺さりすぎて期待度が上がりすぎてしまった。
観ている最中は「なんか面白くなりそうで面白くならないなぁ」と思いながら見ていた。しかし刺さる人には刺さりそうだなという印象だった。
もちろんいい点はあり、最初に述べた曲や他のサウンドトラックがUSインディーだったりドリーム・ポップ系統の音楽で統一されていてこの映画の世界観や映像とてもマッチしていた。
現実なのか妄想なのかその境目がよくわからない演出も最近の映画ではあまりなかったので久々にこういうの見たなぁと言う感じ。
観終わったあとCINRAに載っている監督インタビューを見たら何を伝えたいのか腑に落ちた。
しかし、伝えたいことを抽象化しすぎて映画自体の面白さが半減してしまっているように思える。
全36件中、1~20件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。