「アメリカのリベラル衰退を憂うPTA渾身のエンタメアクション!」ワン・バトル・アフター・アナザー デッキブラシと飛行船さんの映画レビュー(感想・評価)
アメリカのリベラル衰退を憂うPTA渾身のエンタメアクション!
やれやれ、エンタメ映画であってもポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は解釈の難しい内容を突きつけてくるな。
まあ長年のPTA信者にとっては慣れっ子だがw
今回のこの物語は一応ディカプリオ演じるボブが主人公だが、物語の中心はボブではない。
前半はボブの妻のぺルフィディア、後半はボブの娘のウィラの物語になっている。
ボブは登場時間はいちばん長いものの、話の中心にはいない。
前半のテロはぺルフィディアが計画したものでボブはあくまで手伝っている立場。(オープニングで自分が作った爆弾をどう使うのか理解しておらず、ぺルフィディアに聞いていた)
後半のウィラ逃亡に関しては、皆の関心はウィラに集中していて誰もボブの存在を問題にしていない。(ボブが娘のために必死になりすぎて空回りする様は滑稽なほど)
このストーリー構成から分かるのは、社会的権利の獲得を目指して戦う黒人女性と、それを全力でサポートする人のいい白人男性という構図。
言い換えると現代のアメリカ社会で最も地位が低い黒人女性が社会的地位を得るには、当たり前に社会的地位を持つ白人男性(特にリベラル層)の理解と支援が必要ということ。
(黒人女性独力では何もなし得ないほど社会の差別の壁が厚いという現実)
PTAはその残酷な現実をエンタメの構図の中に見事に落とし込んでいる。
権力を持つ富裕層は立場の弱い移民や貧困層を隷属化して権利を踏みにじり利益を搾取する。
実際ぺルフィディアは武力革命に失敗し、軍人ロックジョーに性的に搾取された上アメリカ社会に居場所を失って姿を消す。
そして『クリスマス冒険クラブ』と名乗る白人富裕層の秘密組織は、異人種浄化を唄いながら食品工場で不法移民をこき使っている。
またロックジョーは私利私欲に満ちたウィラ捜索をカモフラージュするために、でっちあげの理由で軍事作戦を実行。正当な移民街を令状なしに一斉摘発している。そして抵抗する者は皆逮捕。移民にとってはただのとばっちりでしかない。
権力者は法を無視して好き勝手出来るが、底辺の無力な人々は権力者の都合でひたすら踏みつけられて自由など全くない。
この物語は自由の国アメリカが抱える欺瞞を容赦なく炙り出しながら進行する。
物語前半、ぺルフィディアは銃を手にして武力による社会変革を目指したが失敗する。理由は軍資金獲得のために押し入った銀行で警備員を撃ち殺してしまったためだ。
どんなに立派なイデオロギーを掲げても、殺人は正当化されない。(特に殺した警備員は同じ黒人だったので言い訳の余地がない)
つまり暴力はエスカレートしていくものなので、武力革命を目指せば遅かれ早かれこの結果に辿り着くことになる。
ぺルフィディアは怪我を負って逮捕されるが、それはぺルフィディア自身が武力による革命に限界を感じ挫折したことを意味する。
その結果、ぺルフィディアは司法取引に応じて仲間を裏切り、ロックジョーに性的に搾取された上、アメリカに居場所を失って姿を消す。
このぺルフィディアの武力革命失敗〜逮捕〜裏切り〜失踪までの一連のシーンを、PTAはほとんど説明無しにキャラクターの行動だけで表現している。(PTAは演出だけでなく脚本も天才)
そして15年後の物語後半、ウィラは理不尽な理由によりロックジョーに追われる身になり、銃を手にして身を守ろうとする。
そんな娘を助けようと、ボブも銃を手にして奮闘するが何をやっても空回り。上手くいかない。極めつけは娘のピンチに駆けつけようとするも間に合わない。
15年の間にボブがここまで役たたずになっているのは、現代のアメリカにおいて平等や自由主義を掲げるリベラル層の右傾化が進み、結果としてリベラルの力が弱まっていることをメタファーとして表現しているからだ。
ということは相対的に保守や極右の力が強まっており、それが移民街の一斉検挙や教育現場での軍の捜索という形で描かれている。
16歳までボブの庇護の下すくすく育ったウィラは、いきなりそんな差別と抑圧の渦中に放り込まれることになる。
そしてかつてのテロ組織の生き残りに保護されたウィラだが、その場所は荒野のただ中にポツンとある教会。
(組織が弱体化して孤立し、頼りない存在であることを現している)
当然ながら容赦なく襲ってくるロックジョーの軍隊に対して、組織はあまりにも無力。
ウィラは捕らえられ、生き延びるために逃亡する。そして終盤、銃を手にとって襲い来る殺し屋を返り討ちにし身を守る。
この一連のシーンではウィラのたくましい成長が描かれているが、ウィラは人を殺したことによって一時的にメンタルを病み、駆けつけたボブが誰か分からなくなるほど混乱状態になる。
このシーンから分かるのは、ウィラは母親のペルフィディアとは違って殺人に耐えられるほどメンタルが強くないということ。
そしてまた、ペルフィディアもウィラもボブも、3人とも銃を手にして目的達成を計り失敗しているということがここまでのストーリーで分かる。
(ウィラの場合は一応成功するが引き換えにメンタルをやられる)
特にボブに至っては、忍者道場のセンセイから銃を借りウィラの救出に向かうが、移民街の一斉摘発に巻き込まれ銃を紛失。
そして再びセンセイから銃を借りて教会に向かうが、ここでも結局ウィラの救出に失敗する。
ここまでくどく銃による失敗を印象づける事で、PTAは銃に頼った安易な目的達成をこの物語の中で完全に否定している。
もっと踏み込んで言うと、銃社会のアメリカを痛烈に風刺した表現と言ってもいい。
(ちなみに軍による一連の軍事作戦は、左派テロ組織を壊滅させ、移民街でセンセイが匿っていた不法移民を地下に追いやり、一時的には成功する。しかし最終的にテロ組織の生き残りは平和デモの道を選択するので、ここでも銃による思想弾圧は失敗したことが描かれている)
物語終盤、ボブが娘のウィラにぺルフィディアからの手紙を渡すシーン。父親であるボブがずっと娘に言えず隠し続けてきた秘密を打ち明けるわけだが、ウィラはここで実父がボブではないことを打ち明けることも出来た。(ストーリー構成的に打ち明けるならこのシーンしかない)
だがウィラは打ち明けなかった。ボブのぺルフィディアに対する思いを傷つけたくなかったからだろう。
スマホを持ってることを隠していたのは完全に利己的な理由だが、実父がボブではないことを打ち明けなかったのはボブに対する愛ゆえの配慮。
ウィラは物語の最後にひとつ成長して革命活動に身を投じていくことになる。
そしてそのウィラを送り出すボブはスマホいじりに夢中になっていて、もう革命活動には参加していない。
このラストシーンには、黒人女性を含めた社会的マイノリティーが自尊自立して生きていける世の中になって欲しいというPTAの願いが込められているように感じた。
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