「作家性の強い監督が、豪華俳優陣とビッグバジェットで描く意欲作」ワン・バトル・アフター・アナザー 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
作家性の強い監督が、豪華俳優陣とビッグバジェットで描く意欲作
《IMAXレーザー》にて鑑賞。
【イントロダクション】
レオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ共演のアクションスリラー。かつて革命活動をしていた男が、娘を救う為に立ち上がる。
監督・脚本は、『ブギーナイツ』(1997)のポール・トーマス・アンダーソン。トマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』原作。
アンダーソン監督初のIMAX作品である本作は、映画史上初の全編1.43:1のフルスクリーン上映。
【ストーリー】
極左革命グループ「フレンチ75」。そこのリーダー格の女性、ペルフィディア・ビバリーヒルズ(テヤナ・テイラー)は、爆発物に精通する“ゲットー”ことパット・カルフーン(レオナルド・ディカプリオ)らと共に、カリフォルニアの移民収容所から移民を解放する為、夜間に奇襲を仕掛ける。ペルフィディアはそこで、収容所の指揮官スティーヴン・ロックジョー警部(ショーン・ペン)を出し抜き、屈辱的な仕打ちをする。
収容所の一件を皮切りに、ペルフィディアとパットは強烈に惹かれ合っていく。しかし、ロックジョーもまた、ペルフィディアから受けた屈辱的な仕打ちからマゾヒズム的な異常性的執着を見せるようになり、彼女の動向を追う。「フレンチ75」は政治家の事務所や銀行を爆破し、過激な革命闘争を繰り広げていく。ある日、ロックジョーはトイレで爆弾設置作業をしているペルフィディアに迫り、モーテルでの密会を約束する。
やがて、ペルフィディアは娘のシャーリーンを出産する。パットが革命活動から退き、娘の育児に専念しようとする中で、彼からの愛情や革命活動を優先するペルフィディアは、母親になる事を拒否し、銀行強盗の際に警官を射殺した事で逮捕されてしまう。ロックジョーは司法取引を持ちかけ、ペルフィディアは仲間の情報を密告し、証人保護プログラムによって釈放され、ロックジョーの用意した邸宅で生活する事になる。
一方、パットはシャーリーンと共に“ボブ・ファーガソン”“ウィラ・ファーガソン”という偽名を手に入れ、逃亡生活を余儀なくされる。ペルフィディアはロックジョーの監視から逃れる為、夫と娘を捨ててメキシコへと逃亡する。
16年後、ボブとウィラは不法移民に寛容な政策を取る、通称“聖域都市”であるバクタン・クロスの森の中で2人暮らしを送っていた。
ボブは酒とドラッグに溺れ、すっかりダメ親父になっていた。一方、ウィラはティーンエイジャーとして立派に成長しており、ボブとの間には溝が出来ていた。
ロックジョーは不法移民の逮捕や収監の功績から警視にまで昇進しており、白人至上主義の秘密結社“クリスマスの冒険者”への勧誘を受けていた。ロックジョーはかつてのペルフィディアとの関係と、彼女が出産したウィラが実子である可能性から過去を排除すべく、賞金稼ぎのアヴァンティQを雇い、かつてのボブの同志サマーヴィルを捕らえる。しかし、この事が「フレンチ75」のメンバーに警報を鳴らす事となる。
ロックジョーは不法移民と麻薬の取り締まり作戦を装い、ウィラを確保すべく軍隊と共にバクタン・クロスへと赴く。ウィラは学校のダンスパーティーに友人達と共に参加していたが、「フレンチ75」のメンバーであるデアンドラ(レジーナ・ホール)に保護され、逃亡する。
一方、ボブの自宅にも軍が急襲を仕掛け、ボブは隠しトンネルから脱出し、娘を救うべくウィラが通う空手道場の師範、セルジオ・セント・カルロス(ベニチオ・デル・トロ)を訪ねる。
【感想】
私は、ポール・トーマス・アンダーソン監督作品初鑑賞。
全編通して、まるで70年代の社会派アクションを観ているかのような感覚に陥った。
ボブがカルロスに助けを求めた際の移民マンションでの件や、“クリスマスの冒険家”クラブの秘密の地下施設で下される指令、クライマックスでのカーチェイスシーンと、時に緩やかに時にスピーディーに、シーン毎に贅沢な尺の割き方をしており「古き良き映画」を観ている感覚を覚えるのだ。そして、そんな感覚を最新のIMAX映像で味わう事になるのだから不思議な鑑賞感覚だ。
ただし、個人的には本作、大絶賛されているほどは乗れなかった。良くも悪くも、有名監督が潤沢な予算を投じ、名優達を集めて描いた贅沢なアクションコメディという印象。
予告編から受けたイメージと違ったというのもあるが、思い描いていた物語と違っても面白い映画は幾らでもある。そして、少なくとも私にとって、本作はそういった類の作品ではなかった。
メインとなる“親子愛”についても、ボブと思春期のウィラとの間には障壁があり、親子の関わりが希薄(それは、キャラクターと観客との心的な距離とも重なる)なままバラバラに行動する事になってしまうので、特に感動もせず。
早い話、本作でアンダーソン監督が描いているのは、「革命にしろ、白人至上主義にしろ、そんな事では世界は変わらないし、お前達では何も変えられない」という事なのではないだろうか。監督はどこまでも冷静に、第三者視点で本作の様々な立場のキャラクター達を、何処か嘲笑うかのように滑稽に描いている気がした。
デル・トロ演じる癖強なセンセイを筆頭とした活動家も、白人至上主義を掲げて秘密結社を運営する白人も、物語の開始からラストに至るまで、実は何も「意味のある変革を成していない」のだ。壮大なようでいて、その実は単に「父親が娘を取り戻す話」に終始している。
そんな本作で唯一、正しい事・美しい事として肯定的に描かれていると感じられるのが“親子愛”だ。作中では、ボブがウィラが自分の娘ではない事について知っているのかについて直接的に描かれてはいなかったが、銃を向けて「お前は何者だ!?」と問い掛ける彼女に「どうだっていい」と返し、ただただ彼女を優しく包み込む姿から、恐らく彼は真実を知っていて、その上で尚もウィラを娘として愛していたのだろうと思う。
ボブが“合言葉”を思い出せず、娘の居場所が中々分からないというのは、まるで適切な手順を踏まなければ情報が明かされないお役所仕事のよう。法や権力に抗うはずの革命家という名のテロ組織ですら、役所的な融通の効かなさを見せるというのは皮肉。しかし、中々娘の居場所が分からないというのは、ボブと同じくこちらとしてもストレスに感じた。随分とこの件には長く尺が割かれており、革命家時代の仲間の性癖で仲間だと証明されるという下らないオチ含め、全く笑えなかった。
そんな本作において、それでも尚評価したいのは絵作りの良さと音楽・挿入歌の使い方のセンスの良さだ。特に、クライマックスで展開される広大な荒野の一本道を疾走するカーチェイスシーンは、それだけでも鑑賞料金分の価値のある名シーンとなっている。
また、無駄に感じられるシーンも散見されるにも拘らず、それでも162分という尺の長さを感じさせない構成力は凄まじいと思う。
【オスカー受賞のベテラン俳優陣と若手俳優陣が演じる曲者揃いのキャラクター達】
主演のレオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペンは主演男優賞、ベニチオ・デル・トロは助演男優賞をそれぞれ獲得している。
そんな演技派俳優達が本作で演じるキャラクター達は、どれもこれも曲者揃い。
ディカプリオ演じるボブは、爆発物に精通し爆弾作りのプロとして活動していたが、今や酒とドラッグに溺れ、娘との親子関係にも溝のあるダメ親父。ビルとビルの間を飛び移れず、無様に落下した先でテーザー銃を撃たれて確保される始末。
ショーン・ペン演じるロックジョーは、白人至上主義の“クリスマスの冒険者”クラブに所属する事を夢見る中年男。その為なら娘を殺し屋に始末させる事も厭わない。しかし、結局は物怖じしない男勝りな性格の黒人女に性癖を歪められ、もしくは元から持っていたマゾヒズムを刺激されて執着していた情けない中年男性でしかなく、そんな小物っぷりは良い。
デル・トロ演じるカルロスことセンセイは、道場経営の裏で不法移民を世話する役割を担っており、街の住人から慕われている。
しかし、これら名優達の演じるキャラクターが如何に個性豊かでクセが強くとも、クセが強い=キャラクターとして魅力的というわけでは決してないと思うのだ。
ボブの爆発物の技術は序盤の活動でしか発揮されないし、センセイ(と生徒のウィラ)の空手の師範という設定は終始活かされない。
特にセンセイに関しては、ボブの窮地に都合良く手を貸すという、キャラクターとストーリー展開にとって都合の良い存在でしかない。それは、いくら道場兼オフィスに『スーパーマン』の日本版ポスターを飾っていようと、いくら街の住人から信頼されていようと、何処かペラペラで存在意義すら危ういレベルな気がした。
テヤナ・テイラー演じるペルフィディアの、女から母親になれず育児放棄した母親という役も引っ掛かる。
ラストでウィラを捨てた事を後悔しているという如何にも感動的な内容の手紙が明かされるが、育児放棄をした人間が手紙1通如きで「どの面下げて、何を言っているのか?」と呆れ果ててしまった。
そして、手紙にあった「私とお父さんは失敗した。あなたなら世界を変えられるかもしれない」という文章が非常に不味い。娘への愛を連ねつつも、その奥底には「親が果たせなかった夢を子供に果たしてほしい」という身勝手な親の思想、革命家としての根本が変えられていない様子が窺える。
自分の子供に「世界を変える事」を願うのが親なのか?私は違うのではないかと思う。子供にとって“初めて触れる世界”が親であるように、親にとって“新しく増えた世界”が子供なのだ。子供が産まれた事によって、既に親にとっての世界は変わっているではないか。それこそが最大の“革命”だろう。せめて、「あなたの成長と幸せを心から願っている。あなたが私の世界を変えてくれたように、あなたはあなたの世界をより良いものに変えてね」と書けなかったのだろうか?
あの文言は、ともすれば娘にとっての親からの“呪い”ですらあると思い、微塵も感動を覚えなかったどころか、何なら怒りすら湧いたのだが。
そして、案の定ウィラはラストでオークランドの抗議運動に参加しに行く。抗議運動は極左的な革命活動ではないだろうが、修道院にてマシンガンを撃ち、正当防衛ではあるとはいえティムを撃ち殺した彼女は、緩やかだが確実に、母親と同じ道を辿りつつあるように思う。
そんなウィラ役のチェイス・インフィニティは、新時代のスター誕生を思わせる程、ベテラン俳優陣に負けず劣らずの輝きを放っていたように思う。出来れば、ロックジョーと修道院で2人きりになった時、空手の技術を駆使して一度は逃亡してみてほしかった。
また、彼女がスマホすら与えてくれない過保護な父親との生活の中でも、学校ではしっかりと友達を作れている様子も良かった。オタク気質な雰囲気の男の子や、派手な見た目ながら陰がありそうなブロンドヘアの女の子、トランスジェンダーを思わせる奇抜なファッションの男の子と、ウィラと共に所謂イケてないグループ(警察からの質問に、大抵の生徒はウィラについて無関心な様子を示していたので)を構成する彼らは、まるで現代版『グーニーズ』の“ルーザーズ・クラブ”を見ているかのようで、実を言うと、私はウィラと彼らとの関係性こそを見たいと思った。
それこそ、現代的な価値観から大人達に対して「革命だの白人至上主義だの、どっちも知らねーよ!」と中指を立てて反抗し、ロックジョー達と戦うストーリーでも面白かったかもしれない(原作となる作品がある以上、無理難題ではあるが)。
【総評】
名優達の演技、拘りを持って撮られた印象的なショットやシークエンス、作品を彩る優れた音楽や挿入歌、「古き良き映画」を思わせる贅沢な尺の配分と、なるほど批評家や映画ファン受けがすこぶる良いのも頷ける一作ではあった。
しかし、個人的にはアメリカ社会の問題を数多く扱ったテーマ性やキャラクター描写に全力でライドし切れず、アンダーソン監督の作家性と言う名のクセの強さが窺える作品だったと思う。
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