「濁流に飲み込まれる一枚のハッパ」ワン・バトル・アフター・アナザー つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
濁流に飲み込まれる一枚のハッパ
拉致られた娘を救う為に、お父さんが奮闘する…というあらすじだけ聞くとリーアム・ニーソンが大活躍しそうな雰囲気を感じさせるが、絶対そんなアクション大作にはならなそうな「ワン・バトル・アフター・アナザー」。
なぜ、絶対ならなそうかと言えば、予告のこともあるけど、やっぱポール・トーマス・アンダーソン監督だからだ。彼の映画は意外なことにほとんど観てるんだけど、いつもなんかちょっと私の好みとズレていて、なのに面白そうだからついつい観てしまう不思議な監督である。
今作は16年のブランクを抱える革命家のパット、(いやボブか?作中ほとんどボブなのでボブで表記しよう)が娘と再び会うために奔走するわけだが、まぁ何と言うか全然役立たずなのだ。何とかオブラートに包みたかったがダメだったのでぶっちゃけると、役に立つどころか、ただウロウロしてるだけで居てもいなくても大差ない存在なのだ。
多分、ボブのパート全部無しにしても映画は成立する。
じゃあなんでボブが主人公で、レオナルド・ディカプリオが演じてるのかと言えば、ボブこそが我々一般人の代表だから、なのである。
革命組織フレンチ75でのボブの役割は爆弾魔であるが、政治活動を志すというよりは若者らしい反抗心とホットな彼女・ペルフィディアとのイチャイチャ破壊行為に夢中なだけの、フツーの男である。
単純で小市民なボブは娘が生まれてシンプルにパパになり、逃亡先では活動から退いて、若気の至りの影に怯え、逃避と未練を繰り返すだけのしょうもないオッサンとして生きている。
繰り返しになるが、それは「一般人」として生きている全ての人々と同じ姿なのだ。時代や空気感や社会の変革に流され、どうにもできない巨大な潮流の中をくるくる舞う葉っぱのようなフツーの人。ややしょうもなさ過ぎるが。
ペルフィディアの裏切りによりほぼ壊滅したフレンチ75は全盛期と打って変わって地味にラジオでの決起呼びかけをほそぼそと続ける組織に変容しているが、それでも活動を続けているという点で闘いは終わってはいない。むしろ、新しいリベラルな価値観は若者たちの中で順調に育まれ、人種は元より性的マイノリティも取り込み、勢力自体は拡大していると思える。
一方で「クリスマスの冒険者」として白人至上主義カルテルも登場し、彼らの選別志向はより先鋭化しているように見受けられる。
さらに胡散臭い忍者道場のセンセイ(その正体は不法移民の世話役セルヒオ)まで巻き込み、それぞれの思惑と闘争の蠢く混沌の中で、無気力層のボブに一体何が出来ようか。それでもボブは娘に会うために行動しようという気概だけはあるのだ。
日本的にはあまりピンと来ないが、「ワン・バトル・アフター・アナザー」で描かれる社会は現代を漫画的に大胆にデフォルメしたアメリカと言って間違いないだろう。
一部の権力者が、自分たちに都合の良いように作った社会。過激過ぎて他者から共感されないリベラリスト。ルールを無視しつつもギリギリのラインで図太く生き延びる不法移民たち。映画ほど誇張されなくてもアメリカのあちこちで見られる光景が映画の中で繰り広げられているのだ。
そして、蚊帳の外にいる日本人の私は思う。なんて無意味な争いなんだろう、と。正義にうるさいアメリカ人らしい滑稽さ、とでも表現すべきだろうか。
そういう文脈でも、最もどうでもいい存在として白人男性のボブが配置されていることが最大の皮肉なんだなと理解できるのだ。
映画的見どころとしては、やっぱり最後の車3台によるカーチェイスが白眉。それも手に汗握るハラハラカーチェイスじゃなく、なんかこう、もどかしいカーチェイスなのだ。
アクション映画的にはそれぞれのカットを組み合わせて最後に答え合わせをするような構成の方がインパクトがあって良いと思うんだが、そこはポール・トーマス・アンダーソン、なんかしっとりしたカーチェイス、という新機軸を打ち出してきた。
前回「リコリス・ピザ」の時に監督史上最高にポップ、と旦那が評したのだが、今回は監督史上最高に娯楽度の高い映画になった。
公式Reditのアメリカ人反応を見る限り、日本人だとわからない小ネタ的ブラックコメディが満載なんだと思う。
全体的に面白かったのだが、やっぱり彼の作品はどこか落ち着いていて渋く、インパクト至上主義の私にはちょっと物足りないのも事実である。
もっと大人になったら、ポール・トーマス・アンダーソンくらいが丁度よくなるのかな。
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