劇場公開日 2025年10月3日

「第4話の混乱が映画自体をダメにした。」アフター・ザ・クエイク あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0 第4話の混乱が映画自体をダメにした。

2025年10月5日
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鑑賞方法:映画館

素晴らしいところとスベってるところがまぜこぜになっている、そんな感じがした。複雑な気持ちである。
まず、素晴らしいところ。原作の「神の子どもたちはみな踊る」は6編からなる短編集である。映画(と、それに先立つNHKのドラマ)は4編をチョイスしている。すべて1995年の阪神大震災が関連するが、直接的には被災者、被災地は登場せず、離れた土地の人々のこころの諸相が描かれる。2000年に出版されているので当然ながら、東日本大震災もコロナも現れない。4編の(取り上げられなかった2編も含めて)時間は阪神大震災の直後である。
主役たちは、基本的に、暴力の被害者であったり、いままさに暴力に直面しようとしている者たちである。この暴力というのは、肉体的、精神的な虐待はもちろん、性的なまなざしであったりネグレクトであったり宗教的な抑圧であったり、様々なカタチがある。これらの被害を受けた主役たちは、こころの均衡が崩れ、強い喪失感や自己否定や遺棄感などを持っている。村上は、阪神大震災とそれに引き続き発覚したオウム真理教の犯罪が、人々の弱さやキズと呼応する姿を描いている。つまり圧倒的な負のパワーによる暴力は遠く離れたもののこころにもシンクロするのである。
でも、そのような現象は1995年だけのことではあり得ない。2011年の東日本大震災と原発事故、2020年からのコロナ禍も、圧倒的な負の力をみせつけた。村上の仮説が正しければ、同じように暴力の被害者が影響を受けるはずである。端的に言うと弱いものが狙われる。
長くなってしまったが、この映画の優れたところは第二話と第三話の時代設定をそれぞれ2011年、2020年に変えたところにある。つまり天災、人為を問わず、圧倒的な負の力が人々のこころをねじ曲げる姿に普遍性を持たせたところにある。人々は影響を受け、でもか細く抵抗する。だから第一話から第三話までは原作を超えた同時代性と説得性を持たせることに成功した。第三話「神の子どもたちはみな踊る」で渡辺大知演じる善也がグラウンドで踊るところ、これはおそらく彼の心の奥底から来た自然の律動に身を任せたということなんだろうが、少しわかりにくいがさほど問題ではない。
問題は第4話の「かえるくん、東京を救う」である。これは2025年、つまり現代に話を置き換えている。
ここで、脚本家は片桐とその分身であるかえるくんを、この30年のいわば狂言回しとして位置づけしようとしているようにみえる。だからパラレルワールドのように1995年に神戸にいる片桐が登場したり、おそらく時間的経過を象徴する回廊が登場したりする。映画的な解を求めようとした結果なのだろうがすべて蛇足であり作品には混乱しか与えていない。
最後の30分間で全てをおじゃんにした、ということなのだろう。

あんちゃん
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