みんな、おしゃべり!のレビュー・感想・評価
全20件を表示
わかりあえないけど、一緒にやっていける可能性
これはすごい。人の分かり合えなさについて深い洞察があった上で、きれいごとじゃなく一緒にやっていくために何が大事なのかをあきらめずに追いかけている。安易な多数派による包摂を批判しているのもいいが、それよりも本当の意味でマイノリティの視点から多数派の欺瞞を見せているのがすごい。最後はディスコミュニケーションのまま仲良くなってしまうのもいい。
本作はろう者のコミュニティとCODAの娘、それからクルド人コミュニティと日本育ちのクルドの青年が登場する。互いに言葉が通じない2つのコミュニティはことあるごとに衝突する。間に立たされるCODAの娘とクルド人青年は通訳をさせられるわけだが、2人の通訳に関するスタンスの違いがとても興味深いポイントで、ここは是非みなさん鑑賞して考えてほしいポイントである。
本作は異文化同士の衝突であり、言葉をアイデンティティとする人々の物語でもある。日本手話という日本語とは異なる言語と、母国では使用できないクルド語。そして、子どもたちが編み出すなぞ言語。日本語も含めて4つの言語が出てくると言ってよいと思うが、言葉とはただの媒介ではなく、もっと深い何かであるというのが伝わる作品だ。
新感覚の映画。知らない間に映画の世界観に没入してしまう面白さ
この映画の見どころは2つあった。
1つ目は「ユーモアセンスの気持ちよさ」。この映画は、ラストでとんでもない展開を迎えるのだが、その場面を観た時に観客が置いてけぼりにならないリアリティラインを構築するため、随所に気持ちの良いユーモアが散りばめられていた。
2つ目は「全ての登場人物に感情移入出来る」という演出力の高さだ。
監督のユーモアセンスを表現する出演者たちのキャラ設定もしっかり練り込まれており、宮崎駿作品のように「端役にも情が湧いてしまう」、そんな上質な作りになっていた。
この映画で一番胸にぐっと来たシーンは、電気屋の主人が息子、駿くんと亡き妻との間で交わされていた交換日記を見る場面だ。
最初の頃は、ちゃんとした言葉で日記を交わしていた2人だが、ろう者の駿くんが絵文字を使い始めたことで、2人はいつしか絵文字だけで日記を綴るようになる。
きっと、想像力を最大限に使いながら「言葉」という枠を超えて自分の気持ちを伝えたり相手の気持ちを思い図ったりする愉しさに2人は気付いたのだろう。
この映画では健常者、障害者、外国人など様々な立場の人達の中で起こるトラブルが描かれる。
そのトラブルの主な原因が「言葉によるコミュニケーションの不足によるものとして描かれていたが、映画を観終わる頃には(言葉を通じて意見を交わすことも大切だが、それよりも大切なのは『相手がそれぞれ胸の中で大切に守っている世界に気付いてあげることなんだ』)という事を気付かせてくれる映画だった。
『エール』『コーダ』を超える仲介者の苦労を不要とする当事者同士の伝え合い
教師を演じているのが小野花梨氏ではないかとわかるようになってきた。那須英彰氏が出てくると、テレビドラマ『デフ・ヴォイス』の演技が思い浮かび、期待が高まった。
クルド人青年が、電器店主の娘から教えられた名前の指文字を「はつみ」と微妙に間違えていたが、どちらかというと、「へちみ」の方がありそうに思った。
序盤で店に迷い込み、粗相をした女の子が代金をもってきたけれども、女の子はなぜその商品とぴったりの金額をもてこれたのだろうかとも思った。
エンドクレジットで、店主を演じた毛塚和義氏の名をみたとき、今年8月13日に放映されたNHKEテレ『ハートネットTV』で取り上げられたろう者だけのプロレス団体を創設し、現在は東京の西日暮里でラーメン店を営んでいると紹介された人物であったことに気づいた。
『エール』『コーダ』を超える仲介者の苦労を不要とする当事者同士の伝え合いという感じを受けた。それらの作品も、コーダの仲介者としての苦労と、恋や自分の才能と家族の捨て難さとの選択の葛藤が描かれていたが、本作では、仲介者は卒業しても大丈夫だよ、安心して自分の好きなことを選びなさい、と言ってくれているようである。2作と同様の趣旨もあり、まちづくりの観点を加えているところは、テレビドラマ『しずかちゃんとパパ』とも共通すると言って良いだろう。
パンフレットを読むと、監督自身がコーダであり、それまでドラマや映画で描かれてきたろう者像に違和感があったこと、なぜクルド人問題を取り上げたのかということ、クルド人問題を取り上げるに当たって、映画『マイスモールランド』の制作に関わった日本クルド文化協会事務局長の協力を取りつけ、その作品でもできなかったクルド人出演者を確保できたこと、ろう者関係作品に実績のある牧原依里氏を「監修」ではなく「ドラマトゥルク・演技コーチング」という役職に抜擢し、踏み込んだ演技指導を実現したこと、コーダ役の俳優がみっちり手話指導を受けたこと等が、インタビューによって明らかにされており、必読の価値がある。
本当に必要なのは、言葉ではなく思いやり。
ろう者の電気屋の親父とクルド人のカレー屋の親父 ひょんなことから揉めます。間に入ったコーダのなつみと日本生まれのクルド人のヒナ。いやあ、思い込みが入ると揉めます。そこに、街おこしの商工会の担当者 学校の先生
それぞれの立場で話すからね。最後は、宇宙人まで。
しかし本当に大切なのは、思いやる気持ちだね。
どのようにして分かり合うのか
聾者の電気店主と日本語の話せないクルド人レストラン店主が、ご近所トラブルで喧嘩するという何とも複雑なコメディですが、非常によく考えられ練られたお話でした。
聾者といっても、完全な聾者と難聴者・聴者だが両親が聾であるCODA(Child of deaf adult)と様々な境遇があり、その仲立ちとなる手話にも日本手話と日本語手話の隔たりがあります。また、クルド人と言っても、イラン・イラク・トルコ・シリアと出身国によって文化的・言語的背景が異なる上、日本で生まれ育ったクルド人もおられます。そうした人々は一体どうやって意思の疎通を図り喧嘩するのかと言う点に目から鱗の様々な視点が提示されるのです。
でも、結局は「分かり合おう」とする気持ちからスタートするしかないというコミュニケーションの基本に立ち返らざるを得ないのですが、そこに到るとんでもないラストが切れ味抜群なのでした。これは遣られたなぁ。
みんな大好きです
出演されている皆さんとても魅力的で作品がもつ普遍的なメッセージ性や懐の深さに終始感動しながらの鑑賞となりました。
国籍や言語のこと、難民問題のこと、ろう者の方々や手話についての認識、異文化間・家族間・大人と子供・男女すべてのレイヤーでのコミュニケーションのことなど重たく悲劇的なトーンで描かれてもおかしくはない題材ですが、本作は暖かい眼差しとユーモアに溢れていて堅苦しくなく自然と楽しみながら問題意識を抱かせていく見事な演出でした。
先に述べたように出演者の方々皆さん魅力的でしたが中でもヒロイン夏海を演じる長澤樹さんが素晴らしく、コーダという難しい役柄でありながら手話も含めてごく自然に演じられていました。
その夏美とクルド人一家で日本生まれのヒワとの交流も瑞々しく描かれていて、終盤の2人にまつわる展開では思わず胸が熱くなり感動してしまいました。
東京では2館でしか上映していないようですが、
今だからこそ観るべき作品だと思いますし単純に楽しい映画が観たいという方にも強くおすすめしたいです。
2回目を観て追記(2025/12/26) 豊穣なポリフォニー
駿が書いたノートを広げて「はつみ」がヒワに言う。
「ほら、駿だけじゃなくて! みんな、おしゃべり!(笑)。」
クラスの友だちが駿の言語に触発されてノートに書き込んでいた創造された言葉の数々。
あっ と思った。それはポリフォニー(多声)だ。
不協和音のノイズではなく、ユニゾンでもない。
さまざまな「声」がてんでに発せられ、歌われながら、ぶつかり合い、入れ替わって前面に出たり、主張し合い、対話し合う状態。しかし、一つの「正しさ」に収斂しない。
永遠に続くジャズのインプロヴィゼーションのようだ。
考えてみれば、この映画のプロットそのものがポリフォニックである。
日本語、手話という言語、クルド語、トルコ語、アラビア語、中国語、宇宙?語。
ろう者、聴者、クルド人、失語気味な老人。
父親、娘、息子、きょうだい、友だち、教師、客、仕事で決めつけたがる人。
---------------------------------------------
ああ、やっぱり長澤樹はいいなぁ これからもっとブレイクして欲しい。
そして渡邊崇の劇伴も不思議で心地よい(SpotifyでOSTを聴きながら)。
(追記 了)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
初回投稿【記号論の彼方への旅】↓
随分前に予告編を観て、町内在住のクルド人と障がい者(ろう者)の揉め事ぉ?
いや何か、左寄りのイデオロギーとポリコレの匂いがプンプンするなぁ。…と思っていたので、予約する直前までまったく食指が動かず。
しかし夕方から観る映画とのスケジュール上の兼ね合いで「その前にとりあえず1本観ておくか」程度の「期待感ゼロ」でユーロスペースに入った。
当たり、だった。
期待度とのギャップという意味では、個人的には大当たりだった、と言っても過言ではない。
中盤から終盤にかけてちょっとかったるいプロットはあったものの、全体としては予想を遥かに超えてきた。
もちろん厳密に言えば、お約束のハッピーエンドはそれなりに予想ができる。コミカルな小ネタを含めて、このトーンで行きながら最後に悲惨な結末を迎えるとは到底思えないからだ。
(置きどころが難しい感想だけれど、小ネタの一つ。会議室でのろう者vsクルドのシーンで、クルド人側の内輪揉め?の「トルコ語で話すな」「アラビア語も入れろ」のくだりは極めてハイコンテクストなエスニックジョークの香りがして、そのへんがちょっと分かる私としては思い出すたびにじわじわ笑いが込み上げてくる)
---------------------------------------------
この作品の何が良いのか、観ているあいだずっと、自分の感覚をまさぐるように、感情の輪郭を薄目で眺め透かすかのように、確かめていた。
ただの社会派?コメディじゃない。
脚本と演出と役者たちが何度も塗り重ねていったのは、単にクルド人とか障がい者とか排除と和解とかいう、表象の問題ではない。
むしろ、それらの言葉を聞いた途端に紋切り型の認知を立ち上げて脊髄反射することがいかにバカバカしいか、を際立たせている。それを狙っている。
その象徴が、商工会から「地元の事業で頑張っているマイノリティの方々にスポットライトを当てるプロジェクト」の広報を委託されて取材してくるディレクターの沖田だ。空々しいマジョリティ発想の言葉の、なんとイタいことよ。
そこに、ある種の被害妄想にどっぷり浸かっているろう者の電器店店主の古賀(演: 毛塚和義)と、たぶん普段からいろいろと差別に遭っているであろう誇り高きクルド人、ルファト(演: ムラト・チチェク)の、些細な誤解をきっかけにしたいがみ合いと分断が絡む。
この「クルド人」のキーワードは、最近それだけでキーキー吠える勢力の呼び笛になってしまいそうだが、朝鮮人でも中国人でもムスリムでもなくクルド人を持って来た制作陣のきわきわのセンスと覚悟にヒリヒリし、舌を巻いた。
---------------------------------------------
そして、役者。
何より古賀の浪人中の娘、夏海(演: 長澤樹)と、ルファトの息子ヒワ(演: ユードゥルム・フラット)が良い。
夏海は聴者CODAとして手話に堪能なので、ろう者の父や弟の、そしてヒワは日本で生まれ育ったので日本語はペラペラなので、喋れない父ルファトやその仲間の、それぞれ通訳をする。
しかしつまりは、いざこざに関わるネガティブなやり取りを「させられる」。
ともに頑なな大人たちの身勝手ないがみ合いの盾にされ、罵りの言葉を律儀に「もう一度言ってみろバカ野郎」などと訳している二人のやり取りは声を上げて笑ってしまった。
が、二人はその挙げ句、どうでもよくなって上の空。いがみ合うグループのあいだで文字通り上を見上げて明日の天気のことを考え、気をそらしている姿が何とも笑える。
---------------------------------------------
お断りしておくが、外国人であれ障がい者であれLGBTQ+であれ、私はマイノリティの置かれた社会的不正義を無視したり否定するつもりは毛頭ない。それどころか怒りを同じくするものだ。
しかし劇中でも出てくるような、相手の立場や事情を顧みず、対話を「譲歩」としか捉えず、勝敗でしか物事を見られない発想には辟易としている。
この映画は、マイノリティの不遇な立場に淫しない冷めた視点とバランス感覚がとても新鮮なのだ。
どんなマイノリティの人びとだって「ただの一人の人間」である以上、聖人では決してあり得ない。
弱さも狡さも後ろめたさも間違えることも言い訳も、あるのがむしろ当たり前だ。
それがいつからか「無謬であること」が暗黙の了解になってしまっていなかったか?
だからこそ、古賀がルファトの店の電源故障を職人魂で直してやり、その帰り道に手話で「以前、売物の電球をあんたが割ったと誤解して済まなかった。ごめんなさい」と謝り、ルファトもクルド語で「こちらこそ済まなかった」と応じるシーンは、この時いっさい字幕が出ないけれど、ものすごく尊い。
そして、この時にあえて「字幕を出さない」という天才的な演出が為されている。
それは、作品を視聴する鑑賞者たちに対して「手話もクルド語もわからなくてもいい。懸命な気持ちを読み取って推測してください」と仕掛けているのだ。
そして最後の、究極の「コミュニケーション出来なさそう」な存在の登場に腹を抱えて笑いつつ、その重層的な「わかり合えなさそう」の掛け算の連打には唸ってしまった。加えて、古賀父さんの「話せばわかる」には、もう腹筋が痛かった。
---------------------------------------------
さて、この物語はこれだけでも充分楽しめるコメディなのだが、驚くべきことに、もう一段深い階層があるように思える。
それは古賀家のろう者の小学生、夏海の弟であるシュン(俊?駿?)くんが「発明」した言語のエピソードである。
実はこれは、なくても映画のストーリーとして成り立つ。
場合によってはこのエピソードがあることで却って混乱したり、一種の雑味として不要では?と感じる鑑賞者もいらっしゃるかもしれない。
しかし私は驚嘆した。
なぜなら、これは人間が言語を獲得し、文字を発明した時の始祖の再現とも言えるからで、ストーリーの前景にある「わかり合えなさ」の奥にある本質的な領域を語っているからだ。
記号論や社会構成主義では、極論すれば犬という存在を見たから「犬」という言葉を作ったのではない。「犬」という言葉を心で獲得したから犬が実存する。
世界は言葉でできている。そして、あなたはあなたが使う言葉でできている。
では、シュンくんは何を心に得たのだろうか?
あのアラビア語めいた文字に表された数々の概念は、シュンくんの生々しい心の動きそのものである。
それはやがて、友だちにも通じ合え、カードで会話することができるようになった。
ろう学校の山際先生(演: 小野花梨)にはわからなかった。しかしヒワはそれを敏感に察知し、一つ一つの意味や言わんとすることをシュンくんに確かめていく。
スマホさえあれば今や世界のどんな言語も瞬時に翻訳してくれる。人類はついにバベルの塔の呪いを克服したかのように見える。
でも、人間はずっと永いあいだヒワのように、手探りするように、一つ一つ粘り強く確かめながら通じ合おうとしてきたはずだ。
たぶん異言語のコミュニケーションという点では、これからもテクノロジーが飛躍的に意思を通じやすくしていくだろう。
しかし、例えば私たちは同じ日本語を使う者同士であったとしても、本当にわかりあえているだろうか?
言葉の意味として分かったとしても、それは相手の感情や事情や経緯や依って立つ価値観を理解しているだろうか?
この映画で障がいや言語の違いは、一見「壁」として見える。
しかしそれらがすべて取り払われた時に、壁はまったくなくなっているだろうか?
こんなに深いことをコメディという箱に乗っけて届けてきたなんて、日本映画もすごいことをするようになったものだ。
分かり合うってどういうこと?
初日の最終上映回に鑑賞。舞台挨拶なしが確定しており、作品のみに集中できる環境ではあった。
ちょっとした誤解から対立が生じ、先入観やコミュニケーション不良から、その対立が先鋭化する。個人間の争いが、その個々の有するアイデンティティの基盤となる集団間の争いへと発展し、引くに引けない状況へ陥る。
この物語は、小さな街の、小さなコミュニティの話だが、この小さな争いが思いもかけずどんどん増幅していくのが、人間社会の性なのではないかと思う。そして、昨今のsns興隆により、その拡散スピードは手がつけられないものとなっている。群衆が世の趨勢を決定するのは、今も昔も変わらないのかなと思うし、コントロールできないまま突き進んでいくのだろう。
聾学校では全く聞こえない者と、少しは聞こえている者との壁があり、クルド人社会でもトルコ語話者とそうでない者、クルド語原理主義者で差異があり。手話ができる者のコミュニティでも、それぞれの属性により軋轢は生まれる。この世は元々カオスなのだ。そのカオスの中の調和、綱渡りを人間は試みてきたし、今も試みようと努力する者がいる。
この映画の結末、着地点は現実ではないけれど、河合監督が求める理想の姿なのだろう。その理想像を遠くに見据えて、では今この現実の中で、どのように我々は他者と接していくのか?個々人の、日々の姿勢が問われることになる。それぞれが、自分たちのコミュニティの殻を破って、ほんの少しでも他者と触れ合い、理解しようと努めることができたなら。未来は明るいものになると思うのだが。理想論に過ぎるのだろうか。
感想を書いた今から、入手したパンフレットを読む。何が書かれているのか、脚本はどんなものだったのか、とても楽しみだ。
長い
ベストに入る
これは…今年ベストに入るコメディ。
テーマは単純。コミュニケーションとディスコミュニケーション。話せば分かる。
我々はたくさんの線を勝手に引いて、理解し合えないと勝手に思い込む。でもそうなのか?あなたのその言葉は相手の目を見てもそう言えるのか?
とっても大事なことを正面から取り上げる。
ろう者と聴者、日本手話と日本語対応手話、まったく聞こえないものと少し聞こえるもの、日本人とクルド人、クルド語とトルコ語さらにアラビア語、日本生まれとそうでないもの、差別するものとされるもの、地球人と宇宙人…
我々はそれを乗り越える「言語」を持つことが出来るのではないか…?
今まさに、日本までもがこんな状況になっていて、それで得するものが誰なのか、誰と誰が分断されているのか、我々はよく考えた方が良い。不安を煽って得するものは誰なのか…
そういう極めて現在的な問いを、軽やかに提示するコメディ。
これは、もっともっと観られてしかるべきでは?
監督がCODAだからか、きっちり当事者がキャスティングされててこのクオリティ。特にろう者のお父さんはラーメン屋を営まれてるらしいが堂々たるもの。なつみちゃんもかわいい!
あとはこういう作品にお客がたくさん来るような日本になるだけ。みなさんにかかってますよ!
あと劇伴が独特でとても良い!
公開規模は小さいですが、必見です。
コミュニケーションに共通言語は必要?
日本人の手話を日本語にし、その日本語をトルコ語に翻訳し、それに対してクルド語で返されると、トルコ語→日本語通訳がクルド語を理解しないので、クルド語→トルコ語の通訳が必要で、その後に日本語になって、ようやく手話になるというシーンでは、思わず笑ってしまいました。そんな手間をかけるのなら、駿クンが作り出した言語の方が手っ取り早いということなんでしょうか。日本の中でも手話には主に2種類あるそうだし。
通訳がトラブルにならないよう、都合よく訳すというのは中国映画「鬼が来た」でもありましたが、通訳が勝手に表現を変えてもいいのか、ということの問題提起もありますね。
駿クンの担任教師とマイノリティのプロジェクトの担当者という本来は対象者に寄りそうべき人たちの態度が、実は偏見に満ちていたのは皮肉ですね。
言葉がわからないからコミュニケーションができないと避けるのではなく、心が通じ合えばコミュニケーションはできるという映画です。
難解だけど乗り越える価値はある
マイノリティが題材の映画は「マジョリティに問題がある」という結論に傾きがちな印象があるが、本作は「マイノリティにも問題がある」と、むしろマイノリティ側へ問題提起している点が新鮮に感じた。
マジョリティがマイノリティを見下す構図は、ヤフコメなどを見ればむしろ日常茶飯事だが、この映画ではろう者とクルド人の間で「あいつらは俺たちを馬鹿にしている」と、お互いが相手を見下し合っている。
マイノリティやマジョリティに関係なく、人間というのは他者を見下さないと生きていけない悲しい生き物なのかと思えて切なくなった。
この映画の中では、ろう者VSクルド人の大人同士の対立と並行して、特別支援学校内での別の障害を持つ子供たちの中での対立も描かれていくが、子供同士は共通の遊びを見つけた瞬間、あっという間に仲良くなっていた。
子供の時は、なんとなく嫌っていた人がふとしたきっかけで仲良くなることは珍しくないと思うが、なぜ大人になったらそれができなくなるのだろうか。
ろう者の通訳を担当する夏海とクルド語の通訳を担当するヒワは直接コミュニケーションが取れる関係なため、すぐに意気投合。
言葉が通じることの素晴らしさを改めて感じた。
そんな夏海とヒワは、物語が後半に差し掛かるあたりで、いがみ合う大人たちに愛想を尽かし、二人で別の街に遊びに行ってしまう。
ここからこの映画は驚くべき変貌を遂げる。
通訳二人がボイコットしただけではなく、なぜか字幕もボイコットを始める。
さっきまで出ていた手話やクルド語の字幕が一切出なくなる。
観客はろう者やクルド人が何を言っているのか全く分からなくなる。
まるでサイレント映画。
映画後半からサイレント映画になる作りは極めて珍しいと思う。
そこにトラブルが発生。
ろう者とクルド人たちがそのトラブルに対処していくことになるが、通訳を失った彼らはジェスチャーで意思疎通を試みる。
個人的に近年のサイレント映画で思い出すのは2024年公開の『ロボット・ドリームズ』だが、『ロボット・ドリームズ』は音声がなくても登場人物たちが何を考えているかがよくわかる作りだったが、本作はそんなに甘くなかった。
とにかくろう者やクルド人のジェスチャーがどんな意味なのかが、個人的にはほぼ理解できなかった。
ここで難解な映画になってしまったと思った。
途中から認知症らしき老人や中国人観光団体客も加わり、難解さに拍車がかかる。
彼らが何を言っているのかは分からない。
ただ、その場面を観ていて分かったことは「彼らは悪人ではない」ということ。
深く関わったわけでもないのにお互い相手を見下して罵り合う関係だったが、「困っている人がいたら助ける」という、人として備わっていて欲しい一番大事なものが彼らにはあった。
トラブル解決後は、ろう者とクルド人による打ち上げシーン。
言葉がわからないはずなのに笑い合う彼らから、コミュニケーションで最も大事なものが何なのかを教えられた気がした。
楽しそうに盛り上がる彼らを観ていて、最初は掴み合いの喧嘩をして睨み合っていたことを思い出し、あまりの劇的な変化に目頭が熱くなってしまった。
「罵り合うより笑い合う方が良くない?」と強く感じた。
正直この映画は台詞や演出に洗練されていないと感じる場面が多々あった。
特に個人的に引っかかったのは、電気屋に迷い込む少女のエピソード。
ろう者とクルド人が対立するきっかけとなる場面だが、中年男が飴玉で女の子を店の奥に誘い込む場面が、個人的には微笑ましい場面ではなく、おぞましい場面に感じてしまった。
ただ、映画として気になる場面は多々あるが、映画史に残るような挑戦をしていると感じたので、この映画を支持したい気持ちが強い。
分かり合いたい
なつみ≒はつみ
コミュニケーションの本質を多角的に視せる
めちゃくちゃ面白かったですが……
東京国際映画祭にて
映画『みんな、おしゃべり!』を観てきました。
もし宇宙人が地球を侵略したら——そんな仮定のもと、世界各国が心と言葉をひとつにして立ち向かおうとする姿を描いた、ユーモアあふれるコメディ作品でした。SFの名作『未知との遭遇』や『インデペンデンス・デイ』を彷彿とさせるパロディ要素も散りばめられ、笑いの中に深いメッセージが込められていたように感じます。
物語の根底には、かつて人類がひとつの言語を共有していたという神話的な記憶——バベルの塔の崩壊によって言葉が分断され、やがて国や文化の違いが対立や戦争を生むという歴史的な連想がありました。これは、ろう者の言語においても同様で、言葉の壁が誤解や衝突を生む現実をも映し出しています。
だからこそ、平和に向かうためには「言葉の壁をなくすこと」が重要であり、映画では子どもたちがそれぞれのアイデンティティを持ちながらも、互いに理解を深め、心をひとつにしていく姿が印象的に描かれていました。宇宙人の登場は、地球の多様性を超えて、広い宇宙へとつながる希望の象徴として機能しており、未来への哲学的なメッセージが込められていたと思います。
ただし、テンポがやや冗長で、映像や照明、編集の面では粗さが目立ち、惜しい部分もありました。もしこれらの技術的な要素がもう少し洗練されていれば、より完成度の高い作品になっていたことでしょう。
とはいえ、テーマ性や挑戦的な構成には敬意を表したいです。とても頑張った作品だと思います。
全20件を表示













