「「義憤」というフィクションが、なぜ正当化されるのか。」それでも私は Though I'm His Daughter sow_miyaさんの映画レビュー(感想・評価)
「義憤」というフィクションが、なぜ正当化されるのか。
監督の長塚さんと、長野市出身で死刑制度や安楽死に詳しいパリ在住のジャーナリスト宮下洋一さんのアフタートーク付きで鑑賞。
今作は、8月下旬からの韓国映画祭のコンペティション部門に出品が決定し、韓国の関係者からは「よくわかる!」と言われたものの、欧州の映画関係者からは、「これは明らかな差別なのだから、そうした部分でキチンと対応すべき」と言われ今一つ伝わらないのだと長塚監督。それに対して、宮下さんが、「一つには、赦すということの前提に立った宗教の問題」「もう一つは、欧州はあくまでも個人。いくら親子であっても、あなたは何もしていないなら咎めないということが徹底している」と答えていて、とても興味深く聞いた。
「家族ならば〇〇して当たり前」という縛りは、日本では、借金や介護の問題でも見られるし、大分前になるが、人気芸人が、親の生活保護受給で叩かれた。
今作も、松本麗華さんを徹底して叩き続ける、「義憤に駆られた人々」のSNSでの書き込みが登場する。そして、その背景には「義憤に駆られている人々」の顔色を伺った記事を発信するマスコミの姿勢があることも描き出されていた。
だが、その「義憤」って何なのだろう。
これも、アフタートークでの監督の発言だが、映画の冒頭に登場する原田さん(かつて弟を保険金殺人で失った被害者)は、「犯罪被害者を、ステレオタイプで見ないで欲しい」というのが口癖だったとのことだ。
「義憤」の中身である、「被害者感情に立ったら、加害者家族が当たり前の日常生活を送るなんて許せないはずだ!」といった言説は、そうは思っていない原田さんのような被害者家族がいる時点でフィクションだと思うのだが、どうして日本では、その「義憤」が正しいもののような扱いを受けるのだろう。そのことを本当に考えさせられた。
もう一つ考えさせられたのは、「厳罰」という視点からの死刑執行が、社会をよりよくすることには必ずしもつながらないのだなということだ。
オウムの頃、盛んに言われていたのは「洗脳」という言葉だった。知的な判断力を持っているはずのエリートたちが、なぜ教祖の指示のもと、いとも容易く殺人事件に手を染めるようになったのか。
これは、現在でいうならば「陰謀論」と全く同じ構造ではないのか。
麗華さんが語る「父親としての松本智津夫」が、はじめはしっかりイメージできなかったのだが、途中で挟まれる写真2葉によって、グッと解像度が増した。
あんな子煩悩で優しい姿を見せる父親が、なぜ宗教団体の姿を借りたテロ集団をつくりあげることになってしまったのか。
きっとそこには、麻原自身が「陰謀論」に絡め取られてしまった「分かれ道の瞬間」があったはずだ。しかし、彼は何も語らないまま死刑は執行され、我々は貴重な学びの機会を失った。
先頃、刑法が100年以上ぶりに改正され、懲らしめから立ち直りへの方向が示された。
死刑制度も、あり方を見直すべき時がきていると思う。