それでも私は Though I'm His Daughterのレビュー・感想・評価
全14件を表示
加害者家族への接し方を考えさせられました。
この映画は、オウム真理教の元教祖の麻原彰晃(松本智津夫)の娘である松本麗華さんの人生を描いたドキュメンタリー映画です。父が裁判で有罪となり死刑執行されたことを理由に社会での障害及び人々の冷たい視線がある中で麗華さんが明るく逞しく生きる姿を描いており、深い感銘を受けました。
映画の中では、大学入学試験に合格したにもかかわらず入学を拒否されたこと、また、銀行で預金口座を開設しようとしても断られたりするなど加害者家族に対する対応には大きな疑問が残りました。この映画を観て、死刑制度の存置についても考えさせられました。罪を犯した人はその罪を償うことが必要ですが、私自身、命をもって償うということの理解が十分にできておりません。このことについては、自分なりの考えがまとまるよう勉強していきたいと思っています。
罪を犯した加害者と加害者家族というのは、全く別の存在であると思っています。(加害者である子が未成年で親権を持っている親は関係があると思っています)そのため、加害者家族に対して、社会的に制裁を加えるというようなことは道理に反していると思っています。
松本麗華さんには、これからも明るく逞しく生きて行ってくれることを願っています。そして、加害者家族の方が普通の人のように支障なく暮らせる社会が実現するよう私も尽力したいと思っています。
この映画を製作した長塚監督及びスタッフのみなさまには心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
悲劇のヒロイン
加害者の親族としてあらゆる組織から沢山の権利を奪われ、それでも自分の手で権利を取り戻し前向きにたくましく生きていく。その姿を暖かく見つめたドキュメンタリー。
監督は主人公ととても親しくしている様子で彼女の素直の言葉や表情が映されている。
世紀の大事件の首謀者の娘。その境遇の中行動を起こして自分らしく生きようとする姿は尊敬に値するし誰もが持つ基本的人権と思う。
ただなんというか、何とも言えない違和感というか。涙をアップで撮ったり筋トレをアップで撮ったりを前面に出すより、もう少し客観的なものの方が訴えが響くのでは無いかなと感じた。
寛容な社会になることを切に望む
「義憤」というフィクションが、なぜ正当化されるのか。
監督の長塚さんと、長野市出身で死刑制度や安楽死に詳しいパリ在住のジャーナリスト宮下洋一さんのアフタートーク付きで鑑賞。
今作は、8月下旬からの韓国映画祭のコンペティション部門に出品が決定し、韓国の関係者からは「よくわかる!」と言われたものの、欧州の映画関係者からは、「これは明らかな差別なのだから、そうした部分でキチンと対応すべき」と言われ今一つ伝わらないのだと長塚監督。それに対して、宮下さんが、「一つには、赦すということの前提に立った宗教の問題」「もう一つは、欧州はあくまでも個人。いくら親子であっても、あなたは何もしていないなら咎めないということが徹底している」と答えていて、とても興味深く聞いた。
「家族ならば〇〇して当たり前」という縛りは、日本では、借金や介護の問題でも見られるし、大分前になるが、人気芸人が、親の生活保護受給で叩かれた。
今作も、松本麗華さんを徹底して叩き続ける、「義憤に駆られた人々」のSNSでの書き込みが登場する。そして、その背景には「義憤に駆られている人々」の顔色を伺った記事を発信するマスコミの姿勢があることも描き出されていた。
だが、その「義憤」って何なのだろう。
これも、アフタートークでの監督の発言だが、映画の冒頭に登場する原田さん(かつて弟を保険金殺人で失った被害者)は、「犯罪被害者を、ステレオタイプで見ないで欲しい」というのが口癖だったとのことだ。
「義憤」の中身である、「被害者感情に立ったら、加害者家族が当たり前の日常生活を送るなんて許せないはずだ!」といった言説は、そうは思っていない原田さんのような被害者家族がいる時点でフィクションだと思うのだが、どうして日本では、その「義憤」が正しいもののような扱いを受けるのだろう。そのことを本当に考えさせられた。
もう一つ考えさせられたのは、「厳罰」という視点からの死刑執行が、社会をよりよくすることには必ずしもつながらないのだなということだ。
オウムの頃、盛んに言われていたのは「洗脳」という言葉だった。知的な判断力を持っているはずのエリートたちが、なぜ教祖の指示のもと、いとも容易く殺人事件に手を染めるようになったのか。
これは、現在でいうならば「陰謀論」と全く同じ構造ではないのか。
麗華さんが語る「父親としての松本智津夫」が、はじめはしっかりイメージできなかったのだが、途中で挟まれる写真2葉によって、グッと解像度が増した。
あんな子煩悩で優しい姿を見せる父親が、なぜ宗教団体の姿を借りたテロ集団をつくりあげることになってしまったのか。
きっとそこには、麻原自身が「陰謀論」に絡め取られてしまった「分かれ道の瞬間」があったはずだ。しかし、彼は何も語らないまま死刑は執行され、我々は貴重な学びの機会を失った。
先頃、刑法が100年以上ぶりに改正され、懲らしめから立ち直りへの方向が示された。
死刑制度も、あり方を見直すべき時がきていると思う。
彼女はそもそも「『加害者』の家族」ではない
鑑賞後、パンフを購入して読んでみました。すると監督のことばとして、「加害者の家族として生きる姿云々」と書いてありました。
えっ、それは違うでしょ、彼女は極めてきつい言い方になってしまうけど、加害者の一人でしょ、その認識に改めない限り、永遠に事件や父のことには向き合えないと思いますが。彼女は年少でしたが大幹部でした。罪に問われた教団幹部たちよりむしろ高い地位にあったことはちょっと詳しい方なら知っていると思います。ただ年少ゆえ、刑事や民事で責任を問われることはなく、勿論お飾りとか虐待の一種ということもあるのかも知れませんが、彼女と袂を分かった人たちからは実際の影響力もあったという批判もあるようです。
6年という時間をかけて、取材対象者の信頼を得て制作された労作ではありますが、そもそも前提が間違っていると思いますので★は一つにします。勝手なことを言ってすみません。
血の繋がり
ご本人はそんな事思っても居られないかもしれませんが、この映画を通してご覧になられた人々、日本社会に大きな貢献をされていると思います。私は、強く生きるエネルギーをもらいました。いくら悪いことをしていないと思っても私は自分をここまで公に曝け出し考えている事をシェアする事ができるのか、どうしても腰が引けてしまう様に思う一方で、この先どんな境遇に置かれても頂いたエネルギーを持って生きていきたいと思います。世間で言われている様な罪悪感をご本人も感じて居られる様ですが、この映画や普段のお仕事は日本社会に大きな貢献をされていると思います。
血の繋がりという意味では『国宝』という映画も本質的には同じ課題を感じました。昔から、家や伝統の引継ぎにおいて血の繋がりに拘りのない所も日本の伝統文化の一面であったと聞いています。親が犯罪を犯してしまったとしても、本来子供には子供の無限の生があり生きて行くのは当然のことだと思います。もちろんその時々の社会の大勢に左右される事はあると思いますが基本的人権は尊重され続けると思います。
被害者の方はこの作品を観て何を感じるか
麻原の三女、麗華さんは「優しい父、松本智津夫」と「地下鉄サリン事件を起こした麻原彰晃」という2つの事実を未だに上手く相対化して考えられていないように感じた。
時間が経つにつれ、「優しかった父」への思いが彼女の中で強くなっていくことで、益々もう一つの父の顔のことは心の隅に追いやろうとしているようにも思えた。
彼女が自分の魂を救うためには、もう一つの父の姿をしっかりと見つめ受け入れる他に無いと僕は思った。
作中で気になった点として、彼女が本作の中で「父の犯した罪に対して、私が謝るのはおかしいと思う」と話していたが、これは被害者やその遺族の方達との断絶を生む考えで間違っているのではないか。
例えば、自分の親が交通事故で誰かを傷付けたとすれば、その家族が被害者の方に対して「父が大変なことをしてしまい申し訳無い」という意思表示をすることは相手の気持ちをねぎらったり、心の距離を縮めるためには必要だと考えるからだ。
この映画では三女、麗華さんの置かれている心無い人達による差別に苦しめられているいる様子が次々と映し出されていて、それでも下を向かず頑張って前に進もうとする麗華さんの姿は健気で心から応援したくなる。
しかし、恐らく現在もサリン事件の後遺症で今も苦しんだり仕事が出来ずにいる人もまだいることだろう。その人からすればこの映画で麗華さんの息苦しさを知ったとしても、(貴女も辛いかもしれないけれど、私の方がもっと辛い)という印象を持つにしか至らない人が多いのではないだろうか。
「被害者と加害者」この両者の関係はお互いの置かれている境遇に対しての共感が無ければ、その溝は決して埋まらないだろうとも感じた。
僕の映画の見方からすれば麗華さんの言動からサリン事件の被害者に対する共感が明確に感じられない以上、「麻原彰晃の骨の話」や「筋トレのコンテスト」の話を聞かされても、被害者の方からすれば(そんなのどうでもいいよ)というトピックにしかならないようにも思えた。
監督は上映後のトークショーの場で、三女、麗華さんと和歌山カレー事件の長男と同じ「加害者の家族」として話されていた。
林真須美の長男さんも加害者家族として酷い差別やいじめを受けて幼少期を送ったものの、現在は自分の母親の冤罪を信じ、母のいわれなき罪を晴らそうとして活動している。
このように和歌山カレー事件の場合はまだ林真須美さんの冤罪の可能性があるという現在進行系の話であり(オウム真理教が犯した犯罪事件と同列にするにはどうかな)とも感じた。
またトークショー内では監督も同席した担当弁護士も松本智津夫氏のことを「松本智津夫さん」という呼称で話されていたが、こういった点から製作者側が加害者側に軸足を傾け過ぎていると感じ、被害者の人の心象を悪くするかもしれないなと思った。
壮絶な
こんなにも差別をされてよく今まで生きて来られたなと思った。当然つらくて悲しい場面がたくさん出てくるけれど、それを変に装飾せずにストレートに映像にしたこの監督も素晴らしい。しかし、同時によく撮ったなと驚きもした。彼女の内面がものすごくさらけ出されていた。
1つや2つの出来事を映像にしたものではない。
6年間の彼女の壮絶な差別、悲しみ、不安、絶望、困惑が詰まっていた。6年間だよ。しかもいまだ終わっていない。これから彼女はどう生きていくのだろう。国家権力や教育機関による差別、民間企業とは言え公共性の高い銀行の口座も作れない、率直にこれは行き過ぎていると思う。
大学入試に合格した時には社会になじもうと大学の門を叩いたのだろうに。
寄り添う姿勢
本日、本作監督と「マミー」の二村監督の対談付上映に行ってきました
和歌山カレー事件を扱った「マミー」は、極力中立的な立場を目指して描く努力をしている印象を受けましたが、本作は主人公に寄り添うような温かい眼差しにあふれていて、グイグイ引き込まれてしまいました
本作の長塚監督と二村監督の対談でも、そのあたりのお話が聞けて楽しかったです
二村監督の「どうしてここでこうしないんだよ」と本作に対してイライラした部分があったとのコメントには、「マミー」とのスタンスの違いを気にしながら見ていた私には、思っていた通りすぎて笑ってしまいました(二村監督は全体を通しては、長塚監督のスタンスに肯定的な意見だったという点は付記しておきます)
たくさんの人に見てほしい映画です
真実は……
厳しすぎる世間の中で、 真っ当に、一歩一歩誠実に生き続ける人 どう...
厳しすぎる世間の中で、
真っ当に、一歩一歩誠実に生き続ける人
どうぞお幸せに
この映画で泣かされたことは意外だったけど、
自分でもどういう感情で泣いたのか判らない
でも確か3回くらい泣いた
映画の前に、ドキュメントとしてとても良かった
見て良かった
1人でも多くの人に見て欲しい
「それでも私は...生きていく(生きている)」
阿佐ヶ谷ロフトAでの先行上映会&トークイベントで鑑賞しました。
オウム真理教・麻原彰晃(松本智津夫)の三女、松本麗華さんを6年間にわたり追ったドキュメンタリー。
12歳のとき、サリン事件で父親が逮捕され、16歳で教団を離れた。その後41歳となった今もなお、国は彼女を「関連教団の幹部」として認定し続けており、認定取り消しを求めた裁判でも敗訴している。
加害者家族は、時として被害者そのものである。彼女は世間からの激しいいじめやバッシングだけでなく、国家からも人権を剥奪され続けている。
大学入学拒否や職場での解雇に加え、理由のない銀行口座開設拒否、海外渡航の制限など、日常生活そのものがいまだに大きく制約されている。
精神的に追い詰められ、時には寝込んでしまうこともある。それでも彼女は何度でも立ち上がり、しなやかで力強く日常を生きている。その姿が丁寧に描かれている。
小規模な公開かと思いきや、全国25館で公開されており、新宿K'sシネマでは1日3回も上映されているという。
出演者には森達也、宮台真司、鈴木邦男、香山リカ、雨宮処凛など、ファン垂涎のメンバーが名を連ねている。ただし登場シーンは少なく、発言も主に前者2名のみであるため、過度な期待は禁物だ。それでもファンにとっても十分観る価値のある作品である。
麗華さん自身は「バッシングする人は、観てもなおバッシングするだろう」と語るが、それでもこの作品は、より多くの人に観てもらうべきものであることに疑いはない。
途中で何人ものディレクターが離脱するなか、6年間にわたり撮影を続けた長塚監督と、見る者に勇気を与えてくれる麗華さんに、最大限の賛辞を送りたい。
全14件を表示