カーテンコールの灯のレビュー・感想・評価
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演劇を通じて浮かび上がる家族の痛みと再生の道
じっくり味わいの沁みる良質なヒューマンドラマである。あらかじめ言っておくと、キャストは無名だし、題材も派手なものとは言い難い。それに序盤は、トラブルメーカーの娘を巡って両親が頭を悩ませる場面から始まり、事情を知らない我々からすると多少の”とっつきにくさ”もほとばしる。だが、メインの父親が地域劇団に足を踏み入れていざ「ロミオとジュリエット」の世界にのめり込み始めると、途端に何か言いようのない魅力の実が育ちはじめる。これまで演劇に縁もゆかりもなかった彼が物語に触れ、輪の中で役柄を見つけ、演技へ情熱を捧げることで、いつしか彼ら3人家族がひたすら辿ってきた大きな悲しみの旅路が浮き彫りになっていく。この脚本と構成の妙。溢れ出る感情。キャストが無名だからこそ先入観なく内面に溶け込むことができる尊さ。幕が上がる。演劇モノ特有の高揚感が物語を席巻していく。世代を選ばず、多くの観客の心に灯をもたらす良作だ。
何か向き合うものがあるのは良い
中盤くらいまで、ダンたち家族が3人とも怒りっぽかったり、デイジーは言葉使いも良くないから、あまり好感が持てない。
なにかあるのは察しがつくけど、その原因がはっきりしないまま、それぞれが負の感情を押しつけ合うから、少ししんどい。本当に壊れた家族ではないのは救い。
理由が分かった後でも、なかなか自分を納得させられないのは理解できる。
演劇にきちんと向き合うようになってからはダンも柔らかくなっていって、途中から役者交代したかと思うくらい表情が違う。
『ロミオとジュリエット』とリンクしていて、ロミオを理解して演じることによって乗り越えていく。心の再生という言葉は、安直な気がしてあまり好きではないけれど、まさにそういうことなんだろうな。
途中で辞めた若い役者が、ジュリエットが歳とりすぎだの、インティマシーコーディネーターつけろだの言ってたのはちょっと面白かった。町のコミュニティ劇団で何言ってんだ。
歌舞伎では、70過ぎても吹輪に花かんざしで姫君演ってる方いますよ。
映画やテレビドラマでは、あまり実年齢との開きは少ないけどその点、演劇は自由なのが面白い。
ざっくりとしか知らないから、『ロミオとジュリエット』も観てみよう。
タイトルなし(ネタバレ)
米国の地方都市。
中年の道路工事作業員ダン(キース・カプフェラー)。
家族のなかでトラブルを抱えている。
高校生の娘デイジー(キャサリン・マレン・カプフェラー)が学校で問題行動をして、妻シャロン(タラ・マレン)ともども呼び出された・・・
といったところからはじまる物語。
ポスターデザインだと、「不器用オヤジのドタバタ演劇コメディ」っぽいが、さにあらず。
トラブルを抱えた家族の物語、親父自身も心底を見つめ直し、孤独や怒りを肯定する物語。
なるほど、『セイント・フランシス』の脚本・監督陣だけあるね。
話の進め方が巧み。
娘の問題行動は氷山の一角、ごく身近に見えているだけで、家族が抱えるほんとうの問題・苦悩は何かをなかなか見せない。
苦悩の種が、舞台劇の『ロミオとジュリエット』とクロスオーバーしていくことで、親父自身の苦悩を一歩引いたところから見てみる、という構成。
実に巧みと言える。
得てして重くメランコリックになりそうな題材に、少しユーモアも交えて。
こういうのがアメリカ映画らしい。
近年、少なくなりました。
妻の立ち位置、立場、心情などがわかりづらく、そこいらあたりが難点かなぁ。
普通にいい映画で、普通に感動する
演劇セラピー
エピソードの扱いが不器用
期待していたほどの感動は起こらなかった。が、劇中音楽(挿入歌を含む)の美しさに感動。
この映画は、演劇には役を演ずることにより、セラピー効果があるという事を訴える映画だった。
要は他者を演ずることにより、現実の自分から離脱することができる。他者を演ずるには、想像力が必要。また、芝居は1人芝居を除き、共演者と一緒になって芝居を作り上げていく。作り上げていく過程で役者感の一体感を味わう事ができる。それがセラピー効果を生むのかな。私は芝居をしたことがないので、よくわからない。
家族の不幸と「ロミオとジュリエット」が重なっているところが味噌かな。
それよりも、劇中音楽の美しいこと。久しぶりに感動した。冒頭のオペラかミュージガルの序曲からして美しい。音楽を担当したした方は、初めてきく名前だった。今後、注目したい。
誰かになれたら
思春期真っ只中の娘に手を焼きながら、私生活もうまくいっていない様子の夫婦。しかし彼らにはある哀しい過去があり…といった物語。
燻っていたダンの元に、ひょんなことから演劇の誘いが。いやいやそんな割とスンナリ入っていくかい!…なんてツッコミながらも、まさかのロミオ役を任されることとなったダンだったが…。
登場人物はそれぞれに問題を抱えているようだが、その背景が暫く明かされないので、中盤までは中々感情移入が難しいかも。
それでも、全てが明らかになった段階でダンが演技を躊躇した気持ちや、彼らの哀しい物語が奇しくもそれをなぞらえていたこともあり、中々に胸が締め付けられる。
そんな中でもちょくちょく笑わせてくれるのはよいですね♪
演劇を通して家族が1つになっていく様や、そうは言っても現実的に踏ん切りをつけることなどできるハズのない奥さんの描写はリアルで良かったし。そんなこと言われてもキリンをゴミ箱にバンするわな…なんて思わされたり。
更に、辛い状況にあってもこんな温かな仲間達がいるのはとても羨ましく思えた。やっぱり良いですよねこういう繋がりは。
分かりづらい部分もあったけど、1つの答えに落とし込む作りや、仲間達の心強さに胸が温まる作品だった。
悲しみを乗り越えるには、対話と温もりが必要なのだと思う
2025.7.3 字幕 アップリンク京都
2024年のアメリカ映画(115分、PG12)
家族に問題を抱える偏屈親父が街の劇団で奮闘する様子を描いたヒューマンドラマ
監督はケリー・オサリバン&アレックス・トンプソン
脚本はケリー・オサリバン
原題は『Ghostlight』で、誰もいない劇場などにずっと灯り続けている照明のこと
物語の舞台は、アメリカ・イリノイ州ウォーキガン
建設作業員として働いているダン(キース
カプフェラー)は、家族に起きたある事件からずっと立ち直れずにいた
彼には学校の先生をしている妻シャロン(タラ・マレン)との間に、15歳になる娘デイジー(キャサリン・マレン・カプフェラー)がいたが、彼女は素行が悪く、学校から呼び出しを喰らいまくっていた
ある日、路上の工事中に通行人とトラブルになったダンは、そこに偶然居合わせたリタ(ドリー・デ・レオン)に声をかけられた
少し離れた先にある空きテナントに擦れてこられたダンは、そこで数人が演技の練習をしているのを目撃する
「なぜここに?」と聞くと、リタは「別人になりたがっているように見えたから」と答えた
リタは元女優で各地を駆け回っていたが、地元でも何かをしたいと考えていた
そこで「ループメカニズム」という劇団を立ち上げて、社会からはみ出してしまった人たちを集めて、内輪で寸劇を上演しようと考えていた
ダンはあまり乗り気ではないものの、同じように悩みを抱えた彼らとの時間を過ごす中で、能動的に参加していく事になった
彼はその行動を家族に内緒にしていたが、間が悪い事に、リタと抱き合っているところを妻とデイジーに見られてしまった
妻は浮気をしていると思い、デイジーは父の行動を追いかけるようになった
デイジーは楽しそうに演劇に没頭する父の姿を目撃する
ダンは「ここでは忘れていられる」と言い、デイジーもその劇に参加することになったのである
映画は、劇中で「ロミオとジュリエット」を演じるというベタな内容なのだが、「両家が呪いあう」とか、「愛する二人が両家の不寛容によって自死を選ぶ」というところが「問題」を彷彿とさせていた
映画では、ダンたちが抱える問題というものがミステリー要素になっていて、彼らの庭で何が起こったのかは後半になってから描かれる
デイジーの校内暴力に関しても、事件が起点となっていて、そこには相容れないものがあった
ダンは、相手の家族に事故の遠因があると訴えていて、そのための会合が設けられていた
だが、演劇活動を通じて変化していくダンは、相手の感情を汲み取って、「もし立場が違えば」と訴えることを辞めてしまうのである
映画の原題は『Ghostlight』で、これは「無人の舞台などでずっと点いている照明」のことで、舞台に対する敬意であるとか、慣習と言ったものが込められている
舞台のスポットライトを浴びることで、ダンに取り憑いていたものが浄化されていくという意味合いもあるのだろう
何者かになったことで、過酷な現実を乗り越える事になるのだが、見ないふりをするよりも、向き合って消化することのほうが大切なんだなあと思った
いずれにせよ、ダン一家がリアル家族というのが驚きで、夫婦のイチャラブを見せられる娘の反応がリアルで良かった
リタを含めた劇団員も個性的で、それぞれが抱えている悩みまでは描かれないけれど、その優しさというのは十分伝わる内容だった
ロミオとジュリエットを知らなくても問題ないくらいに説明は入るのだが、劇が始まる際の前口上をデイジーが行うのは感慨深いものがある
彼らは「ちゃんと悲しみたい」と考えていて、それを阻害しているのが訴訟沙汰だと思うのでが、ここまで家族を巻き込んで「自分だけが英雄になろうとする」という妻の言い分も最もだと思う
この家族には対話が少なく、それがブライアンの事件を引き起こしたのだと思うが、それを呪いと取るかどうかはそれぞれの思考に依るのかもしれない
だが、この劇を機に対話が増えていくと思うので、そう言ったセラピー的な効能もあったのかな、と感じた
ホワイティング/ハッセー版にして欲しかった
おんぼろ劇団がシェイクスピアで大(?)成功、というと「恋に落ちたシェイクスピア」を思い出す。最後にリタが言う「次は喜劇で」は、うろ覚えだが、「恋に〜」でエリザベス1世がロミオとジュリエットを観終わったときと同じ台詞だったかも(あの頃のグィネス・パルトロウは美しかった…)。多少は意識したシナリオのような気がする。
それはともかく、心中未遂と劇を並列させるのはベタといえばベタだけどサスペンス風味を添えて、単なるおっさんの再生物語で済ませない事に貢献していると思った。
デイジーが例の「Two households〜」の前口上を誦じるのは、日本の高校生が「春はあけぼの〜」を暗記してるようなもんなのだろうか。こういう文化的背景を知っていればもっと楽しめたのだろうと、少し歯痒い。
話すのは大切なことなのを再確認
主人公と歳も近いし口下手だし怒り方も分かるわ。親近感覚えるわ。
形式的なセラピーよりも色んな事をぶつけ合う役者の方が向いているのかもね。
少しずつほんの少しずつだけど自分たちの心に素直に向き合いこれからどうして行くのかを見えなかった暗闇に小さな光を見出していくのがとてもよく伝わってきたね。
なかなかの口下手だからどうなるのかと思ったけど……ハグって凄いな。改めて思うな。
娘とやっとまともに話が出来てフツーの父娘関係に戻れたのをみたら、すんごい安心したわ。
すんげージワジワくるあたたかさ。いいね。
まったく事情もなんも知らないほうが向き合えて受け止めれるのが心に染みるのからいいね。
あの庭に花が溢れて咲く日は遠くないよ。きっと。
「ロミオとジュリエット」について思うこと
地域のアマチュア劇団での活動を通じて主人公が落ち込んでいた自らを再生させ、壊れかけていた家族の絆を取り戻してゆくストーリーです。
主人公は建設作業員のダン。何やら、いらいらしてアンガー•マネジメントができなくなってる模様。素行不良の高校生の娘にも手を焼いています。そんな彼に地域のアマチュア劇団がいっしょにやらないかと声をかけます。ダンは「ロミオとジュリエット」のロミオを演じることに……
ダンが娘のデイジーといっしょに映画『ロミオとジュリエット』を(たぶん配信で)観るシーンがあるのですが、ディカプリオが映っていてどうもロミオを演じてる模様。そのとき私は「あ、これ観てないな。そう言えば『ロミオとジュリエット』の映画って観たことあったっけ」。ということで、帰宅してから、この 映画.com でチェックしてみたのですが、ひょっとしたら遠い昔にTVの洋画劇場かなんかで1968年版のオリビア•ハッセーがジュリエットを演じているのを観てるかもしれないな、ぐらいで、他は観た形跡がまったくありません。十代の頃に文庫本でシェークスピアの戯曲を読み漁ってた時期があったので、ロミオとジュリエットの悲恋のお話の内容は知ってはいるのですが、私としてはこのお話は正直言ってあまり好みではありません。特に偶発的に結果的な心中になってしまう結末は悲劇としては深みがなく、新たな恋に舞い上がった二人が暴走して取り返しのつかない失敗をしただけのお話のようにも思えてきます。ちょっと無理筋の仮定になりますが、彼らが携帯電話を持っていて連絡を取りあっていたら、最悪の事態は避けられていたんですね。そこへ行くと、シェークスピアの悲劇の傑作『ハムレット』はもっと本質的なところにおいて悲劇で、ハムレットやオフィーリアがスマホを持っていても悲劇は解決しません。ある時点からハムレットはオフィーリアからの電話には出ないし、LINEもブロックしたでしょうね。
なんで長々と『ロミオとジュリエット』の話をしたかというと、この物語の主人公のダンも芝居の稽古中にロミオとジュリエットの結末に納得できずに、これではロミオを演じることはできない、結末を変えてくれないか、と言い出したからです。まあ、彼の場合はその結末だと彼の家族に降りかかったある悲劇を想起してしまって演じ続けることができないという理由があったからですが。
このあたり、芝居の演目としてのロミオとジュリエットとダンの実人生に起きた彼の息子に関する悲劇がうまくリンクしていてなかなか巧みな脚本だと思います。でも、基になってるのがロミオとジュリエットの話ですから、ダンの息子とその恋人の話は若気の至りなどという言葉ではすまされないほどの取り返しのつかないことをしてしまっていて胸が締めつけられるような感じです。ロミオとジュリエットは話がシンプルなので応用が効きやすいと思うのですが、応用時には注意が必要なのかもしれません。
何はともあれ、アマチュア劇団には娘のデイジーも参加し、ダンは息子のことを仲間に告白し、ロミオとジュリエットも結末を変えることなく無事上演され、喝采を浴びます。ダンとその家族も危機を乗り越えたようです。ほっこりとしたいい映画でした。
ラストでは劇団のメンバーは今度はコメディをやろうと言って解散します。次はシェークスピアの喜劇『夏の夜の夢』はいかがでしょうか。精神的に立ち直ったデイジーが友だちを何人も劇団に引き入れてわちゃわちゃとラブコメディを展開してくれそうです。
本物の家族が演じだけある家族の絆感が素晴らしい
ちょうど空いた時間帯に観たいリストにあったこの映画。はい、きたー!と映画館へ。
ぼんやりと冒頭の工事の場面を観ていたとこに現れたリタ。あれ?この人どっかで…と考えること数秒。
気づきました、この映画観たことある‼️…と。
最初の道路工事の辺りは、どこでみたんだっけー?これ、まさかのリバイバル?違うよなーなんて具合に、去年飛行機の中で観たことを思い出すまで集中出来ず…
ま、その後は、半年以上前に観たこともありうすら覚えだったので、またまた引き込まれ、ウルウルしてしまう羽目に。
うまい具合に『ロミオとジュリエット』を家族の悲劇と重ねたなーと思う。心温まる良い映画に間違いない!が、忘れていた事を考えること、インパクト的にはそれ程無かったんだな…という事で星は四つ。
私が観ながら感心していたのが、ダン、シャロン、デイジーの掛け合い。特に印象に残ったのは、ベッドの中でシャロンがダンにセリフを言ってみてと言うシーン。恥ずかしいから目を閉じてと言ってからシャロンを見ながらセリフを言うシーン、俺はこんな事言わないけどねと言うダンの頬に優しく手を添えるシャロン。何とも素晴らしいシーンだった。デイジーの悪い言葉を夫婦で嗜めるシーン、もう、あの3人のシーンはとても息が合っていて、良い距離感で、今回初めて知ったが、3人は本物の家族という事に納得と感動!ダンとデイジーがベッドの上でPCのシェークスピアを観てるあの2人の横顔は、あー、親子だーと、心がまた温まった。2回目も悪くないな。
言葉ではなく行動で表現している作品
25-082
「老けすぎ」
他の誰かになるチャンスを欲しがっているように見えるとは?
映画の出だしから、どうしたの娘さん(Katherine Mallen Kupferer)、悪態ついて、こんな言葉を使っているなんて。カトリックのセント・メリーという学校に行ってるけど、過去にも悪行があったようだし、今回も先生に手をあげた?からね。うまくいけば、2週間の停学。お母さん(Tara Mallen )とお父さん(Keith Kupferer)も問題がありそうね。特にお父さんはアンガーマネージメントのクラスをとらなきゃ。なんて言う感じで「どうしたの」と思いながらこの映画を見ていた。なぜ家族がメチャメチャなのか?それが徐々に演劇を媒介にして解明されてくる。ロミオとジュリエットの劇にそれぞれが介入することで自分たちを癒していってるんだね。それも監督はこの映画をロミオとジュリエットのストーリーに関連させてあるしね。演劇の場は初めはお父さんにとっての逃げ場であったけど。そして自殺した息子のブライアンのゴーストが終幕 ライトの向こうで見ていて、ロミオ役のお父さんはライトの向こうにほのかに映る息子ブライアンを片目をうっすら開けながら確認できたんだね。きっと息子のブライアンもこの劇を向こうの世界から見ていたんだね。ブライアンにも認められたんだねきっと。
箇条書きにして心に残っているところを感想に:
1)これはこれは苗字が同じなので調べてみたら、この家族三人は本物の家族なんだね。
2)イリノイ州の小さな町に住んでいるミュラー家。お父さん、ダンは建設業で、お母さん、シャロンは学校の先生で娘、デイジーは高校生。娘さんはコメディ調で面白い。お母さんの学校の放課後のドラマクラブの公演を体育館に見にいってる時、生徒たちのことを『誰一人光ってる子はいない』とか声に出していうんだけど、笑っちゃうね。むすめさんはオクラホマという学校のミュージカルに出ていたんだね。それに、ロミオとジュリエットの台詞も暗記してあって、演技も舞台向きで上手だしね。数々の発言も単刀直入だし賢いね。マルチタスクだし、今の高校生っていう感じが十分出ている。
3)ぶっきらぼうのお父さんのダンが助っ人に入らされた、町のコミュニティー演劇グループはダンだけではなく家族ごと救ってくれたね。最初、助っ人に入らされた一日目にダンはみんなの演技を呆れた(両家の争いのシーン)ようにみていたけど、まるでダンの家庭や職場での攻撃的な態度と同じだね。ダンはれに気付いてなく、そうとは思ってはいないようだけど。
4)deposition(裁判に入る前の準備ミーティング)が始まる前に、pre-meeting(depositionに入る前のミーティング)というのがあり、初めは娘さんの学校での態度が問題になっているのかと思ったけど、いやいや違う。お母さんが「困難な状態である。前の家族関係に戻れたら」とかいうから明らかに、お母さんも苦しんでいるから家族全体の問題なんだね。しかし、お父さんはまた逃げる。今度はトイレに。でも、ここで、クリスティーンの名前が出てきて、お兄さんのブライアンとは恋人どうしだったとわかるが、ブライアンはどこにいる??徐々に徐々に皮が剥がれて行って、中核に迫るのは最後のdepositionになる。
5)特に、強烈なシーンは次のpre-meetingで、娘のデイジーが『家に悲しさを表現する安全な場所はない。お父さんが怒鳴り散らすから』と。もちろんお父さんはまた逃げる。困難に直面できないんだね。だから、家族三人でお兄さんのことを話しいたわりあう環境がないんだね。その後、ダンは演劇グループに行って、そこで、「ロミオとジュリエット」の最後のシーンをかえるように頼むが、これはジェークスピアの劇だから変えられないと言われる。ダンはまた怒鳴り散らす。でも、ここで、初めて逃げずに、自分の息子が自殺したという事実を演劇仲間に細々と語る。だから、この演劇の自殺のシーンは彼にとって堪えられなかったんだね。彼にとって、安全で自分の悲しさを表現できる場はここだったんだね。この演劇のグループの場での経験があって本当によかった。このシーンが好きだ。誰にも安心して、自分の気持ちを表現できる場があれば救われるんだよ。リスクテイキングのできない社会は大変だけどここにあったんだね。どこでもいいんだよね。でもさ、本当に自分を吐き出せるところがないとキツイよね。
6)あと最後に、演劇仲間、ディレクター、リタ(Dolly de Leon )の役割はこの家族にとって、また人にとって大きいと思う。リタはプロだったが、片田舎の町に引っ越ししてきて好きな演劇活動を始めたようだ。彼女の言葉から察すると、演劇業界の甘いも酸っぱいも経験しているようだ。だからかもしれないが、舞台を退職したというデイジーに再び、舞台に立つことの喜びを与えたり、自信も持たせてあげたりした。お父さんやお母さんからもらえない復活だ。それに、リタがダンに与えた影響はもっと大きい。なぜ、ダンに声をかけたかというと「It seemed like you might want a chance of being somebody else for while.」と。ダンはしばらくは他の誰かになるチャンスを欲しがっているように見えたということだが、彼女の観察力も然り、私たちの人生において、そう思えることがあるだろうか。よっぽど、辛辣な経験をした時だろうが、たいては、映画や読書という媒体を通じてその「世界に入る」という受け身でしばらく現実を忘れたいと思う。ここでは演ずるという一つの自分から起こす行動を通じて能動的になるである。そして、この行動がイニシアティブになって人間を変えていくことができるということだ。
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