おーい、応為のレビュー・感想・評価
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タイトルは【北斎と応為】が妥当
いつも通り、事前情報は入れずに鑑賞。
北斎の娘、応為の長澤まさみは美しく、スタイルが良い。永瀬正敏の北斎も良かった。特にこんな声を出せるんだと感心。元の永瀬さんの声ではなかったはず。
しかし、、途中から解ってしまったが、北斎の娘である葛飾応為が主役ではなく(観ている人達はそう思ったはず)、北斎と娘の芸術(画)を重きとした生活記、といった内容でした。
他の方のレビューにありましたが、タイトルは「北斎と娘」、または「北斎と応為」が妥当でしょう。
【おーい、応為】のタイトルは伝えられる応為の命名の由来と「お~い!龍馬」を連想させるものかも、、ですが、中身とは合致しませんでした。
また、長澤まさみ、永瀬正敏の演技は良いのですが(長澤まさみは素の部分がでていそう笑)、画を描いている場面は多いのですが、描く努力・プロセスや、完成した作品がアピールされていない。
なので「生活記」な印象が強かったです。
確認されている応為の作品数が少ないにしても、北斎のものも含め、もっと画を生み出す場面と作品を強調すれば、見応えが増したと思われます。
キンプリ・髙橋海人の役も、普通に脇役。
高橋くんは芸術面の感性は感じさせるので、もう少し活躍させても良かったかと。
全体としては、、星3つが良いところでした。
残念極まりない。。!
数年前の「HOKUSAI」を見ていたので、あの時の北斎が田中泯さんでとても感動していたから
「田中泯さんの北斎じゃないなら見ないほうがいいかな。。」と思いつつも、「いや、今回は長澤まさみさんの応為が主人公だから大丈夫かな?」と見ましたが。。
最初の直感は当たるんですね。
やっぱり私の中で葛飾北斎は永遠に田中泯さんでした。
見ないほうが良かった。。
(今回の役者さん、すみません。)
*****
長澤まさみさんの、応為のキャラクター演技は良かったんです。仕事以外のこと、絵のこと以外は家事なんて苦手、お嫁さん・娘さんっぽくなくて格好もちょっと男の人っぽい着流し風?これはこれで「彼女もThe職人だった」という感じでとても良かったです。
でも。。。美人画は凄かったとあらすじとかにありましたがエンドロールで出て来た実際の絵は(これしか現存してない?のか分かりませんが)普通の花の絵1枚だけ。
彼女の才能の凄さが映画では伝わって来ませんでした。
*****
あと葛飾北斎が単なる頑固偏屈じいさんになりさがってる!止めてくれーー北斎さんをここまで変人にしないで!
だって何藩だったか大名から屏風絵を頼まれた時、断る理由を示さずただ使いの侍を門前払いするだけ。
え?断る理由ちゃんと教えて?生計たてる手段なのに、屏風絵を描くことがそこまで嫌な理由は何?そして何度か断ったのに結局しばらくしたら信念ブレて依頼を引き受けるし。
こんな描き方したら北斎さんが信念に筋の通ってない人に見えちゃうじゃんか!!
断るなら理由を述べて最後まで断り続ける。
引き受け条件があるなら明示してから、条件が満たされたことを表現してから信念を持って引き受けてくれ。
もう。。結局どういう心境の変化があって屏風絵を描きに行ったのか全然意味が分からない。
じゃあ最初に引き受けて良かったんじゃないの??
ずっと頑固に断らないと、侍が刀を抜いて応為が啖呵切る場面が撮影出来ないから断らせていたの?としか思えない。北斎さんの信念が適当な扱いを受けていて悲しかったです。
*****
それと応為のお母さんの家、まぁ父親と別居してるんだから離婚してるのか?とは状況から分かりますけど、
なんかいきなり見知らぬ家に入って行くだけだから観客は最初ちょっと置いてけぼりでした。もう少しこの辺の家族構成も説明はして欲しかったです。
HOKUSAIでは「俺は70歳になった。だから人生これからまだやりたいことをやっておきたいんだ。」って言って当時の平均寿命を遙かに越えてからもまだ情熱が尽きることなかった姿を見せてくれたんですが、
応為の気持ちや信念、父親が無くなったあとはおそらく記録が無くて表現しようがなかったのかもしれないんですが、何かこう彼女の生き方や信念や、そういうところを伝えて欲しかったです。彼女が晩年どうだったのか、何も想像出来なくて残念過ぎました。
あと主題メロディーがトランペット?か何かの音色でしたが、せっかくのラストの場面が凄く薄っぺらいコメディみたいになってしまって劇中の音楽もイマイチでした。
スオミに引き続き長澤まさみさんの無駄遣い、と思える残念な作品でした。。
誰向けの映画?
永瀬正敏さんに対して長澤まさみさんの
老け方、無頓着ぶりが中途半端で演技が浅くみえる。あんな汚い暮らしをしてるのに肌が艶々ってなに?
老いた葛飾北斎の面倒を好きでみていると泣くシーンも興冷め。
子どもが年老いた親の面倒を喜んでしていて、それが愛だと言わんばかりの演出、あまりに浅くて笑っちゃう。
このシーン、どうして入れたんだろう。
こういうテンプレート的な愛っぽいものを好む人もいるのか。
おーい応為を観た
電気のない江戸時代 部屋の薄暗さにリアリティーを感じる。
北斎親子の普段怒鳴りあってても心の奥底で繋がっててお互いの絵を尊敬しあってて、応為は北斎を支えてて そういう師弟愛親子愛にじんわりと涙する映画。
北斎を演じる永瀬さんの歳の取り方が凄まじく半端ない!長澤さんの応為はカッコ良く美しい!
善次郎役の髙橋海人さんは飄々としながらも北斎親子を見守ってて爽やかな風を運んでて良い味を出してる。柴犬のさくらが可愛い!
応為という眼、北斎という執念
葛飾北斎の業績や性格、そして当時の社会のありさまを考えると、応為という存在は実に興味をそそられる。
絵の良し悪しを見抜く眼力があり、気性の激しい人物としてまず応為(お栄)は登場する。
長屋での生活や近所付き合いなど、興味深い場面は多いが、生母の住む家を訪ねるシーンはとりわけ印象深い。
雑然とした江戸の長屋と、郊外にある慎ましくも整った生母の家。その往来は、応為が絵だけではない“何か”を求めていたようにも見える。
そこにいる目の見えない妹(北斎の娘)の存在は、視覚的な表現に人生をかけた北斎と応為の才能をいっそう際立たせている。
蟷螂の姿を妹に語る応為の言葉には、簡潔ながらも愛情がこもっており、彼女が見たときの感覚や色、指先の感触までもが伝わってくるようで微笑ましい。
見たものを自分の手で描くことにもどかしさを感じ続けたのが北斎であり、
その北斎の絵の鑑賞者であり、理解者であったのが応為だったのだろう。
北斎の描くことへの異様な執着も、応為という「眼」の存在があったからこそ深まったのかもしれない。
富士山の稜線をゆっくりなぞるようなシーンは、まるで絵師の筆運びを見ているようで、
何かを写し取るというより、突然そこに新しい世界が出現したような感動を覚えた。
“支える才能”が時代を超えて美しくなる瞬間
葛飾北斎の娘であり、弟子であり、時に家政の担い手でもあった葛飾応為。一見すると偉大な父の陰に埋もれた女性絵師を再評価する伝記映画のように思える。だが実際のところ本作は、史実をなぞるよりもずっと静かで、ずっと生活の温度に近い――いわば「日常系時代劇」と呼ぶべき繊細な作品である。筆の音と湯気、猫背の背中と犬の体温。ここでは、芸術とは日常の延長線上にあるものとして、淡々と描かれていく。
長澤まさみ演じる応為は、いわゆる“女性の覚醒”を声高に語らない。むしろ、彼女の生き方は「支えることを選んだ才能」だ。北斎という圧倒的存在のそばで、弟子として、娘として、生活の手を止めずに絵を描く。その姿は、自己表現の抑圧ではなく、尊敬と愛の最終形である。彼女にとって「描くこと」と「支えること」は二項対立ではない。むしろ、父を支えることそのものが、芸術的行為であり、彼女自身の創作だったのだ。
この構造は、映画が選んだタイトル「おーい、応為」に象徴される。呼ぶ者と呼ばれる者、師と弟子、父と娘。呼び声が響くたび、二人の距離が揺れる。その“間”に存在するのが、愛犬・さくらである。史実には登場しないこのフィクションの犬は、北斎と応為の間に流れる感情の媒介者であり、観客の目線を代弁する存在だ。言葉の届かないところに寄り添うさくらの姿が、この映画に温度と呼吸を与えている。大森監督が意図的に低いカメラ位置を多用し、犬の視点から二人を見上げさせる演出は、実に見事だ。まるで観客自身が“第三者としての愛”を感じるように設計されている。
また、この作品の特徴は「筆をとる」行為の映像化にある。多くの芸術家映画が「才能の爆発」を描くのに対し、本作は墨を摺る音や紙を押さえる手の湿り気にフォーカスする。つまり、芸術のロマンではなく、芸術の生活臭を描いているのだ。ここにこそ、『おーい、応為』が2020年代の日本映画として意義を持つ理由がある。SNSやAIが“創作”を軽やかに再生産する時代にあって、この映画は「創るとは、暮らすことだ」と静かに言い切っている。
応為の生き方は、現代社会における“支える人間”の肖像にも重なる。企業でも家庭でも、誰かの成果を陰で支える人々がいる。彼らの名は往々にして表に出ないが、その支えがなければ何も成り立たない。応為の筆跡が北斎の線の下地にあるように、支える者の手はいつも未来を形づくっている。本作はその“裏方の尊厳”を、時代劇という形式で可視化した希有な映画だ。
映画としての語り口は決して派手ではない。むしろ淡々としており、劇的な山場を期待する観客には物足りないかもしれない。だが、この“淡さ”こそが大森立嗣の計算された筆致だ。筆を走らせるようにカットが流れ、セリフを削ることで余白に感情を滲ませる。まるで屏風絵のように、時間が静かに広がっていく。そこで私たちは気づくのだ――応為の人生は、誰かを照らすために自分の光を絞り出すような、控えめで、しかし極めて美しい生き方だったのだと。
「支える才能」は、しばしば過小評価される。だが『おーい、応為』は、その才能こそが芸術の背骨を成していることを教えてくれる。筆を取る手、犬を撫でる手、父を見送る手。そのすべてが創作であり、愛であり、生きることだった。静かな日常の中に芸術の根がある――そう教えてくれるこの映画は、現代を生きる私たちへの、やさしいエールのように響く。
映像暗めが…とても良い◎
淡々とした映画だった。
親子というより、師弟愛だと思った。
「自分の好きなように生きろ」と言う北斎に、「自分が北斎の絵と北斎を選んでいるんだ」というシーンは泣けた…
長澤まさみさんはもちろん素晴らしかった。
永瀬正敏さんは映画を観る前は、北斎?って思っていたが、映画を観たらもう北斎にしか見えなかった。
最期、筆を持ちながら死ぬシーンは胸に迫るものがあった。
こんな風に、何か一つの事に没頭出来る生涯はとても幸せな事だと思う。
映像暗めなのが、二人の絵だけに没頭する生活を表現していて雰囲気があって良かった。
絵画のような映画
江戸時代の生活感の描写は素晴らしい。
登場人物同士の関係性や内面の描写も乏しく、何を考えて行動しているのか想像するしかない。
劇中、「お前の絵は上手いけど動きがなくてつまらない」というような台詞が出てくるが、そのままこの映画の自己紹介になっている。
晩年まで連れ添った芸術家父娘の関係性は尊いが、この映画では描写しきれてないと思う。
【今作は、父、葛飾北斎同様にぶっきら棒で頑固だが”見る人”でもあったお栄と北斎の不思議だが強い父娘の絆を、お栄の想い人魚屋北渓や、後に渓斎英泉となる善次郎の存在を絡めながら描いた作品である。】
ー 飯島虚心の伝記『葛飾北斎伝』と、江戸文化研究家でもあった故、杉浦日向子の漫画『百日紅』所収の数編(『野分』のみ分かった。)を原作に、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の娘で、自らも浮世絵師として活躍した葛飾応為の知られざる人生を描いた作品である。ー
■凡庸な絵師の夫と”アンタの絵を見ていると、苛苛する!”と言って別れたお栄(長澤まさみ)は、父、葛飾北斎(永瀬正敏)が住む長屋に住みつく。
だが、彼女は父を本名でもある鉄蔵から”鉄!”とため口で呼び、愛想はなく、身なりにも無頓着だが、自分によく似た父が、背を丸めて絵を描く姿を何時も観ている。
そして、彼女は結婚前に握っていた筆を執るのである。そして、北斎も”美人画では敵わない。”と認める腕で、吉原の遊女を見ている人たちの姿を見て「吉原格子先之図」を書き上げ父、北斎に”これは、俺でも描けねえ。”と言わしめ、”葛飾応為”の名を貰うのである。
◆感想<Caution!内容にやや触れています。>
・『百日紅』の数編を原作としているからか、今作でのお栄は、ぶっきら棒で愛想もない。そんなお栄を、長澤まさみさんが見事に演じている。
・葛飾北斎を演じた永瀬正敏さんも、流石である。津軽の侍(奥野瑛太)が”屋敷の屏風絵を書いてくれ。”と頼みに来ても、けんもほろろに追い返すのである。
引っ越しを繰り返す二人の新居を侍が尋ねて来るシーンでの、お栄が刀を抜いた侍の前に立ち”切ってみろ!”と啖呵を切るシーンはナカナカである。傍では善次郎(髙橋海人)が、恐怖の余り、固まっているのに・・。
そして、その後北斎は武士の意地を見せた侍の為に、津軽藩の屋敷で屏風絵を描くのである。
父娘共々、肝が据わっており、【似た者同士である事】が、このシーンから分かるのである。
■今作で、お栄はイロイロなモノを只管に観る。江戸の名物でもあった火事は一晩中、近くで観ていて、呆れた魚屋北渓(大谷亮平)に、”美しいから”と告げるのである。そんな彼女は浮世絵師のランクで下の方の魚屋北渓の名を、少し寂し気に見上げるのである。北斎は横綱なのに・・。
更に、彼女は金魚売りの所では金魚のヒラヒラ靡く尾を見て、吉原の遊郭に群がる男達の姿をじっと見るのである。彼女が見る人だった事が分かるのである。
北斎が書く春画を見ても”女の足指の向きが違う。”と言い放つのである。
・『百日紅』所収の『野分』のシーンは、やや異色である。北斎の娘は盲目で、北斎は逃げるように娘と離れて暮らすが、お栄は母(寺島しのぶ)と妹の屋敷に、北斎が娘の為に描いた魔除けの絵を持って足を運ぶのである。
だが、或る日、娘が二人の住む長屋に立っているのを善次郎が見て、お栄が慌てて屋敷に走ると、妹は息絶えているのである。
■圧巻は、老いた北斎が”俺の世話はもういい。”と言った時に、お栄が激昂して”アンタみたいな爺と暮らす道は、自分で選んだんだ!”と父に叫ぶシーンであろう。
彼女は、何だかんだ言いながら、父、葛飾北斎を尊敬している事が良く分かるシーンだからである。
可なり沁みるし、永瀬正敏さんと長澤まさみさんの演技のぶつかり合いに魅入られるシーンでもある。
<今作の魅力は、劇中で葛飾北斎とお栄が絵を描くシーンでの、手の使い方や流れる様に描かれる画であろう。実に面白い。二人が手を動かすと、魔法の様に浮世絵が出来上がるのであるから。
今作は、父葛飾北斎同様にぶっきら棒で頑固だが”見る人”でもあったお栄と北斎の不思議だが強い父娘の絆を、お栄の想い人渓斎英泉や、後に渓斎英泉となる善次郎の存在を絡めながら描いた作品なのである。>
タイトルなし(ネタバレ)
長澤まさみさん、永瀬正敏さんが圧巻でした
鬼才の父の元での応為の強さ弱さ才能を自然に描いていた
その2人に何気に寄り添う髙橋海人くん演じる善次郎も明るいながらもまた重いものを持って絵師として生きて行く葛藤
寄り添う劇伴も心地良く江戸時代の音にもこだわりがあった
まるでドキュメントを観ているかのようなリアリティーがありました
時代にタイムスリップ出来ます
数々北斎の物語がありますが、こういうタッチの映画とても好きです
葛飾園 お~い 仙人茶 Oi Sennincha
葛飾北斎の弟子であり娘でもあるお栄、後に北斎から名付けられる葛飾応為の半生の話。
目と腕が肥えている為に夫の描く絵にケチをつけたことで離縁となり、北斎の元へと出戻る事になるお栄だったが…。
ストーリーの起伏は感じず、ただただお栄の日常と何十年に渡り北斎を支えてきたお栄の半生って感じですかね。
冒頭から入る夫の描く絵をディスる入りは嫌いじゃないけれど、私の求めてたのはお栄こと葛飾応為の絵を描く姿、口だけじゃなく腕も間違いなくあるよ、みたいな絵を描く描写をもっと観たかったってのが正直な感想。
それでも寝落ちせずに観れたのは長澤まさみさん、永瀬正敏さんの画力ですかね、きっと。雨に打たれ濡れ髪に濡れた着物姿のお栄演じた長澤まさみさんに色気を感じた。
視点はどこにある?
タイトルからすれば北斎娘お栄(葛飾応為)が主人公のはずですが、見終わると父北斎の写ってる時間の方が多かった気がする。
初っぱなから怒鳴り合い・罵り合いのシーンが多く、何をそんなに怒ってるの?と思う。
杉浦日向子の「百日紅」のエピソードとかがいろいろ出てくるのだが、エピソードの羅列というか、ぶつ切りというか、脈絡なく並んでいるだけという感じがする。
監督は北斎父娘の何を描こうとしたのか?
「北斎漫画」(緒形拳主演)は北斎の若いときから晩年までを順当に描く正統派の伝記映画だった。「Miss Hokusai」は「百日紅」のアニメ化で江戸の美しさを表現していた。また、宮崎あおい主演のテレビドラマは応為の絵に焦点をあてていた。
本作は何に視点を置こうとしたのかわからない。父娘関係か、絵師としての応為か、女性としてのお栄か‥。
「百日紅」では善次郎(渓斎英泉)が活躍するが、この映画の善次郎はただいるだけ。津軽の殿サマの依頼を邪険に断っていたのに、なぜか描きに行く。仙人になる薬とか、何のためにこういうシーンを入れたのかわからない。
芸術と日常
応為の作品というよりは
家族との絆、芸術と日常を描いた感じ。
善次郎が吉原帰りに応為と会うシーンは
艶やか。終始、長澤まさみは破天荒だが
色気があった。
あの内に秘めてる物が
『吉原格子之図』『夜桜美人図』
に反映されてるのだろう。
絵は綺麗で素敵。
絵を描き、引っ越しをして、絵を描く
とストーリーの山場がなかった。
北斎と応為の不思議な親子関係。
だらしなく、足りない物も分かりつつ
リスペクトして理解をする二人の半生を
垣間見る映画でした。
作り手の滑稽さと悲哀
アーティスト親子の可笑しさ、苦しさ、一言でいうと作り手の性を丁寧に描いた映画でした。
見方は少し難しいのかなと思ったけど、芸術家の変態性というか歪さみたいなものを、愛を持った目で見てあげて欲しいなと。
細部までこだわったであろう装飾品や小道具、ただ、
江戸の町の再現はなかなか難しいなと。
好き嫌い分かれると思いますが、間違い無く力作です
職人技が光ってた
永瀬さんと長澤さんのお芝居に圧倒されっぱなしでした…
お栄さん、あんなすごいお父さんいたら、どうしていいかわからなくなっちゃう時ばっかりだよな…
何かどうしても、比べながら考えながら生きるしかないお栄さんだったのかなと思いました。
あと、北斎さんの優しいお父さんなところも好きだった。
絵を描いてる時は狂気に囚われちゃう時もあるだろうけど、娘を心配する心もちゃんとあるよね。
絵はもちろん、所作も佇まいも北斎やお栄であるということも追求されたんだろうなと思えてカッコよかったです!
善次郎はじめとする2人の周りにいる人たちも、優しくて明るい粋な江戸の人達って感じで好きだった。
特に、善次郎を演じる海人くんの自然と出てしまっている人懐こさと色気がよかったな。
色気のほうのバロメーター強い時と、単純にかわいい弟子の時との使い分けに、いいねめっちゃ押したくなった。
北斎、応威、英泉、北渓…てかあの時代の絵描き全員の絵が集まってる美術館とかないのかな!
映画見てから行きたい!!
絵を描くことが好きで、絵を描くためなら自由で、でも生きていたらどうしても感じてしまう生死と向き合うと絵を描くことを止められない。やりたいことに貪欲に生きている人たちを見てカッコいいな!が止まりませんでした。
⭐︎3.2 / 5.0
10月17日(金) @映画館
おーい、応為
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睡魔にやられたか気付けないレベルで起伏なし🥱「まさか食うのか?」にツボり「もっともぉ〜っと」で電話しそうにタケモットw
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#movie 🎬2025
#備忘録
#おーい応為
#映画
#映画鑑賞
#映画レビュー
#映画好き
#映画好きと繋がりたい
#映画好きな人と繋がりたい
【朗報】長澤まさみ様、更に演技の幅を拡げてしまう。あまり知られていない父と娘の絆を描いた良作時代劇。
自分は演者の力量を量る指標のひとつに「キレ芸」の良し悪しで判断していますが、冒頭の出戻ってきた長澤まさみ様のキレ芸のキレ味があまりよろしくないのです。あれれ~、おかしいぞ~(by江戸川コナン)と思ったのですが、実はこれが後半につながる伏線だったのです。
葛飾北斎の人となりはWikipediaでも詳しく説明されているので、ここで説明する必要はないですが、娘であり弟子でもある「お栄」については出自も不確かな部分が多く、作品として確かな物もエンドロールで一点だけ紹介されているくらいです。
で、主役のお栄を演じる長澤まさみ様ですが、着物は裾が短い着流しで男のように兵児帯を腰骨で結んでいます。一人称も「俺」で話し方もべらんめえ口調ですが、絵を描くために筆を執る指先や時々アップになる表情が実に色っぽい!
全体的に大きなヤマもオチもなく、ただ淡々と普段の父娘関係が綴られていきますが、他の作品だったら絶対に睡魔に襲われているはずなのに、美しいカメラワークと時代劇には合わないはずのジャズ調の挿入曲のおかげで、どんどん目が離せなく没入する事が出来ました。
卒寿で天寿を全うした葛飾北斎ですが、一生の中で九十回以上引っ越しを繰り返したのは有名な話で、江戸市中だけでなく霊峰富士の麓のあばら家で父と娘で暮らしたりもします。ここで北斎は自分の死期が近い事を悟り、お栄に自分のような老いぼれに構わず好きなことをやるために江戸に戻る事を勧めます。
ここで冒頭の伏線を回収する長澤まさみ様の見事なキレ芸が発動、「自分は自分のやりたいように生きているんだ、それはあんたと一緒に暮らして絵を描くこともそうなんだ」と泣きじゃくりながら心中を吐露するのです。つまり冒頭の弱めのキレ芸は出戻りの自分に対する呵責と、父を慕ってのキレ具合という事になります。
江戸市中に戻ってきた二人ですが、北斎は飼い犬のさくらの死や弟子の善次郎に先立たれたことによって、自分の生きている間は創作意欲を絶やさず作画に取り組むようになっていきます。ここで二人は今までの割長屋から少し大きめの屋敷で暮らすようになります。
お栄の出戻りから二十九年、白髪が目立つ歳になったお栄は相変わらず北斎の世話をしていますが、「飯はどうする?」と問いかけても北斎の返事がない事で様子を見に行くと、富士の麓で暮らしていた時の情景を描いた「富士越龍図」の前で事切れていたという、世界にも通じる稀代の浮世絵師の最期の描き方としては最適解だと思います。
余談ですが、東京テアトルの作品はスクリーンの縦横比がワイドではない(この作品では6:9位か)作品が多いのですが、意外とこの部分が大事で時代劇としての信憑性を増すことに繋がっていると思います。
何が悪いってんじゃないけど、さすがに退屈
特に大きな事件があるじゃなし、ドラマティックな展開がある訳でもない、静かな物語、でも考えさせられるものが散りばめられてて、深い。と言う映画が大好きです。欧州なんですよね、その手のヤツ。
コレも、その路線だとは思うんですが、大森監督なんです。テーマは、大森監督得意の家族・親子のアルバム、っていうか歴史みたいなやつ。
過剰演出なしで静かに淡々と物語は進みます。が、伏線的なものはしっかり残して回収。北斎娘の内心の変化を暗に示唆してくれます。
なんですが、なんか詰まらない。
長澤まさみさん、永島敏行さんの芝居には何の文句も有りません。画家生活のリアル過ぎる描写も面白いと思います。画も綺麗です。
でも、ホンマに退屈なんです。
イヤイヤあれですかね。
画家としての素晴らしさや、作品の持つ力、をおそらく意図的に不描写で行ったんだと思うんですが。そこは一定の描写が有ったほうが、北斎親子への共感を引き出す、つまりは親子の関係や運命への興味を引き出すんで、そうした方が良かったのではないかと。
「アンタの死に水は私が」と言う決め台詞も唐突に見えて。
大森監督+長澤まさみは、マザーがすごく良かったので期待してたので、肩透かし食らった気分です。
気を取り直して、次行こ!
長澤まさみを眺める映画だと思うけど、ちょっと物語の起伏が無さすぎる気もする
2025.10.17 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(122分、G)
原作は飯島虚心の『葛飾北斎伝』及び杉浦日向子の『野分』『木瓜』
絵師・葛飾北斎の娘・お栄を描いた伝記映画
監督&脚本は大森立嗣
物語の舞台は、1820年のどこかの貧乏長屋(史実では名古屋近辺)
浮世絵師・葛飾北斎(永瀬正敏)の三女・お栄(長澤まさみ)は、絵師の夫と過ごしていたが、彼の絵を貶したことで出戻ることになった
父の家に戻ったお栄は、タバコを蒸しながら何もしない日々を過ごしていて、たまに父の世話をしているくらいだった
父には善次郎(髙橋海人)と初五郎(大谷亮平)と言う弟子がいて、善次郎は遊び人で、初五郎は至って真面目な男だった
お栄は初五郎に恋心を抱いていたが、彼にはそんな気は微塵もなかった
恋に敗れたお栄は、離れて住む母・こと(寺島しのぶ)のもとに行き、病弱の妹・はつ(一華)との時を過ごしていく
はつは生まれながらに体が弱く、盲目の身でもありながら、真っ直ぐに生きていた
だが、彼女は短命に終わり、お栄の心は虚しさだけが募っていった
物語は、北斎の後妻・こととの間に生まれた娘を描いていて、彼女自身はのちに「応為」と呼ばれる絵師に成長していく
映画では、そんな絵師の側面も描かれるのだが、ほとんどは北斎との衝突シーンになっている
彼女にどんな絵の才覚があったのかは「見てください」レベルで、北斎が応為と名付けた理由なども映画内ではほとんどわからない
「おーい」と呼ばれていたとしても、その漢字を当てはめるきっかけとか理由はあるはずで、そう言ったものは説明されていなかったように思えた
映画は、あまり起承転結を感じない作品で、淡々と時間が経っていく印象があった
ほぼ北斎の晩年を描いている伝記映画のようにも思え、永瀬正敏の特殊メイクが見どころのように思える
飴を買ったり、金魚を飼ったり、犬を拾ったりするのだが、それが作品にどのように影響を与えたのかもわからない
ただ、寂しさをずっと感じていたことは確かなようで、北斎は自分がいなくなった後にどうなるのかを心配していた
北斎よりも母ことの方が先に亡くなっているので、そのあたりの懸念をずっと持っていたのではないだろうか
ラストでは、北斎の死後は文献がほとんどなく、どのように死んだのかとかはわからないとされている
パンフレットには北斎と応為の年表があるのだが、応為がいつ生まれたのかも定かではないようだった
ウィキにも生年は載っておらず、彼女が残した作品の年代だけは明記されている
それぐらい謎多き女性と言うことなのだが、長澤まさみを配したところで、もっと男女関係が派手な作品になってしまうのかと思った
「妹だと思っている」と言われて引き下がるようなキャラにも見えないので、もっと暴走させても良かったのかもしれません
いずれにせよ、起承転結的な物語の流れがあんまり感じられない作品で、淡々と時間が流れていくように感じられた
エピソードのほとんどが周りで起きていることばかりで、お栄が起点となっているものが少ないのも起伏の無さのように思う
彼女には絵を見る才能があったし、動きのある面白い絵というものを描いているのだが、それがどのような努力で描かれたのかとか、どのような才能があったのかはほとんどふれられていないのは残念だった
絵画論を展開すれば良いというものではないと思うが、作品を完成させる過程の中で、北斎を唸らせたものの正体をもっと明確にすれば、見方も変わるのかな、と感じた
全41件中、21~40件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。








