「“支える才能”が時代を超えて美しくなる瞬間」おーい、応為 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
“支える才能”が時代を超えて美しくなる瞬間
葛飾北斎の娘であり、弟子であり、時に家政の担い手でもあった葛飾応為。一見すると偉大な父の陰に埋もれた女性絵師を再評価する伝記映画のように思える。だが実際のところ本作は、史実をなぞるよりもずっと静かで、ずっと生活の温度に近い――いわば「日常系時代劇」と呼ぶべき繊細な作品である。筆の音と湯気、猫背の背中と犬の体温。ここでは、芸術とは日常の延長線上にあるものとして、淡々と描かれていく。
長澤まさみ演じる応為は、いわゆる“女性の覚醒”を声高に語らない。むしろ、彼女の生き方は「支えることを選んだ才能」だ。北斎という圧倒的存在のそばで、弟子として、娘として、生活の手を止めずに絵を描く。その姿は、自己表現の抑圧ではなく、尊敬と愛の最終形である。彼女にとって「描くこと」と「支えること」は二項対立ではない。むしろ、父を支えることそのものが、芸術的行為であり、彼女自身の創作だったのだ。
この構造は、映画が選んだタイトル「おーい、応為」に象徴される。呼ぶ者と呼ばれる者、師と弟子、父と娘。呼び声が響くたび、二人の距離が揺れる。その“間”に存在するのが、愛犬・さくらである。史実には登場しないこのフィクションの犬は、北斎と応為の間に流れる感情の媒介者であり、観客の目線を代弁する存在だ。言葉の届かないところに寄り添うさくらの姿が、この映画に温度と呼吸を与えている。大森監督が意図的に低いカメラ位置を多用し、犬の視点から二人を見上げさせる演出は、実に見事だ。まるで観客自身が“第三者としての愛”を感じるように設計されている。
また、この作品の特徴は「筆をとる」行為の映像化にある。多くの芸術家映画が「才能の爆発」を描くのに対し、本作は墨を摺る音や紙を押さえる手の湿り気にフォーカスする。つまり、芸術のロマンではなく、芸術の生活臭を描いているのだ。ここにこそ、『おーい、応為』が2020年代の日本映画として意義を持つ理由がある。SNSやAIが“創作”を軽やかに再生産する時代にあって、この映画は「創るとは、暮らすことだ」と静かに言い切っている。
応為の生き方は、現代社会における“支える人間”の肖像にも重なる。企業でも家庭でも、誰かの成果を陰で支える人々がいる。彼らの名は往々にして表に出ないが、その支えがなければ何も成り立たない。応為の筆跡が北斎の線の下地にあるように、支える者の手はいつも未来を形づくっている。本作はその“裏方の尊厳”を、時代劇という形式で可視化した希有な映画だ。
映画としての語り口は決して派手ではない。むしろ淡々としており、劇的な山場を期待する観客には物足りないかもしれない。だが、この“淡さ”こそが大森立嗣の計算された筆致だ。筆を走らせるようにカットが流れ、セリフを削ることで余白に感情を滲ませる。まるで屏風絵のように、時間が静かに広がっていく。そこで私たちは気づくのだ――応為の人生は、誰かを照らすために自分の光を絞り出すような、控えめで、しかし極めて美しい生き方だったのだと。
「支える才能」は、しばしば過小評価される。だが『おーい、応為』は、その才能こそが芸術の背骨を成していることを教えてくれる。筆を取る手、犬を撫でる手、父を見送る手。そのすべてが創作であり、愛であり、生きることだった。静かな日常の中に芸術の根がある――そう教えてくれるこの映画は、現代を生きる私たちへの、やさしいエールのように響く。
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北斎と応為の関係性は、精神医学で言うところの「相互依存」に当たるのではないかと考えます。それもベタベタな関係ではなく、多くの兄姉妹の中で北斎の遺伝子を「たまたま」受け継いだ応為だからこそ築けた関係だと思います。
自分はデザイン学校出身なのですが、娘が教えた訳でもないのにコミケで薄い本を作る才能を発揮して、良い具合に北斎と応為のような関係性で暮らしています。
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