おーい、応為のレビュー・感想・評価
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応為の内面のドラマはあまりない、芸術家親子の日常系映画
タイトルロールは葛飾応為だが、終盤にはいつの間にか北斎の物語になっていた。
応為関連のエピソードの多くが断片的で、ただ日常を淡々とたどっているように見えたこと、そして永瀬正敏の北斎の方がキャラ・ビジュアル共に作り込まれている印象だったことがその原因だったように思う。
先によかった点から書くと、長澤まさみはとても魅力的だった。北斎の部屋でくつろぐ彼女の、着物の裾から覗く膝下の長くて美しいこと。江戸時代に本当にいたら周囲から浮くのではといらぬ心配が湧くほどのスタイルのよさ。そんな彼女が着流しのようにマニッシュに着物を着こなして強気な物言いをすると、独特の婀娜(あだ)な雰囲気がただよう。
ところどころで見られた、江戸のレンブラントとも呼ばれる応為の画風に寄せたような光と影のコントラストが美しい映像は、応為へのリスペクトを感じられてよかった。
ずっと美しかった長澤まさみの横で、老けメイクばっちりなだけでなく老いを段階的に演じ分けた永瀬正敏の演技力が際立った。
正直なところ、人間的な魅力も北斎の方が上手く描けている気がした。馬鹿にしていた長寿の煎じ薬(wikiによると茯苓(ぶくりょう)という生薬らしい)をしれっと常飲していたり、迷惑がっていた子犬のさくらを添い寝するほど可愛がるようになる様子は人間味があって微笑ましかった。愛する者の姿に死の影を見ることに耐えられないのか、病床の息子にも会いに行けなかった彼が、取材旅行から帰ると死んでいたさくらの墓の前で、肩を震わせる姿に胸が痛んだ。
パンフレットの年表と、以前見た「新美の巨人たち」の応為の回での情報を合わせると、応為が夫と離縁して北斎のもとに身を寄せた1820年、彼女は20歳位だったと思われる(厳密には生没年不詳)。長澤まさみの美しさと演技で、この時期の描写にはさほど年齢的な違和感はない。
ところがこの後、11年ほど時間が飛んだ場面で、北斎はがっつり加齢が進んでいるのに応為の顔はつるんとしたままなのを見てちょっとだけ「あれ?」と思った。
まあいいか、と思っていたら、時間の経過と共に北斎だけがさらに年を取っていき、応為は終盤で少し白髪が生えたもののお肌はツルツルなままで(北斎が亡くなった1849年、応為はアラフィフのはず)その落差に対する違和感が雑念になって気が散ってしまった。
もう少し、2人の加齢のペースを揃えてもよかったのではと思う。
また、応為に関するエピソードがどれも北斎の横に並べて語るにはインパクトが弱すぎる印象だった。
そして「自分の意思で父親の世話をしていた」と応為に語らせたことで、親子愛の話にはなったが応為の内面のドラマがさらに薄くなった気がした。
実際の応為の気持ちは当然わからないのでこの辺はもう完全に私の好みの話になってくるが、十分な才能を持ちながら天才である父の助手に甘んじざるを得ない人間の葛藤を描く方が人間描写としても面白いし、応為が女性だからこそ現代に通じるテーマ性も出てくるのにと考えてしまった。
まあ、私が勝手にそういう物語を期待して、蓋を開けたら日常系&親子愛の話で肩透かしを食らった、それ以上のことではないのかもしれないが。
あと、映画を観ている時は気づかなかったが、キャストは自分で浮世絵を描く練習をかなり重ねたそうだ。にもかかわらず、北斎が障壁画を描く時以外、吹き替えなしにここまで描くのだとびっくりするようなシーンはほとんどなかった気がする。障壁画のシーンも、実際は浮世絵指導担当の想定の3倍ほど長回しで撮って、その間永瀬正敏はずっと描き続けたらしいが、映画では最初の数タッチしか使われていない。
せっかく練習したなら、長澤まさみが、永瀬正敏が実際にここまで描いてるんだ!と驚けるような映像が見たかった。そのような映像は役柄のリアリティも向上させる。
パンフレットの浮世絵指導担当者インタビューには、「監督は欲張らず、見せきらない選択をされて、すごい」とあったが、いやいや見せてくれよ。もったいない。
【拾い物】良い映画でした 芸術家とは藝術とは 湿っぽく無くサラッと
おーい応為を観てきたよ
まず映画館の上映時間がかなりニッチで自分の都合と合わせにくかった。
なんとか打ち切り前に観た。
応為の映画と言うより北斎を描いた映画だったと言う印象が強く残った。
応為の内面を描きたかったんだろうと監督の思いは理解出来たが、違うアプローチをしたら応為も
長澤まさみも活きたように感じた。
北斎と応為があ・うんの呼吸でやり合う様が見事な、奇人父娘のホームドラマ
画狂人=葛飾北斎(鉄蔵)と、その才能を引き継いだ三女の葛飾応為(お栄)の奇妙な親子の生活を描いている。
応為は、一説では北斎の肉筆画を代筆したとされるほどの才能の持ち主だった。
この映画にも登場する「吉原格子先之図」は肉筆画だが、木版画の浮世絵が主流の時代にあって、レンブラントの油彩画のような暗い中に浮かび上がる灯りの表現は、異彩を放っていただろうと思う。
だから、天才人気絵師の娘が、画期的な描法を編み出す創作過程を描くのかと思ったら、いわゆる定説とされるエピソードを織り込みながら構成された、奇人親子のホーム・ドラマだった。
お栄が鉄蔵のことを「お~い」と呼ぶから応為という画号を北斎がつけたとも、逆に鉄蔵がお栄を「お~い」と呼びつけていたからだとも言われている。
映画の冒頭で亭主の絵を下手くそだとお栄がなじり、離縁される場面がある。お栄の絵の眼力は秀でていて、亭主だった南沢等明の絵をバカにして離縁されたと言うのは定説だ。出戻って以来は生涯北斎と暮らしたとされている。
北斎が枕絵を描いているのを見て、足の指の反り方が逆だとお栄が指摘する場面があるが、殊に美人画・春画においては応為のほうが優れていると北斎自身が認めていた…とか。
さて、開巻たちまち、お栄(長澤まさみ)が亭主に「出ていってやらァ」と大声を上げる。
全編を通して、親父や他の者に対して怒鳴り散らす場面が再三ある。ときにイラつき、ときに怒り、ときに苦しみ、ときに嘆いて怒鳴るのだ。
長屋の住人の前で津軽藩士に啖呵を切る場面は見せ場だと思う。
そして、終盤に老北斎(永瀬正敏)から自由に生きろと言われて涙交じりに怒鳴る長澤まさみが出色なのだ。
言わずもがなだが、長澤まさみはスタイルが良い。だから、男勝りの着流し姿が格好いい。
実際の応為は不美人だったようだが、映画なので見栄えの良さは必要。
『北斎漫画』(’81)では田中裕子が、NHKのドラマ「眩〜北斎の娘〜」(’17)では宮崎あおいが、お栄を演じている。岡田茉莉子も演じたことがあり、美人が演じる方がむしろ定番だ。
この時代の絵師には著作権も印税もない。
原画を版元に売ってしまえば版木の権利は版元にあるから、何部刷ろうが版元の自由で、何部売れようが売上は版元に留まる。版木を他の版元に売り渡しても絵師には何も利益は還元されないのた。
加えて北斎は偏屈者だったらしく、この映画でも報酬が良い依頼を平気で断るような男に描かれているほどだで、人気の絵師であっても暮らしは貧乏だった。
この映画で描かれるお栄は、男勝りといえども女として描かれている(当たり前だが)。
お栄は誰にも知られず恋をしていた。そして、誰にも知られずその恋に敗れていた。
女の応為が寡作ながらがも絵を世に残せたのは北斎の娘だったからで、女流絵師が評価される時代ではなかった。
そんなお栄の女としての寂しさと女流絵師としての悔しさを、長澤まさみは不機嫌な表情で滲ませる。
そして、幼い弟を亡くした無念に子供のように泣きじゃくるのだ。
あの時代で90歳近くまで生きた葛飾北斎の死の直前までを演じた永瀬正敏も評価に値するが、やはり長澤まさみだろう。
横柄な態度、感情的な言動で派手に演じているようで、実は深層心理を体の奥底で押さえ込んだような含んだ演技が見事だ。
絵師・葛飾応為の面をもっと見せる脚本であって欲しかったと、個人的には感じたが、全体のビジュアル構成も素晴らしく、見る価値のある映画だった。
長澤まさみさんの艶っぽさ
なんとか上映終了前に駆け込み鑑賞。
と思ったら、テアトル新宿は今日から夜の回で上映開始されるよう。
15日は大森監督、永瀬正敏さん、浮世絵指導の松原亜実さんが登壇するトークイベントがあるんですってよ、お客さん!(行きたいけど土曜の夜は無理なのよ)
下手な絵を描く旦那に三くだり半を突きつけて、ほぼ手ぶらで江戸の街を歩いて実家に出戻る長澤まさみさんの歩く姿に色気を感じる。始まりから好き。その後も着流しといった体の着物姿の全身を映すショットが多く、きっぷの良さと艶が同居するその様子を観ているだけで目の保養に。
狭い長屋の部屋で頑固じじいと出戻り娘が角突き合わせて2人っきり長い年月過ごすっていうのはどんな感じなんだろう。いくら親娘でも、お互いが絵の才能を認め合っていたからこそ成立した暮らしってことですかね。
脚本家がいいのか監督がいいのか、いずれにしても大森さんなのでどっちでもいいんだけど、長い年月の話をうまくまとめていて、津軽藩との話、妻と病の妹の話、さくらの話、絵師・応為誕生の話と、かわるがわるエピソードが進んでいって畳まれて、そこに弟子も絡んで飽きることがなかった(髙橋海人さんのお芝居はたぶん初めて観たけどいい味出していて物語の味付けになってた)。
永瀬さんの北斎、特に年老いてからがメイクも含めてよかったなー。旅帰りでさくらが駆け寄ってこないことにすぐ気づく演技が心に残った。
映画.comの平均点が低くて後回しにしていたところもあったんだけど、間に合ってよかったっす。
陰翳を誤解した映像美と、失われた物語の深み
封切り当初はアクセスランキング7位に食い込んだ本作も、公開から一か月弱でトップテン圏外へと沈んだ。その理由は、作品を観終えた後の率直な失望感にあるだろう。葛飾北斎の娘・応為の生涯を描くという題材は、歴史と美術の両面で豊かな可能性を秘めていた。しかし、その可能性は脚本と映像演出の稚拙さによって、ことごとく裏切られてしまった。
主演・長澤まさみの演技力には期待が寄せられていたが、彼女の力量を引き出すどころか、役者を三流に見せてしまうほどの演出の迷走が目立つ。心理描写を深めるどころか、ドラマ性を削ぎ落とした構成は、応為という人物の複雑な内面を単なる「市井の偉人伝」に矮小化してしまった。
映像面ではさらに失望が大きい。監督・大森立嗣と撮影・辻智彦が意識したであろう谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の美学は、結果として誤解されたままスクリーンに定着した。陰翳の美とは、暗がりの中に差し込む光が緑や木肌を際立たせる静謐な構図にある。しかし本作では、逆光を多用した結果、被写体の輪郭すら失われ、視点中央には障子越しのスノーライトがただ眩しく広がるのみ。陰翳の奥行きではなく、単なる「見えない不快感」が終始観客を苛んだ。
さらに致命的なのは、北斎の絵画がほとんど登場しないことだ。観客が期待するのは、北斎漫画や浮世絵の筆致を映像にどう昇華するか、その美意識をどう応為の視点と対比させるかという挑戦である。しかし本作は、その核心に触れないまま終わり、父への畏怖や超克といった心理的葛藤も浅薄に描かれるのみ。学芸員レベルの分析を映像に織り込む工夫が皆無であったことは、企画意図や北斎への畏怖と敬意そのものを疑わせる。
結果として、「お~い、応為」というタイトルが示すはずの挑発的な響きは空虚に響き、むしろ「北斎娘の生涯」という凡庸な題名がふさわしい内容に終わった。長澤まさみの演技力でさえ、この構成と映像の失策を補うことはできなかったのである。
残念至極――それが本作を観終えた後に残る唯一の言葉だ。
天賦の才能を持ち、その道に邁進する者ならではの苦しみ
愛読する「百日紅」(杉浦日向子)が原作とのことで(実際はもう一冊あるが)見に行ってきた。
正直「百日紅」を読んだり、北斎についてある程度知っていなければ状況や人間関係が分かりにくいかもしれない。それらの説明は必要最低限、雰囲気から色々察しなければならないが、そういうのが好きな人には余計なノイズのない、どっぷり雰囲気に浸かれる映画と言えるのではないか。
個人的に印象に残ったのは、天賦の才能を持ち、その道に邁進する者ならではの苦しみ。
北斎はいつか絵の神域にたどり着きたいと長寿を願いながら、長く生きたら生きたで体の衰えにより絵のモチーフを把握しづらくなり、もう一度生まれ変わりたいと願う。末娘や弟子、犬にも先立たれる苦しみも味わう。
お栄は決して普通の女としての幸せを望まないわけではなかっただろうが、己の才能の乏しさと真摯に向き合わない夫にはきついことを言わずにはいられない。恋する初五郎に対しては同様のことをすまいとあえて彼の絵師としての欠点から目を逸らしている節があるが、「妹」呼びがトリガーになったのかきつい指摘をしてしまう。
これは北斎ゆずりの才能と気性を持っているのだから仕方ない。女として、小心者やノンデリの顔を立てて支えていくには才能がありすぎるし、気性も強すぎるのだ。こういうタイプは同業者の甘えや妥協を許せない。
善次郎に寂しくないのかと聞かれるが、たとえ一抹の寂しさはあったとしても、自分を封じて誰かのお内儀になるなんて人生、彼女には耐えられなかっただろう。結局、天賦の才能に恵まれようと全ての幸せを得ることなどできず、苦しくても寂しくても自分の最適解を選ぶしかないのだ。
演技に関してはやはり北斎役の永瀬正敏が圧巻。お栄の母親役の寺島しのぶの様々な感情がにじみ出る抑えの利いた演技も素晴らしい。「女はね、赤いものをつけるとやさしくなるものだよ」の台詞の時の、母親としての表情に目を奪われた。篠井英介の小唄の師匠もいい味を出している。
長澤まさみも荒々しい演技をしていても艶があり、魅力的だったが、津軽の侍に啖呵を切るところや、北斎に対し自分がどんな気持ちでこの道を選んだかと語るところはやや俗っぽく感じた。下手というわけではなく、この映画であればもう少し斜に構えた、抑えた演技の方が個人的には好みだった。
ところで「百日紅」が原作なら何故善次郎がお栄に粉をかけているのかと思ったが、パンレットの渓斎英泉の説明に「下あごを突き出したアクの強い美人画で個性を発揮」とあった。そういえばお栄もあごが出ていたか。必ずしもそこが結びついたとは限らないが、確かに二人の関係に少し想像が膨らんでしまう。
艶っぽい雰囲気のある作品
応為の何を描こうとしたの?
テレビ時代劇にあるような、綺麗に作り込まれた江戸ではなく、全編を通して、実際の一般庶民の江戸風俗を描こうとしているような絵面が良かったです
しかし、物語の方は...というと。多分、応為という人の記録や情報が絶対的に少ないんでしょうね。だから、掘り下げようがない、が実態か
「おーい、応為」というダジャレが先にあって、つまり、北斎の娘で、この世紀の天才芸術家の比較的近くにいた人物を軸に作れないかな〜、が制作動機か
だとしても、「おーい、」の時点で主語が北斎になっている矛盾。だったら、応為というフィルターを通した北斎の生き様とか凄みを掘り下げてもいいようなものですが、そういう感じもさほどなかった
しょっちゅう引っ越ししてたとか、相当な変りモンだったらしい、とかよく語られている北斎の印象の上っ面をなぞったシーンの連続、って感じで最後まで...。
永瀬正敏さん演じる葛飾北斎の存在感が凄いんで、やっぱり主役は北斎だったな、の印象が残りました。後半は老いの演技、というより特殊メイクスゴ!!て印象もあります
情報がないならないで(勝手に決めつけてスイマセン)、映画なんだから応為のキャラを勝手に創造してエンタメに徹したらいいんじゃない?って思いましたけど
ぶっきらぼうで言動が男勝り、とか、何だか火事の炎に惹かれる、とか、(描くことが天才的だったか定かでないが)絵を見る目だけ(?)は父親譲り、とか、キャラ設定らしいものがあるんですが、それ以上の"定かでない"部分を定かでないままにされているので、結局、何を描いているのか分からない、ということになってしまったように思います
視聴者に考える余白を残す、というのも映画の作り方としてアリだと思いますが、作り手側の描きたいものがしっかり描かれた上で、「あとは勝手に感じてください」ならさておき、主人公の人物像が定まっていない、絵師として残した作品の凄さが描かれていない、ではちょっと困るなぁ
芸術家のカタログ
「おーい、応為」。言わずと知れた天才画家、葛飾北斎。その娘、葛飾応為。北斎が死を迎えるその日まで、様々なことでぶつかり合いながらも、生活を共にした。二人の日々を描いた映画。
この映画では、北斎と応為は対照的に描かれる。それは、人としても、画家としても。北斎は家にこもりきって、常に絵を描きつづける。対して応為は外に出て、気の向くままにふらふら歩き回り、ほとんど絵を描かない。二人を対象的に描くことで、そこに二つの芸術家像が現れる。実際、芸術家を二分しようとすると、この点で分けることが多い。映画の中には、ほかにも多くの画家たちが描かれる。売れっ子になる者や、道半ばで描くことをやめてしまう者、そして、描かれもしなかった、有象無象の画家たち。創作スタイルや生き方は画家の数だけある。これらを皮切りに、私はこの映画に、「芸術家の生態描写」を見出した。
それを最も強く感じたのは、応為が突如絵を描き始めるシーン。ではなく、その直前。それは祭りの夜、応為が気になっていた男性に、「妹のようだ」と、言われたシーンである。応為はその言葉を、「異性として、女として見ていない。」と、解釈したのだろう。そして、そのやりとりの直後、体感時間一分間以上の沈黙がつづく。それはもちろん、その情景描写や、心理描写のための間であることは間違いない。しかし、それだけではない。今思えば、「このシーンが、この映画の最も重要なシーンである。」と、製作陣が訴えかけてきているようにさえ感じた。そして応為は、翌日から人が変わったように、絵を描き始める。それは、フラれたことによるショックや、自暴自棄によるヤケクソの類ではない。
画家をはじめとする芸術家が、創作を行う際に必要なことは、大きく二つある。一つめは「孤独」である。これは常日頃から感じつづけている。そこに、二つめの「喪失」という名の起爆剤が重なると、大爆発を起こし、創作が動き出す。火とガソリンのようなものだろうか。これこそが、芸術家の重要な生態である。この映画は、この点を非常にわかりやすく描写している。
少し話が脱線するが、「芸術家は頭がおかしい」「気が狂っている」と、言われることがよくある。その原因のひとつは、前述した孤独と喪失。ある日、偶然この二つが重なったときに、「創作がうまくいく」と、気がつく。それに味をしめると、自ら孤独と喪失を求めるようになる。ついには、歯止めが効かなくなり、自ら追い詰められにいってしまう。その後は、容易に想像できるだろう。
話を映画に戻す。この映画は重要なシーンにおいて、必ず長い間をおく。それは昨今の映画とは、比べ物にならないほど長い。対して日々の生活のシーンはテンポがよい。それは引越しのシーンが多く、印象的に描かれいることに起因しているだろう。また、テンポの良さを感じる理由のひとつに、音楽がある。大友良英のキャッチーで、耳にのこる音楽。これを、それぞれのシーンと対応させることでパターン化され、映画全体が、音楽形式のように形作られている。繰り返しのシーンが多いこの映画では、実に効果的に使われている。場面の転換や、間と日々の生活の効果的な対比に、間違いなく音楽が一役買っている。しかし映画終盤、北斎の死が近づくにつれて、心理描写が増え、間が多く続く。中盤までテンポが良かっただけに、終盤は少しダレて、間延びしている感じは否めない。
最後に、私がこの映画で、最も評価しているのは、配役である。応為を演じた、長澤まさみ。北斎を演じた、永瀬正敏。この配役を決めた時点で、映画自体が失敗する可能性は、皆無に等しかっただろう。
もうひと声
音楽がとても印象的
似たもの親子
浮世絵師・葛飾北斎の娘であるお栄は、ある絵師に嫁ぐが、
かっこばかりの夫の絵を見下したことで離縁される。
北斎のもとに戻ったお栄は、父娘として、そして師弟として、
北斎と生涯をともにすることになる。
2人が暮らす貧乏長屋は画材や絵で散らかり放題で、
茶も入れられず針仕事もできないお栄だが、
絵の才能だけは父親譲り。
北斎から「おーい、筆!」「おーい、飯!」と何かと頼まれることから、
「応為(おうい)」という号を授かったお栄は、
当時としては珍しい女性の浮世絵師として、絵を描くことに生涯を捧げる。
といったあらすじ。
葛飾北斎=富士山、富嶽三十六景のイメージ。
てっきり、その娘を連れまわしているという話で、
親譲りの才能が光り輝くのかと思ったらちょっと違った。
まず、実在なんだな、この娘は。
そして、なんやかんやで似たもの親子なのところが面白い。
でも、結局のところ、父の偉業、そして老年期の哀愁がメイン、
娘の才能があまり表舞台に出なかったところさ寂しく描かれていた。
「仙人になりたい」と言っていたのに、歳を取ったら、
「人間になりたい」って。
ないものねだりだよな、人間って。
「俺が、好きでやっているんだ」というお栄の父に対する愛情を
ぶつけた言葉が響きました。
永瀬正敏の北斎がいい
父と娘の物語
登場人物が少なく、静かな映画でした。葛飾北斎という画狂人の人生について何も知らずに見たので、初めて知ることばかりで、驚かされました。
応為という娘がいたことも知りませんでしたが、男勝りなきっぷの良い女性に感じられました。私にも年老いていく父がいるのですが、父を支えながら一緒に一心不乱にただ絵を描き続ける応為の人生に心が動かされました。自分だったらこんな生き方ができるだろうか、父とこんなに向き合うことができているだろうか。北斎から応為に向けての言葉の中にも、ちゃんと愛が感じられて。素敵な親子だなと感じました。
北斎の弟子の渓斎英泉が出てくるのですが、その人が出てくると緊張感が緩まり、ほっとしました。普段、時代劇は見ないので、楽しめるか不安がありましたが、思いがけず応為に感情移入し、楽しく見ることができました。
才能と言う名の希望 ーあるいは災いー
応為(おうい)という画号を贈られていますが本名はお栄(おえい)さん
(ウキペディア調べ)
冒頭、お栄さんは嫁いだ先の絵師で夫の絵を「下手くそ!」と罵って大喧嘩!
そのまま家を飛び出してたどり着いた先は貧乏長屋の一室。
何がごみくずで何が必要な物か見分けがつかない様な所で
初老の男が一心不乱に絵を描いている。
男はお栄さんの実の父の天才絵師、葛飾北斎。
北斎はお栄さんに「お前のいる場所など無い」とつれない言葉。
そこには北斎の父としての娘を思う気持ちがこもっている事、
後半で良くわかるのですが、嫁ぎ先を飛び出して来た時には
聞きたくない言葉ですよね。
それでも行くあてのないお栄さんは北斎のそばで不貞寝を決め込む。
お栄さん、これからどうなるのかしら??
女っぽさ等ほとんど無く粗野なお栄さんだけど、
そこは演じる長澤まさみの実力と言うか滲み出るものと言うか、
決して下品ではなく、見ていたくなる微かな色気や恥じらい。
ぜひ映画館で見届けてくださいな。
で、
月に8回ほど映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては
比較的地味な映像が続く本作の中に
史実かどうかは知らないですが柴の子犬を取り入れたのは
時間経過を感じさせるのにとっても有効でした。
ちょっとしたユーモアシーンもあって
柴犬チーム、良い仕事してました(笑)
葛飾応為の作品を数年前の浮世絵展で観たことがあります。
光と闇のコントラストが見事な作品でした。
火事場で燃え上がる炎や蝋燭の灯に魅了されるお栄さんらしい。
映画の中では随所にその描写が織り込まれてましたね。
映画の中盤、寺島しのぶ演じる実の母から
「あんたは親父に似て絵も上手いが目も効くから」
それは、一種の才能であり、才能という名の災い〜
最初の夫の絵を下手くそ!とつい罵ってしまう。
男としては惹かれている大谷亮平演じる初五郎を
嫌いになりたくないから絵を観ないと頑なに拒む。
自分に言い寄ってくる高橋海人演じる善次郎のことも
その絵を多少なりと認めているから必要以上に
自分に入り込ませたくない。
目利きのお栄さんにとっては絵の良し悪しにどうしても引っ張られてしまう。
結局、お栄さんが心底、素晴らしいと思える絵を描けるのは
父である葛飾北斎以外にはいなかったのかもしれない。
そして、男尊女卑の時代にお栄さんの実力を真に認めてくれるのは
父である葛飾北斎以外におらず、北斎のそばにいる事でしか
お栄さんが絵を描き続け、認められる術が無かった〜〜。
悲しい〜〜とばかりも言い切れない。
娘への親心だけでは無く真の実力を認めて「絵師」として
お栄さんに「葛飾応為」と言う画号を与えた北斎。
東洋でも西洋でも名前すら残っていない素晴らしい芸術家は
おそらく山ほどいるのだろうから〜〜。
今年放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう」の蔦屋重三郎の全盛期と
お栄さんが実力を発揮し出した頃の年代差、多分10年とか20年程。
もうちょっと早くお栄さんと蔦重が出会えていたら〜
これは歴史好きの妄想ですね〜〜(苦笑)
上品な乱暴者
大森監督はきっと育ちの良い人なんだろうな。
長澤さん演じる応為は好きな男に抱き寄せられて、「お前とだけは嫌だ」と虚勢。
そこは、イタしたうえで、急に馴れ馴れしくして来る男に「一回ヤッタくらいで亭主ヅラするな」くらいの啖呵を切って欲しい。
永瀬さん演じる"汚いジイさん北斎"は、住んでいる長屋は画材が雑然としても汚くはない。
晩年、師匠であり父親でもある北斎から「これからは自分のために生きろ」と言われて、「いやいや一緒にいるんじゃねぇ!」じゃなくて、「どう過ごそうが勝ってだ!」と言って、結局は別れないとかにして欲しかったな。
映画を一緒に観たツレの「フランス映画のようだ」との感想は言い得て妙だと思いましたよ。
動く浮世絵だなぁ
世界に名の知られる葛飾北斎とその娘、応為。
彼らがどのようにして名作を描きあげたか、その様子が垣間見られる映画。
生活に向き合うことなく、ただひたすらに描き続ける北斎(引っ越しばかりしていたエピソードも盛り込まれている)
江戸っ子らしい激しさと、描く対象を見つめる静かな眼差しを合わせ持つ応為。
その背景では急に降り出した雨の中大工たちが肩に道具箱をのせて走り出す。富士は朝日に照らされて赤く輝く。動く浮世絵だ。
絵を描き、絵の中に生きた親子。
全編を通してジャズのようなトランペットの音。江戸と西洋との出会い。日本の貴重な宝が海外に多く出ていってしまったことを心に浮かべながら音色に聞き入った。
静かに時は流れていく
「北斎のしわざ展」から北斎に興味を持ったところ。今やってるなら観ておこうと。
親子の時間が淡々と、大きな事があるわけでは無いが淡々と過ぎていく。じわっと沁みるような映画。最後、その後の応為がどうなったかわからない辺りが、彼女の生き方を表しているようで。
この親子に更に興味が湧いている。
全272件中、1~20件目を表示
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