「家族・仕事・時代の空虚──見はらしを失った私たちの物語」見はらし世代 nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
家族・仕事・時代の空虚──見はらしを失った私たちの物語
見終わって「一体何を見せられたんだろう…」という感覚になった。
監督の意図や物語の意味がすぐに読み取れない作品は少なくないが、それでも多くの場合、登場人物の苦悩や葛藤、善良さに共感を感じたり、成長や変化にカタルシスを感じたりする。しかし、本作については、それらが自分の中にうまく起動しない感じであった。
主人公の青年、黒崎煌代演じる胡蝶蘭の配達ドライバーの蓮くんは、ほとんど自分の気持ちや、意味ある言葉を語らない。その場に合わせて言葉少なに語り、時々感情的反応を見せる。
彼が唯一、積極的に自分の意思を示したのは、崩壊した家族の再会を実現することだ。しかし、そこでも彼は黙っていて、どうしたいのかがわからない。家族の再生を試みたいのではなさそうだ。ラスト近く、父の精神崩壊のような涙に、彼は「ざまあみろ」と言わんばかりの邪悪な(僕にはそう見えた)笑顔を見せた。
ーーこんな主人公や家族のどこに、どう共感すればいいのだろう…。
…と、鑑賞直後は思ったのだが、一晩経って、自分なりの解釈・映画の構造が見えてきた気がする。そして、現代の家族と個人の困難を描いた名作ではないかと思い始めている。キーワードは空虚さ(=空っぽ)だと思う。少し考察してみたい。
本作の類似作品をあげるとしたら、山田太一「岸辺のアルバム」ではないだろうか。1977年に放映されたテレビドラマ史上の名作である(僕は原作小説の方しか知らない)。世間的に認められる「絵に描いたような幸せな家族」の裏側と崩壊、その再生の予感を描いた社会派のドラマだ。
夫婦(働く夫と専業主婦の妻)と子供二人の家族の物語であるところも、この映画と共通している。こうした家族はかつては〝標準世帯〟と呼ばれて、日本の制度(税制や社会保障など)は、この世帯を基準にして作られてきた。だから、家族の物語であると同時に、日本社会の〝標準的な幸福な生き方モデル〟に沿って生きることの困難を描いている。本作も同じ系譜にあるように感じる。
井川遥が演じる妻は今では少数派となった専業主婦だ。ただ、少なくとも2000年前後までは、こうしたライフコースは多かった。かつて女性の就労率グラフはM字カーブと言われて、結婚・出産前後で一度仕事をやめて、子供の成長などに合わせて、再び就職する(多くの場合、非正規雇用で)形だった。ただ、当時、高学歴女性の就労率を調べたら、就労率は回復せず、右肩下がりに近かった。それは、夫が高収入層であることから可能であったのだ。
おそらく本作の妻もかつては夫と同じ建築デザイナーで高学歴専門職女性。結婚とともに仕事を辞めたようで、このように女性がキャリアを諦め、子育てに専念するのは、つい最近まで少なくなかったはずである。
このような標準的な生き方、標準的な家族を無条件に良き生き方として受け入れる(受け入れざるを得ない)ことが、さまざまな困難につながる可能性があることを本作は描いているように感じられた。
遠藤憲一演じる建築家・ランドスケープデザイナーの父。家庭を守るためにも仕事で成功しなければならない。ただ、自分の内的動機ではなく、暗黙の社会ルールに従っているだけのようだ。だから、守ろうする家族との感情的な絆が持てていないし、自分の中から湧いてくる愛情みたいなものが弱い。内的必然性がないから、どうやって家族に接したら良いかわからず、〝標準的に正しい態度〟を取ってなんとか乗り切ろうとする。それは仕事においてもそうである。
芸術的な仕事でもあり、同時に社会を設計する大きな仕事でもあるのだが、クライアントの要望に応え、売上を上げ続けることに汲々としている。その後、デザイナーとして成功しても、何のためにその仕事をするのか、その仕事の意義や目的を語れない人物だ。その内的な空っぽさを台湾人の社員に見透かされたりして、尊敬も得られていない。
これは個人の問題ではないと思う。僕自身も社会的意義のある仕事と思い、ある仕事を続けてきたけれど、経営会議や事業開発会議で話されるのは、売上利益計画のことばかりであった。そして「今はそんな理想論を言っている時ではない。まずは売上利益を計画通りに上げることに集中するべきだ」と言ったような緊急対応が常態化していた。それが年々ひどくなってきたように感じるのは、会社の事情もあるだろうが、日本の状況とも関係あるだろうし、新自由主義的な企業運営が広がる中での必然的結末でもあったと思う。
そんな状況の中では、この父のような仕事に意義・意味を語れない人間になるのも当然かもしれない。つまり働くのは「生存のため」であって、内的必然性や社会的な意義を実現する「実存のため」の仕事なんて滅多に手に入らなくなってしまっている。
彼の息子、主人公の蓮もそれは同様だ。彼が花屋さんで働くのは、生活費のためで、それ以上の内的理由(職場が好き、人間関係がよかったり尊敬できる人がいる、意味のある仕事だといった理由)は持てていないようだ。もちろん、親からの仕送りもなさそうだから、生存のために働かなくてはならない。
彼の職場にも問題がありそうだ。花屋さんは、小学生のなりたい職業ランキングの上位常連の、憧れの仕事でもある。それなのに職場に活気も会話もなく、淡々と組立ライン労働者のように働き、そして突然「もう辞めます!」と叫んで職場を去る女性がいる。誰も引き留めない。
自分の「好き」を押しつぶされるほどの職場環境・労働環境なのだ。蓮くんが、ホームレス支援の炊き出しをランチにする場面があるが、彼は当たり前のようにそうしている。実際、生活が相当厳しいのだろう。東京で一人で働きながら暮らすのは楽ではない。それがアルバイト扱いなら尚更不安だし、苦しいのは当然だ。
彼には、何かやりたいことはないし、自分らしさなんてわからない。そもそも、それを追求する余裕がない。組織に入ってうまくやるような社会的スキルも身につけられていないようだ。それは父親もそうだった。父は、自分を殺し、周りに従い同調することで生存し、成功もしたけれど、常に〝それ以外仕方ない〟からしていたに過ぎなかった。
木竜麻生(「秒速5センチメートル」でも印象的役柄を見事に演じていた)演じる主人公の姉は、弟よりもうまく適応しているようだが、かなり危なっかしい。父を恨み、家族はもう諦めている。母親は父との家庭を夢見ていたが、子供には愛情を持っていなかったと思っている。そして、夢見た家族の姿を実現できず、絶望死のような最後を迎えたのを見ている。
それなのに、一緒に暮らして何かを作り上げようとも、特別な相手だとも思えない〝ただ当たり前のように一緒にいる相手〟との結婚に進もうとしている。母の人生の再演に向かおうとしているようだし、本人も不安を感じている。
もちろん外的な環境や暮らし方を変えることで、何かが変わったり、新しい発見があることもあるだろう。でも、内的必然性があまりにも空っぽだと自分の内側からエネルギーというものが全く湧いてこない。
だから、井川遥演じる母親の最後の言葉も「私は横になっているのが好きなの」というようなものだった。内的必然性を喪失し、生きるエネルギーが無くなってしまっていた。
この映画は、たまたま渋谷Bunkamuraル・シネマで観た。その映画館のある宮下パークが主要ロケ地で、(僕が誤読していなければ、)遠藤憲一演じる父がこの宮下パークをデザインしたという設定だった。
かつての宮下パークの場所は戦後のバラックからの名残を感じる場所だった。ホームレスの人が定住していて、この世界での生存の困難さが可視化されている場所でもあった。それが、宮下パークですっかり漂白され、生きていくことの困難さは不可視化された。台湾人社員が言う通り、ここに生活していた人たちはどこにいったのだろう。この論理的空洞に、デザイナーの父は答えることができなかった。
この映画のテーマであろうタイトルの「見はらし」は何を言いたいのだろうか。
少なくとも、この映画に登場する人(そして現実もそうだけれど)現在を生存するだけで精一杯で、未来を見通せてはいない。そして、内的な基準は確立できておらず、だから内的基準から見えてくる未来の目標や、人生の目的も持てていない。
そして宮下パークに象徴されるように、現代の生存の困難さは不可視化されて、漂白され表面上は美しくなった社会で生きるしかない。「見はらしなき世代」の反語、あるいは省略としてのタイトルではないだろうか。
団塚唯我監督(1998年生、26歳)は、構造的にわかりやすく何かを告発することなく、直感的に鋭く空っぽな個人と社会を描き出したように感じた。監督本人の中にも、この映画の登場人物たちのような空っぽさがあって、空虚さを生きる自覚があるのかもしれない。そしてその現実の空虚さを写し取った物語として見事に描き切ったようにも感じる映画であった。

 
  
 
 