「知らないのにリアルだ」と感じる私たちの愚かさ」愚か者の身分 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
知らないのにリアルだ」と感じる私たちの愚かさ
現代日本の裏社会を描いた映画は数あれど、『愚か者の身分』ほど“リアルとは何か”を観客に突きつける作品は久しくなかったのではないだろうか?
この映画が巧いのは、いわゆる実録風の演出でも暴力描写の生々しさでもなく、「知らない世界なのに、なぜか知っている気がする」という感覚を観客に植えつけてしまうこと。大量に並ぶスマートフォン。その裏側に貼り付けられているのは女性の名前が書かれた付箋紙。GPSを二重に仕込み、一つは見つけられることを前提に置く知恵。どれもが過剰演出ではなく、淡々と日常の延長線上に置かれている。だからこそ怖い。この映画の恐ろしさは、暴力そのものではなく、「犯罪が既に産業として日常に溶けている現実」を描いている点にある。
北村匠海、林裕太、綾野剛が演じる三人の若者は、いずれも貧困や家庭環境によって裏社会に流れ着いたが、悪人になりきれない。彼らは金を稼ぐ手段として、闇ビジネスを“仕事”と呼ぶ。だが、そこには熱も誇りもない。「生きるために仕方なくやる」という言葉が、いかに多くの現代の言い訳を代弁していることか。観客が見ているのは彼らの転落劇ではなく、「生き延びるための合理化」の過程。そして彼らが“逃げ切った”と思った瞬間に漂う安堵が、最も冷たく響く。法の手が及ぶかどうかは描かれない。けれど、その後に待つのは確実に“普通の人生ではない”ことだけが分かる。この曖昧な幕引きこそが、現実の残酷さを最もよく再現している。
監督・永田琴と脚本・向井康介の手腕は、説明を削ぎ落とす勇気にある。登場人物の誰もが、何を考えているのか、どこまで罪を自覚しているのかを語らない。だが、肩を抱くために近づけられた手に反射的に怯える様子、視線を逸らす沈黙、ため息に混じる笑い――
そうした“無言の反応”が、言葉より雄弁に彼らの破綻を語る。人間のリアルは、言葉ではなく「出さない感情」に宿る。この演出の繊細さが、いわゆる“邦画の社会派”を超えて、痛覚としてのリアリズムを生んでいる。
そして忘れてはならないのが、「視覚」を奪う暴力の描写。生きたまま両目をくり抜かれ、しばらくは自分の失明に気づかない――この場面は生理的恐怖を超えて、存在を剥奪される痛みを通じて“社会の中で見えなくされる人々”の象徴を提示しているように感じた。
結局、三人は誰も救われない。悪を選んだというより、他に道がなかった。けれど、罪は消えず、代償はあまりに重い。彼らの「愚かさ」とは、無知や軽率ではなく、希望を信じる力を削がれた人間の痛みそのものだ。“愚か者”とは、犯罪者ではなく、構造の中で押し潰されていく「私たち」でもある。
本作は、救いのない映画だ。だが、絶望を描くことを通じて、いまこの国の底にある現実の温度を伝えている。見終わった後の静かなざらつきは、映画が終わったからではなく、まだ現実が続いているからだ。この作品がリアルに感じられるのは、裏社会を暴いたからではない。むしろ、私たちの日常のすぐ裏に、その「愚か者の身分」が続いていることを、誰もがうすうす知っているからではないだろうか。
こひくきさま
共感ありがとうございます🙂
最後の刑事がパパ活焼肉の囮捜査官だったのは、最高の伏線回収でした。
「賢者の贈り物」のようなラストと、エンディングの「人間讃歌」に泣きました🥲
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