「山田杏奈という女優の凄みを、映画がまったく理解していなかった件」恋に至る病 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
山田杏奈という女優の凄みを、映画がまったく理解していなかった件
■はじめに:あまりに過剰な期待のもとで
公開前から「山田杏奈主演」「原作・斜線堂有紀」「廣木隆一監督」と三拍子が揃えば、そりゃあ観る方も胸を高鳴らせるわけですよ。青春の毒、恋の狂気、倫理の転覆。何かが壊れる予感しかしない組み合わせだった。
ところが、蓋を開けてみれば、構成は破綻、演出は無音、感情は無風。観ているうちにこちらの心拍が落ちていく。あれほど濃密な原作が、ここまで“薄いスープ”になるものかと、むしろ職人的興味で最後まで見届けた。
■構造の欠損:説明のない世界で、説明を求める観客
映画を通して一貫するのは「説明のなさ」。ミステリーを標榜するならば、情報を整理し、観客に“考える快楽”を与えるべきだ。しかし本作の省略は意図ではなく単なる欠落。
・なぜ宮嶺望は先輩の自殺を察知できたのか。
・なぜクラスメイトが次々に死んでも教師も保護者も現れないのか。
・なぜ屋上はいつまでも開いているのか。
これらの“説明不能の連鎖”が、物語のリアリティを根こそぎ奪っている。いくら象徴を装っても、観客は「管理の甘い学校」という現実的違和感しか掴めない。結果として、恋愛でもスリラーでも宗教譚でもない、意味の宙づり映画が出来上がってしまった。
■演出の矛盾:リアルに撮ってファンタジーを語る愚
廣木隆一監督はもともと“間”と“沈黙”の名手だ。だが今回、その手法は裏目に出た。撮影は徹底してリアル。校舎の湿気、制服の皺、朝の光——全部現実的。
なのに描きたいのは幻想的な“信仰の物語”。現実と幻想のチューニングが合わず、結果、観客はどのフレームも信じられない。リアリズムを維持するなら社会の反応を描け。寓話を撮るなら舞台を象徴化しろ。どちらもやらないから、ただの「整っているのに中身のない映像」になる。
■キャラクターの空洞化:寄河景の“特別さ”がゼロ
最大の敗因はここに尽きる。寄河景という存在が、“人を支配する特異な磁場”をまるで持っていない。原作では、景の言葉ひとつで人が動く。善意と支配、共感と操作が紙一重の領域で描かれる。ところが映画では、山田杏奈がどれほど細やかに表情を作っても、脚本が何も支えていない。クラスメイトが彼女を崇める理由も、女性刑事が糾弾する根拠も、観客には一切共有されない。
結果、山田杏奈は“演技の達人”としての誠実さを貫きながら、物語の空洞に吸い込まれていく。演技が良すぎて、逆に映画の貧弱さを照らしてしまうという皮肉。
■演技と構築の乖離:観客の「共鳴する権利」を奪った
映画が面白いと感じられるのは、観客が物語の中で“誰かと呼吸を合わせられた”ときだ。だが本作では、登場人物が何を思い、何を恐れ、何を望むのかがわからない。感情の橋がどこにも架かっていない。脚本・編集・演出がバラバラに機能しないせいで、観客は「寝ている間に物語が進んだ」ような錯覚を起こす。実際には何も進んでいないのに。
■それでも山田杏奈は好きだ
それでもなお、私は山田杏奈が好きだ。『ひらいて』で見せた冷たい激情、そしてこの『恋に至る病』で、脚本の穴を埋めるように目の奥で“何かを耐える芝居”をしていた。彼女が画面に立っているだけで、「この子には本当はもっと複雑な感情がある」と思わせる力がある。そのポテンシャルを活かせなかったこの作品こそ、山田杏奈の演技に対する最大の裏切りだと感じる。
■総括:信仰になり損ねた恋、恋になり損ねた信仰
『恋に至る病』というタイトルは、“恋と狂気の紙一重”を意味するはずだった。だが映画版は、恋も狂気も描けず、ただ淡々と“出来事”だけが並ぶ。すべての死が軽い。すべての沈黙が空虚。そして、すべての象徴が説明不足。それでも山田杏奈は、この不毛な脚本の中で最後まで信じて演じ続けた。その姿勢こそ、ある意味で“至る病”そのものだったのかもしれない。
コメントありがとうございます。
この作品で引っかかってる事が一つあります。途中、ブルーモルフォの主催として捕まる男、どうしても高橋一生に見えてしまってなりません。9割がた気のせいだと思うんですが、ネットとかのキャストに無くクレジットでも確認出来なかったので。
共感ありがとうございます。
山田杏奈さんのPV的観方をしていた事は否めません。他の女子要らんとか思ってましたから、前田敦子出て来た時はカッコいいなと思いましたが、結局最後はいつもの泣き言でがっかりでした。
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