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去年Bunkamuraでやっていた「サタジット・レイ・レトロスペクティブ」が、半年経って横浜シネマリンに回っていることに気づいて、前回見逃していた『臆病者』を会社帰りに関内まで行って視聴。
良質の古い邦画を観たような感覚とでもいうのだろうか。
微妙に日本の田舎を思わせるような風景といい、陰影の濃い男女三人のやり取りだけに切り詰められた心理劇といい、じめっとしたブルース調のワンフレーズ・メロディを何度も繰り返す音楽の付け方といい、なんとなく戦後すぐあたりの、出来の良い日本の文芸映画に似通った気配がある。
取材旅行先でチャーターしていたタクシーがエンコして、翌日まで身動きのとれなくなった脚本家の男。見かねた気のいいおっちゃんが、一夜の宿を貸してくれることになる。
だが、車で連れられて到着した家で待ち受けていた「男の妻」は、かつて若き日に愛した女だった……。
トリュフォーの『隣の女』みたいな、いかにもメロドラマ調の出だしではあるのだが、実際には、この物語はよくある「不倫話」「よろめき話」には一切傾かない。
昔の恋人は徹底して、復縁を迫る男の誘いを拒絶する。
過去回想で描かれる昔の様子からもはっきりしているのは、常に女の方が率直で前向きな一方で、男の方は内向きでうじうじしていて決断できない。
過去の女をふん切れないどころか、女に対して今の生活を「捨てて」自分に走ってくれと懇願する様には、軟弱に見えて実際は自分に都合のいいことしか考えない主人公の性格がにじみ出ている。
夫の方も、二人の昔の仲に気づいたりヤキモキしたりはしないし、最後までフレンドリーに接している。「実は気づいていていろいろ仕掛けている」という可能性もあり得る設定ではあるが、僕が実際に観た印象では、本当にただの気の良いオヤジでしかなさそう。
結果としてこの物語は「典型的なメロドラマ的筋立て」でスタートしながら「別段なんの波風も立たないままに終わる」という、異例の「清々しく」「道徳的な」展開を示す。
めちゃくちゃになってもおかしくない状況下で、各人が「自制」し、「敢えて一歩を踏み出さず」一夜をやり過ごすことで、ひときわ「表面上の平穏」と「内面の葛藤・懊悩」の対比が際立って感じられる。そういう作りだ。
この映画を通じて強調されるのは、覚悟を決めた女の静かな強さと、ふらふらしている男の弱さだ。
女にも、辛い事情はあるのだろう。ラストで睡眠薬を返せといってくるのも、単なる「最後にもう一回会うための口実」というだけのことではあるまい。睡眠薬がないと本当に困る状況におそらくあるのだ。でも、女はかつての恋人のふわっとした復縁要求に乗ろうとはしない。
この茶園で生きていくと覚悟を決めたから。この夫の「良い所」を見ていくと決めたから。
若さと前進するエネルギーに満ちていた回想シーンの彼女と、今の安定した(でもプレッシャーの強そうな)「茶園の妻」という立ち位置でぐっと胸を張って動かない彼女。見せる表情には違いがあるが、その凛としたたたずまいは変わらない。
一方の脚本家は、才能はあっても優柔不断で、自分勝手だ。
めめしい、といってもいい。
表題の「臆病者」は当然ながらこの主人公を端的に表した言葉だが、そこには「恋愛でのふんぎりや過去の清算のきちんとできない」部分と同じくらいに、「インドの旧弊な文化や階層社会から抜け出せない」鈍さも含まれているのだろう。
通例考えられる「男らしさ」「女らしさ」の逆転。
こうした男女の関係性を描きだすことで、
ジェンダー論的な思考を観客にもうながす
監督の意図が見出される。
決断できる女。決断できない男。
過去をふん切れる女。過去と決別できない男。
現実主義者の女。ロマンティストの男。
地に足のついた女。地に足のつかない男。
旧弊で差別的なインド社会においては、男女の関係性を外から規定する既成の社会的コンテクストを書き換えていく必要があり、サタジット・レイはそういった社会変革につねに関心をもっていた監督だった。
その意味で本作は、昨年観た『ビッグ・シティ』とも、比較的同じテーマ性を持った映画なのだな、と。
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●主演のショウミットロ・チャタルジは、『エレファント・ゴッド』でシャーロック・ホームズを意識した名探偵を颯爽と演じていた同じ俳優とはとても思えないくらいにダウナーな感じを上手く出していて、陰陰滅滅とした辛気臭い役を、顔芸込みで熱演している。
この人、俺の中学のときの担任だったK先生によく似てるんだよなあ……。
●マドビ・ムカルジは『ビッグ・シティ』に引き続いてのヒロイン役。強い意志のこもった眼差しが魅力的。感情が漏れてこない顔なんだよね。
●茶園主の旦那を演じたハラドン・バナルジにどこか見覚えがあるなと思ったら、『ビッグ・シティ』でマドビ・ムカルジの上司をやってた人か! この人の一挙手一投足にリアリティがあるために(とくに酒を飲んでから眠るまでのプロセスが生々しい)、いろいろと深読みをしてしまいたくなる。
●この映画のなかで、同郷の男と女どうしはベンガル語で話をしている様子だが、茶園主が男と話すときは、半分が「英語」である。これは同じインドでもコルカタと地方では言葉が全然違うから、話の通じる共通語として用いているのか、それとも西洋文化の影響の強い茶園という場を強調するためのギミックなのか、その辺はインドの言葉を聞き分けられないのでよくわからない。
●小道具としてのタバコの重要性と雄弁さも、昔の邦画と共通する部分。
ある意味タバコは、何気なくやりとりすることでお互いの感情を「読み合い」するときのツールとして、すごく演出効果が高いんだよね。