音楽サロンのレビュー・感想・評価
全2件を表示
音楽と踊り、喜びと悲哀、そして虚栄と…
う〜ん。これはイイ。
ストーリーも構成も演出も、いわゆる古典的な映画手法なので、今日的な新しさを(温故知新の意味でも)特に感じることは無いが、欧米の映画の古典的な手法を完全に自分のものにしてしまった凄みがある。
特にカメラワークがオープニングからエンディングに至るまで全編に渡り全て素晴らしい。
あの映像美だけでもアート作品に見えてくる。
そして、やはり、あのインド音楽!
あのグルーヴ感が本作に与えた影響は計り知れない。
あれが無ければ、良くも悪くも欧米の古典映画を上手く学習した作品に留まっていたかのように見えていたと思う。
そのインド音楽のディープなグルーヴの波動がスクリーン全面から際立って来る特別な空間が、この作品のタイトルとなっていて、主人公である名家の地主が(おそらく先祖代々に渡り引き継いでいる)邸宅内に築いた音楽と踊りのための特別なサロンのことを指している。
英語タイトルは「The Music Room」となっているが、原題の「Jalsaghar」はベンガル語で「音楽サロン」の他に「宴会場」という意味もあるようだ。
このサロンは、その主人公の威信と没落する前の栄華の象徴でもあり、映画全体を通して重要な空間となっているが、物語が変遷していく中、過去の栄光と現在の凋落のインターフェースとしての機能も果たしている。
自らの出自でもある名家の没落を描くとなると、やはりヴィスコンティを連想してしまうが、彼のような自己愛的な耽美性は全く感じられない。
映像は見事に格調が高いが、貴族的なる(時代から取り残される)価値観や虚栄心を自嘲的に突き放しているように見える。
役者たちのこれ見よがしな芝居(特に顔芸)に辟易する部分もあったが、あの時代の俳優たちであればサイレント時代の悪い癖を引きずっていたともいえる。
あるいは、まさに、その時代に取り残された感ある芝居は、演出上ワザと要求したのかもしれないが…
それは考えすぎか…
単純にルビッチなどの影響でカリカチュアしてみたかっただけかもしれない。
兎にも角にも、インド音楽が大好きで、往年のフランスやハリウッドの古典的な映画も好きであれば、間違いなくお勧めの作品だ。
但し、全体的にテンポの方は結構ゆったりしている。
それゆえにインド音楽が始まり出した時、そのグルーヴ感が際立つとも言える。
特にクライマックスで、踊り子のローシャン・クマリーが披露する「カタック」というインド古典舞踊と、その完璧なリズム感に完全に同期して鳴り響く「トリヴァト」という古典音楽は本当に圧巻だ。
その音響面も含めて、映画館の中でないと堪能できない可能性は十分に有り得る。
というか、自宅で観てはダメなタイプの映画の典型かもしれない。
出来れば是非スクリーンで観て欲しい。
没落地主の誇りと悲哀を描きながら「芸術」の持つ意味を問うサタジット・レイ初期の佳作。
実は、サタジット・レイの映画を観るのは初めてである。
名前だけは「フェリーニ、ベルイマン、黒澤、サタジット・レイ」みたいな感じで「世界の巨匠」として十分存じ上げていたし、今はなき岩波ホールで『大地のうた』(55)『大河のうた』(56)『大樹のうた』(59)の「オプー三部作」を時折やっていたのも記憶している。
ただ、インド映画にはそこまで思い入れがなく、『ムトゥ』(95)と『RRR』(2022)でもう十分お腹いっぱいな感じで、今までついついスルーしてきてお恥ずかしいかぎりである(あと、観た記憶があるのは傑作本格ミステリー映画『ストーミー・ナイト』(99)と『エンドロールのつづき』(2022)くらいか)。
今回、Bunkamuraル・シネマでレトロスペクティヴとして7本を上映してくれるというので、この機会にまとめて観ておこうという次第。
視聴一本目、『音楽サロン』。
上記の『大地のうた』『大河のうた』、『哲学者の石』(58)に続く長篇第四弾である。
「オプー三部作」がイタリアのネオ・リアリズモの強い影響を受けて、ロケーション撮影、素人俳優起用、ドキュメンタリータッチといった方向で貫かれているのに対して、本作はセット撮影とプロの俳優を用いて、より一般的な文芸映画を指向して作られている(『大河のうた』が大コケして資金繰りが厳しかったらしい)。
内容はとてもシンプル。
地所の洪水や資本主義の進展などを受けて没落した地主ビッションボルは、経済的には困窮しながらも今も数名の召使にかしずかれて大豪邸に住んでいる。彼はかつての栄華を諦めきれず、自前の音楽サロンに有名歌手やダンサーを招聘しては演奏会を催している。隣人の新興実業家ガングリが大きな会を開くときいて、対抗心で居ても立ってもいられなくなったビッションボルは、自分もなけなしの金をはたいて演奏会を開こうとするが、彼の行動は思わぬ悲劇を呼ぶことになる……。
寝そべりながら水タバコをいつも喫っているビッションボルは、芸術・芸能に明るく、パトロンとしての在り方に誇りを持っている。成り上がりのガングリに対しては、常にマウントを取るべく上からふるまい、家族や召使に対してもきわめて傲岸な家父長的姿勢で接するが、実は妻や息子からはそれなりに愛されているし、召使からもそれなりに慕われている。
ガングリに子供じみた仕返しが出来たと思ったときは、
「フフフフ、フーハッハッハッハ」と、
マンガに出てくる悪役のような声で笑う。
没落地主の悲哀と誇り、俗物感、滑稽さを一身で表現する、ある意味魅力的なキャラクターだ。
主演のチョビ・ビッシャシュは、アメリカ人俳優でいえばエドワード・G・ロビンソンみたいな風格と顔貌をもった俳優で、この不遜ではあるが憎めない地主の姿を、戯画性と真実味のバランスを巧みにとって表現してみせている。
本作では、三回挿入される(実際のインド古典音楽の名手による)演奏シーンを核として、ビッションボルの大地主としての矜持と対抗心、その結果として経験する悲しい試練と避けがたい没落を描き出す。
陰影の濃いライティングと画面づくり、入念に考え抜かれた構図と演出、味のある俳優陣の演技。映画としての完成度は高く、じっくりと腰をすえた語り口にいつしか引き込まれていく。
これをサタジット・レイの代表作とするには、題材が地味なうえに盛り上がりに欠ける気がするが、見ごたえのある落ち着いた雰囲気の文芸作だった。
― ― ― ―
●地主の名前がビッションボル・ラエとあるけど、ラエの綴りはサタジット・レイのレイと一緒。要するに現地読みだと「ラエ」だけど、サタジット・レイだけはその読み方で流布しちゃってるからそのままの表記になっているってことか。
●大地主の「誇り」の象徴として登場する、白馬と象。
そしてそれは「滅び」の象徴でもある。
●インドの古典音楽には全く素養も聞く耳も持たないので、二回目の演奏会(その日襲った嵐が悲劇を引き起こす)で出てきた老歌手の演奏が「すごくうまくてみんなが満足している描写」なのか、それとも「期待外れなくらい下手くそでみんながとまどっている描写」なのかすらわからないで、どっちなんだろうと思いながら観ていた。
後からパンフを見たら、北インド古典声楽の名手サラーマト・アリー・カーンによる雨季を象徴するラーガ「ミヤン・キ・マルハール」の演奏で、間違いなく「前者」らしい。
このシーンを聴いた細野晴臣は「それがとにかく歌い手も歌い方も現代とはまるで違う。言葉ではうまく説明できないのであるが、音楽の極意を見せられたというか、聴いていてゾクゾクしてくる。ただその音楽に触れるだけで、僕の中に力が湧いてくるような音楽である」(パンフより)と述べていて、さすが名高いミュージシャンは「達人」の技をきちんと感知してみせるんだなあ、と感心した。
俺みたいに「息が続かないから黙っちゃったのかな?」とか「高音が出ないから飛ばしたのかな?」とか「続きが思い出せないから同じフレーズ連呼してるのかな?」とか考えてるようじゃ、ホントダメダメですね(笑)。
●芸事を子飼いのアーティストに披露させて、それを客に呼んだライヴァルに見せつけることでマウントを取ろうというのは、平安時代の貴族(『大鏡』とか『栄華物語』とか)や戦国武将(信長・秀吉・家康)のエピソードとしても出てくるような話で、ある種「古典的」なテーマなんだな、と。
●舞台はインドのベンガル地方だが、サタジット・レイの駆使する映画文法は間違いなく、アメリカ映画やイタリア映画に端を発する西洋的な素養に依拠したものだ。
とくに、奥に置いた「大鏡」を用いて逆側の客の様子を見せる「ラス・メニーナス」みたいな撮影手法や、消えゆくシャンデリアや酒の残量で象徴的に「滅び」の時が迫っていることを示すやり方などからは、西洋美術史的な基礎教養が感じとれる。
●西洋的な教養という話で言えば、この映画って基本はベンガル語で撮られているのだが、ときどき主人公の地主に限って、簡単な英単語や英語のフレーズを交えてしゃべったりもするんだよね。インドにおける「イギリス文化の受容」というのは、政治的・軍事的な植民地だったこともあって複雑な問題ではあるだろうが、「富裕層の教養」「先進文化の受容」という観点からも観ないといけないなと思わされた次第。
●とにかくロケ地の大豪邸が建築としてたいへん魅力的。
日本の家屋とは、基本的な建築理念(密閉性や寒暖の管理・採光など)が根本から異なっていて、こういう家で生活していると、モノの考え方もまるで違う人間に育つんだろうなと感じざるを得ない。
●不幸な経験を経て、音楽から何年も距離を置き、財政的にも困窮し、火の消えたような状態で廃屋同然の屋敷で暮らす主人公が、くだらない対抗心が理由とはいえ、成金の隣人の行事にぶつけて、なけなしの金をぶち込んだ「最後の演奏会」を開こうとする。
その際、一度はそんなの無理だとダメだししておきながら、執事も召使も、いざ準備を始めたら生き生きとして実に楽しそうだ(ちょっと『美女と野獣』の調度品軍団みたいw)。
サタジット・レイ本人にとっても、芸術や芸能は「どうしてもなくてはならないもの」だったのだろう。
たとえ世間から見れば単なる「道楽」であったとしても、労働者からすれば「生活に不要のゆとりの部分」にしか見えないとしても、一部のインテリにとって、それでもなお「芸術」は「不可欠」なものなのだ。
僕自身、学生時代は貧乏暮らしのなか、なお「エンゲル係数を無理やり下げてでも」、映画やクラシック、展覧会、読書、旅行などに「全ぶり」していた人間だから、その感覚はよくわかる。
これは、没落地主の誇りと悲哀、滑稽さを描く作品であると同時に、「芸術」の価値と意味について問う映画でもあるのだ。
全2件を表示