劇場公開日 2025年9月19日

「一段と画面から溢れかえる「情報量」と「異質さ」に眩暈を覚える」ザ・ザ・コルダのフェニキア計画 いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 一段と画面から溢れかえる「情報量」と「異質さ」に眩暈を覚える

2025年9月12日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会、映画館

ウェス・アンダーソン監督の作品が大好物だ。毎回こちらの想像力を易々と超えてくる。あまりの異質さに「これは一体なんだ」と目が釘付けになる。それを考慮に入れても、今回は一段と異質感がハンパなく、新鮮な驚きというより、置いてけぼりをくらったような軽い眩暈を覚えた。

それはなぜだろう…。ひとつには、画面からあふれかえるゴダール作品並みの情報量のせいだろうか。各ショットにこめられた情報量はいつにも増して過密状態。たとえば、ラスト近くに至ってもなお、厨房に一見無造作に山積みされた酒瓶の1本1本が自己主張してきて視線を奪う。で、観ているこちらは、(さながら鈴木忠志の芝居のセリフみたいに)「消化不良のため、ではなく、消化過剰のためにどんどん流れて出てくる」ようなキモチに陥ってしまうのだ。

もうひとつの理由として考えられるのは、本作の劇中に天国の審判(?!)シーンが何回か挿入されることだ。厳格に様式化されたスタイルで描かれるそれは、衣装デザインなどともあいまって、「いま自分が見せられているのはセルゲイ・パラジャーノフの映画のワンシーンではないのか」と一瞬錯覚を覚えるほど。ついでに言うと、ここにはフェリーニやベルイマン作品のような宗教色も仄かに漂う。

三つめの理由としては、ベニチオ・デル・トロ演じる主人公が、過去作には類をみない悪党(?)キャラ——莫大な資産と血族を守ることに固執する傲慢不遜な男であるということだ(「悪党」という点では『犬ヶ島』の小林市長などもそうだが、主人公扱いではなかった…)。
うさん臭い大実業家であり、武器商人でもある彼が画策する「フェニキア計画」のこともあって、本作は独自の切り口によるWS版『メガロポリス』か(?!)などとヘンに気を回すも、さにあらず。見終わってみれば、これは「巨万の富を築く代償に家族を長年犠牲にしてきた男が、父娘関係を取り戻そうとする」という話だった。これはシェイクスピアの「リア王」やディケンズの「クリスマス・キャロル」などを引き合いに出すまでもなく、きわめてクラシックな文学的テーマの一つであり、今回、どストレートに古典回帰をみせたことに少々驚かされた。

四つめの理由は、本作の劇構造が、近年のウェス作品に比べて拍子抜けするくらいシンプルだったことが挙げられる。物語を幾重にも入れ子構造にするのではなく、主人公たちの行動をストレートに追っていくのだ。
その結果、前面にぐんと迫り出してきたのが、ウェス・アンダーソンの真骨頂ともいうべき表現スタイルそのものだ。尋常ではないシンメトリーな構図へのこだわり、厳格な「法則」に則ったキャメラワーク、緻密さと省略と飛躍の絶妙なコンビネーションによるストーリー展開…などがそれにあたる。
なかでも今回は、お眼鏡にかなった名作絵画やアートな調度品・小物の数々が画面を埋め尽くす——物語や登場キャラに向ける観客の関心が削がれるのも厭わずに。ふとヴィスコンティや小津安二郎作品のことが頭をよぎるくらいに…。その結果、各ショットはより重層さを増す。で、前述したように「情報量過多」の印象へとつながっていくわけだ。
ここで特筆しておきたいのは、ルノワール、マグリット、ヤン・ウェーニクス、ティルマン・リーメンシュナイダーらのホンモノの名画たちが今作のスクリーンを飾り、名優たちと拮抗してバツグンの存在感を放っているということだ(エンドロールにその詳細はクレジットされる)。

…というわけで周辺情報をダラダラ書き連ね、多彩な出演者のことまで触れる余裕がなくなってしまったが、端的に言えることは、本作がWAファンの間でも好き嫌いがハッキリと分かれそうだということ。それでも媚びることなく、これを撮り上げた監督のチカラには色んな意味で感心させられる。そしてもう一つだけ、本作は劇場のできるだけ大きなスクリーンでご覧いただくことを強くオススメしておきたい。細部まで味わい尽くすために。

自分はといえば、とても1回で消化し切れないある種の異質さ・難解さに、一層の興味を掻きたてられた。少なくとも、あと2、3回は観ずにいられない。そんなキモチにさせてくれる作品だった。

以上、試写会にて鑑賞。

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いたりきたり