「独自のシネマティックランゲージ」宝石泥棒 ハイスト・ビギンズ 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)
独自のシネマティックランゲージ
インド映画、特に現代のエンターテイメント大作は、
ハリウッドや日本の映画文法とは一線を画す独自の、
シネマティックランゲージ(映画的文法、言語、視覚表現)を有している。
それは、単なる異国情緒に留まらず、
登場人物の造形、物語の運び方、視覚表現、
そして聴覚に訴えかける音楽の使い方、
あからさまなアフレコによるセリフ処理に至るまで、
その根底にある美的感覚や価値観が異なることに起因する。
本作「宝石泥棒 ハイスト・ビギンズ」は、
まさにそのインド映画ならではの個性が色濃く表れた一本と言えるだろう。
まず、登場人物の描写に顕著なのが、
西洋的な基準の「美男美女」というよりも、
生命力溢れる「霊長類ホモサピエンスとしての力強い美しさ」といった趣だ。
これは、単なる外見の善し悪しではなく、
キャラクターが内包する情熱やエネルギーを前面に出すインド映画独特のアプローチである。
そして、物語の構成や演出、音楽の使い方もまた独特だ。
感情表現の極端さ、唐突に挿入される歌唱シーン(本作では少ないが、アクションとしての音楽的演出は随所に見られる)、
そして時に現実離れした展開は、〈文法が違う〉というよりは、
〈同じ文法を使いながらも、感情やスペクタクルの方向へベクトルが大きく振られている〉と表現するのが適切だろう。
「そんな撮り方をするのか」「こんなセリフ回しがあるのか」
「哲学風だけどぜんぜん哲学していない」などと、
戸惑う瞬間もあるかもしれない。
いわゆる「アフレコ感」が気になる観客もいるだろう。
しかし、不思議と作品全体の熱量や勢いがそれを矮小化し、
気にならなくなってしまうのもまた、インド映画の魔力と言える。
鮮烈を通り越して時に目に痛いほどのカラフルな色調も、
現実をデフォルメし、おとぎ話のような世界観を構築する重要な要素となっている。
これらの要素は、例えるなら、
お茶でもコーヒーでも紅茶でもない、〈濃厚なチャイ〉のようなものだ。
この世界観にノレる/ノレないは、
観客の受け取り方やこれまでの映画鑑賞経験に大きく依存する。
その証拠に、サタジット・レイのような巨匠の芸術作品から、
「ムトゥ 踊るマハラジャ」「ロボット」「バジュランギおじさんと、小さな迷子」といった大衆娯楽作、
そして近年の世界的ヒットとなった「RRR」に至るまで、
インド映画には前述した異次元とも言える楽しさを持つ作品が数多く存在するにも関わらず、
一部の作品を除いて爆発的に「バズる」のは数年に一度程度に留まっている。
これは、その独自の文法が、
良くも悪くも観客を選ぶ側面があることを示唆しているのではないだろうか。
本作「宝石泥棒 ハイスト・ビギンズ」に話を戻そう。
本作もまた濃厚だ。
しかし、そこに描かれるセリフにもある、
家族愛、友情、裏切り、
そして宿敵との対決といった普遍的なテーマ、
さらには主人公の目的や葛藤といった物語の核となる要素は、
世界のどの文化においても共通する人間のドラマである。
コメディリリーフとしてのボケ警官たちの描写も、
普遍的な笑いのツボを突いていると言える。
これらの基本的な〈文法〉は、私たちにも馴染み深いものだ。
飛行機でのシークエンスなどに見られるVFX技術、
その映像表現もまた、
リアリズムよりもケレン味やダイナミズムを重視するインド映画特有のベクトルに従っているため、
ここでもやはり、
その勢いに身を委ねて「ノレる」観客と、
これは無いでしょと「ノレない」観客とに分かれる可能性が高い。
この圧倒的なエネルギー、感情の奔流、
そして視覚・聴覚への飽くなき刺激は、
一度波長が合えば、
他の映画では決して味わえない高揚感と満足感を与えてくれる。
これは、単なる「面白い/面白くない」で語りきれない、
異文化のシネマティックランゲージと向き合うことで初めて発見できる「宝石」のような体験だ。
本作を、あるいはインド映画を楽しむ鍵は、
既存の映画への期待値を一度リセットし、
目の前で繰り広げられる独自のエンターテイメントに心を開くことにあるのかもしれない。