「沈黙と忘却に支配される社会――本作が突きつけるもの」でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
沈黙と忘却に支配される社会――本作が突きつけるもの
最初に突きつけられるのは「これが実話か」という衝撃である。劇中に次々登場する学校、教育委員会、報道、弁護士といった“関係者たち”の無責任な言動は、観客に嫌悪感を抱かせると同時に、なぜこれほど荒唐無稽な冤罪が成立してしまったのかという説得力にもつながっている。つまり、この作品は人間の愚かさを累積させた果てに冤罪が出来上がるプロセスをリアルに描き切っている。
映画としての出来栄えもさることながら、問題はここで描かれた事件の構造が、現代日本において決して過去の特殊事例ではないということ。教育委員会が「体罰認定の誤り」を取り下げるまでに10年も要した理由は単純で、行政判断を覆すことは「自らの誤り」を認めることに等しく、責任追及や損害賠償リスクに直結するから。制度的惰性と組織防衛が、名誉回復のスピードを鈍らせた。
さらに深刻なのは、当時の報道機関――とりわけ朝日新聞や週刊文春を含む大手マスコミが、この件について正式な謝罪や訂正を行っていない点。誤報は人を社会的に殺し得るのに、謝罪しなくても存続できる。ここに、日本のジャーナリズムが抱える致命的な病理がある。報道の自由を掲げながら、いざ自らの誤りが問われる場面では「当時の取材は正当だった」と言い訳し、沈黙と風化に頼る。この無責任体質こそが、国民のメディア不信を深めている。
本作を観て思い出すのは、かつてジャンヌ・ダルクが「魔女」として処刑され、死後に教会が誤りを認めて聖人とした歴史。当時の「正義」は時代の空気と権威によって決まるが、真実は往々にして後になってからしか認められない。映画はまさにその縮図を描いた。
綾野剛が演じる教師は、ただ冤罪の被害者というよりも「社会に抹殺される個人」の象徴だ。柴咲コウ演じる告発者や亀梨和也演じる記者を含め、誰もが自分なりの正義を語るが、その正義が集団で暴走したときに何が起きるかを、本作は観客に叩きつける。
総じて言えば、本作は「娯楽映画」として軽く消費できる類ではない。観る側に強烈な不快感と疑問を残し、社会構造そのものを問い直す。人間はなぜ誤り、なぜ責任を取らないのか。報道はなぜ謝罪できないのか。教育行政はなぜ10年もかかるのか。観客に刺さるのは、結局この国の制度と社会が「沈黙と忘却」に支配されている現実そのものである。映画の余韻は、スクリーンの外の私たちの社会に直結している。
こいくきさんコメントありがとうございます
たくさん褒めて下さってありがとうございます
とてもうれしかったです
こいくきさんの言われてる通りこれが実話かと本当に信じられない衝撃でした
でもこのような出来事は僕たちが知らないだけで多くの事案があるのでしょうね
やってないものはやってないと言える勇気
そして真実を見極めることのできる確かな心を持った人になりたいものだと本当に思います
そしてこのような出来事が起こらない社会になることを心から願います
ありがとうございました
こひくきさん、フォローありがとうございます。僕のレビューは単なる感想文になってしまうのですが、こひくきさんの文章は論理的で読む者を納得させる力があって素晴らしいと思います。