「「正義」の名のもとに」でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
「正義」の名のもとに
作品は裁判のシーンから始まる。原告の意見陳述、そして被告の意見陳述と。当然主張は真っ向から対立するからその内容は相反するもの。その極端に異なるさまを演者が見せてゆくあたりが映画としてうまい。
原告側の主張である「殺人教師」を演じる綾野剛の魚の死んだようなうつろな目から受ける印象はいじめを受けている児童とシンクロするくらいにゾッとさせられる。明らかに児童側が一方的な被害者というイメージを観客に植え付ける。
そして転じて被告側薮下の主張を基にしたエピソードがつづられていく。そこには「殺人教師」とは程遠い善良な教師の姿が。この役どころの演じ分けは役者冥利に尽きるだろうし、観客も綾野剛の演技力を堪能できる。本作はそのショッキングなテーマもさることながらまさに綾野剛の芝居に魅了され続ける二時間と言える作品である。彼の芝居の凄さに思わず涙した。
監督の作品の出来は当たりはずれがあるので心配していたが、序盤から当たりの方だと確信したので安心して鑑賞できた。後は座席に身を任せて役者陣の素晴らしい演技を堪能するのみ。
原作はルポルタージュで読みやすくななめ読みしただけだけど、忠実な映画化だと思う。ただ、映画を盛り上げるためか柴咲コウ演じる律子を殊更に危険な人間として描きすぎ、薮下を善良に描きすぎな気もしないではないが、原作によるとご本人も映画に描かれた通りのかなり生徒思いの先生だったことは間違いないようだ。土砂降りの雨の中に突っ伏すあたりはやりすぎな気もするけど。
本作で描かれた事件は二十年以上前のものだが、まさに今の現代社会で日々起きていることを連想させる。
たとえば本作で描かれた事件を全く知らない状態で新聞やネットで「教師による生徒へのいじめ、自殺強要か」という見出しの記事を目にしたら人はどのような反応を示すだろうか。
私を含めて多くの人がなんてひどい教師がいたものだ。子供がかわいそうだ。こんな教師はすぐさまクビにしろという思いを抱くのではないだろうか。そのセンセーショナルな見出しに気を取られてこれは本当のことなんだろうかと疑問を抱く人は少ないのではないだろうか。それだけこの見出しが人の中にある正義感バイアスを引き出すからなんだろう。
誰もが持つ正義感。それは時としてもろ刃の剣となる。その剣が正しい方向に向けられれば正義は成し遂げられ、間違った方向に向けられれば罪のない人を不幸にもする。本作の教師薮下のように。しかし価値観の多様性が叫ばれる中でこの「正義」というものさえ、いまは相対化されている時代ではある。
人がバイアスを持っているのは進化の過程で身に着けてきたものであり、それが生存には不可欠なものだったからだ。人間の脳内での情報処理には限界があり時には直観に頼る判断が求められる。災害時に過去の経験からその場を離れて九死に一生を得るような感じで人間は生き延びてきた。そんな一見合理的でない直観的判断を人間は生き抜くうえで身に着けてきた。だから人間は生きていくうえでバイアスをけして避けられない。
直観的判断は時には有益な面もあるがそれは弊害ももたらす。確証バイアス、先入観、同調圧力などといったバイアスにより冤罪は生み出されてきた。
本作で薮下を糾弾した報道陣、彼を訴えた弁護団には確証バイアスがかかっていた。また被害者のPTSDの検査をした医師も同様に。
本来守られるべき子供を守るべき教師が虐待していたという許しがたい事実。彼らは皆が正義感に燃えていて、薮下が「殺人教師」であることを信じて疑わなかった。それは先述の記事の見出しを読んで我々が抱いた印象と同じく。
クレーマーの保護者が嘘をついてるとは露ほども思わない。バイアスにより自分たちが信じた事実を反証するような証拠や証言は無意識に排除されてしまう。
これがいかに難しい問題なのか、彼らは自分たちがしていることが正義と疑わない。正義のためならどんなことでもして見せる。550人もの大弁護団結成がその証拠だ。彼らはほとんどが手弁当であり報酬目的ではない。人権派弁護士として社会正義をなすためにここに集まったのだ。それは正義感に燃えて薮下を取材していた記者も同じだった。
そしてアンケートに答えた生徒たちも薮下による体罰があったと公表された後でそれに答えたために同調圧力や先入観が加わり八割近くもが彼の体罰を肯定した。これらのバイアスが合わさり薮下を追い詰めていった。
思えば陳腐な出来事だ。ただの虚言癖のある主婦による噓が全ての発端なのだから。確かに学校側が毅然とした態度で臨まず、事なかれ主義で薮下に全面的に非を認めさせて安易に事を治めようとしたことも原因の一つだが、その後のマスコミの加熱報道、そして弁護団の圧力による教育委員会の初の教師によるいじめの認定がお墨付きを与えてさらに火に油を注いだ。そして被害児童のPTSDという噓が加わり訴訟へと薮下をさらに苦しめた。
これは今ではSNS上に流されるデマが発端になりネットリンチが行われたり、陰謀論など誤った事実により世論形成がなされる現代社会の姿そのものだ。
この事件は20年以上前の出来事だが薮下の家の前に群がる報道陣や無数に張られた中傷ビラはまさにネットの書き込みそのものを連想させる。
当時から報道被害により人生を奪われる人はいたが、いまではそんな報道の役割をSNSが担っている。マスメディアは噓ばかりでネットにこそ真実があるらしいから。
ネットの情報は匿名で流されるためさらに深刻な事態になっている。報道機関が誤報などした場合は責任の所在がはっきりしてるがネットはその匿名性から誹謗中傷の歯止めが効きづらく誰もが「正義」を気軽に振りかざしやすい。今の時代、日々多くの「殺人教師」が生み出されている。
本作はただの異常なクレーマーにより一人の人間が陥れられた恐怖というだけではなく、そのクレーマーによりなぜここまで被害が拡大したのか。周囲の人間たちがなぜこうも巻き込まれてしまったのか、これは現代社会において普遍的な意味を持った事件と言えるだろう。
近年立て続けに報道される冤罪事件、その実態を知らされてそのあまりのことに驚かされる。本作とは違い刑事事件が主なものだが根底には同じ問題が潜んでいる。
検察は自分たちの思い描いたシナリオ通りに捜査を進める。容疑者を特定してその容疑者が犯人である証拠だけを集め犯人ではないという証拠は無視をする。典型的な確証バイアスだ。裁判手続きにも不備が多く検察側が入手している無実を証明する証拠を弁護側が強制的に開示請求できる法律も存在しないから、無実の証明が困難になる状況にありそれがより冤罪を増やしている。
日本で冤罪が繰り返されてきた原因の一つに冤罪が裁判で確定されてもその事案について再調査されることはないのだという。冤罪を作り出した検察もけしてその事件を振り返ることもなければ、再発防止の措置も取られないのだ。これでは同じことが当然繰り返される。
村木事件、プレサンス事件、大川原化工機事件など相変わらず検察は冤罪を世に生み出し続けている。これではいつ誰が冤罪の被害者になるか。いつ自分が薮下になるかわからないのだ。
さすがに法律家の間で冤罪被害防止のための組織イノセントプロジェクトジャパンが発足されてはいるがこれは民事事件まではカバーしていない。
その取り組みの中ではどんなに優秀な法律家でもバイアスがかかることから、必ず一方的な証言だけを鵜吞みにしない、客観的な事実を集める、思い込みをしてないか常に自分に問うなど、法律家自身がバイアスにかからないように防止策が練られているという。しかし検察側がそのような取り組みをしているということは聞かれない。
本作の事件で大きな役割を果たした報道各社も同様に本来彼らは報道の真実性を担保するためにダブルチェックを怠らなかったはずだが、購買部数やら視聴率競争にさらされて本来の義務を怠った。この経験を生かして猛省されるべきだろう。
この事件に大きくかかわった報道や法律家たちには自浄能力は期待できてもやはり深刻なのはこれからも予想されるSNSによる被害だろう。匿名性やら法規制が及ばないネットの世界では今後も薮下のような被害者が生まれ続ける。法による規制強化が待たれる。
本作はその取り上げたテーマもさることながら、550人の弁護団というもはや強大な権力に匹敵する相手にたった一人の弁護士だけを味方につけた被告が勝利を勝ち取るまでを描いた闘いの記録でもあり、最終的には教育委員会による日本初の不名誉である教師によるいじめ認定が取り消されるまでを描いていてその得られるカタルシスも大きいものである。エンターテインメント作品としてもすぐれた作品だった。
共感ありがとうございます!
小林薫が、「裁判とは戦争なんですよ」と言っていましたが、この作品では裁判だけでなく、モンペだけでなく、他の父兄や校長、マスコミ、情報を得た一般人まで敵に回す戦いになりましたね。10年かかりましたが、最後に休職が解かれて喜び合うシーンが感動的でした。
コメントありがとうございます。
三池崇史監督らしくない、と言ったら失礼ですが、
真面目な社会派作品でしたね。
柴咲コウ役が確かに悪く描かれすぎてる気はします。
もし私が父兄の一人で、先生と、原告を知っていたら、
感情に流される自信(変ですが)あります。
困ったのです。勘に左右されるんです。
ただ今、SNSの情報しか信じない・・・って人が結構居ると聞きます。
これも危険ですね。
本当に難しい時代ですね。
綾野さんは、本当に素晴らしかったですね。
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