「23年遅れて公開! 記憶と愛の不確かさを描いた傑作」ミステリアス・スキン nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
23年遅れて公開! 記憶と愛の不確かさを描いた傑作
児童の性的虐待を題材にした映画である。しかし、声高に告発するという内容ではなく、その渦中にいる人の主観的現実に寄り添って描く繊細な物語だ。
1995年に発表された同名の小説が原作。どの程度、著者の個人的経験が反映されているのかはわからなかった。ただ、90年代から2000年代にかけて次々に明らかになった児童の性的虐待問題と無関係ではないだろう。
僕は、著者の体験を元に描いた創作的ノンフィクションだと思って鑑賞していた。それくらい当事者の内的真実が精緻に、かつリアルに描いかれている。
本作のアメリカでの公開は2004年。しかし、日本では今年になって初公開された。それにも関わらず、古びたところがなく新作映画同様の鮮烈さを保っている。最後まで魅了された。
遅れて日本公開となったのは、ようやく日本でも受け入れられる土壌が整った証だろう。ジャニーズ事務所の性的加害報道の影響は大きいはずだ。
ジャニーズ問題は2023年に表面化したということになっているが、当事者からは1960年代から告発があった。80年代には雑誌「噂の真相」が、90年代には「週刊文春」が告発記事にしている。しかし、社会問題とはならなかった。
2023年イギリスBBCがドキュメンタリーを発表し、文春がそれを追って過去記事を再公開することで、ようやく大きな社会問題となったという経緯がある。
つまり、2023年までの50年以上、日本社会は、この種の虐待を問題としてうまく認識できなかったのだ。虐待は重大な罪である、問題であるという常識が出来上がらないと、問題は問題として認識されないし、対処もできない。20年あまり遅れて、この映画を見ることができるようになったということは、その問題を認識し、可視化し、予防する出発点に立つことができたということだ。
この映画は、当事者にとって「虐待している/されている」の認識がいかに困難であるかを描いている。なぜ困難なのかは、心理学的にも説明されてきた。その成果を十分勉強できているか自信はないけれど、この映画の心理的背景と合わせて考察してみたい。
被害者は、主人公のニール。そして同じ少年野球チームのブライアン。被害時の年齢は8歳。加害者はチームのコーチである。
まず、8歳という年齢の問題がある。発達段階的には、まだ自我が未完成で、身近な他者の承認と評価が絶対的な時期だ。
ニールは、愛情深い魅力的な大人としてコーチを絶対視している。だから虐待を特別な愛の行為として合理化し、記憶に定着させた。そして、その後ハイティーンになっても、その再現による愛の確認行為として成人男性に体を売っている。その内面見事に描かれている。
一方のブライアンは、記憶喪失するという形で防衛した。彼の脳と身体が選んだ「生存のための忘却」である。そして、青年期になっても記憶の空白に苦しみ、その原因を探索せずにはいられない。
興味深いのはブライアンが惹きつけられたUFOにさらわれた体験を持つ女性だ。ブライアンは、現実に起こったことを、UFOにさらわれたという物語に書き換えることで生き延びようとしているようだ。
事実の認識は困難で、また記憶は当てにならない。大人になってもそうなのだから、自我が未確立は幼児期にはなおさらだ。
記憶はその後の経験で改変されたり、新たに形作られることもあって、セラピストとのカウンセリングによって〝思い出した〟という虚偽の(可能性が高い)記憶よって、家族や親しい間柄の相手との関係が毀損されるという問題もアメリカでは頻出した。
ただ、虚偽の記憶であっても、内面的真実としての記憶を思い出し、それを語るということで、人は癒されるし、救われるということがある。
この映画でも、ブライアンは喪失していた記憶を取り戻した。改めて深く傷ついているが、それは回復に必要なプロセスのはずだ。
そして、ニールも慎重に寄り添いつつ、ブライアンのその記憶の回復を導いていく。その共同作業のプロセスで、おそらくニール自身にも何らかの救いがあることが暗示されているように見えた。
そして、もう一人の重要人物に虐待者となるコーチがいる。このコーチには(罪の自覚は薄々ありつつも)虐待という認識は持てていない。彼にとっても、ニールとの交流は愛によるものという認識だ。「この子を楽しませ、守りたい」という気持ちがあるから、暴力であるという実感が乏しいのだ。
社会に児童虐待というが概念が共有されていなければ、こうした行為は、愛情・指導・教育として自己正当化される。だからこそ、ジャニーズ事件や、カソリック教会での事件のように権威者と少年の間での問題は、表面化もせず、当事者も社会も罪の意識が薄く、長年継続されるに至った。こうして社会に共有されることで、それは罪であると認識が広まり、予防が可能となる。
本作の公開がアメリカから23年遅れたということは、私たち自身の社会的成熟の遅れと認識すべきだろうし。同時に、今このタイミングでみられることを喜び、しっかり観るべき映画、そして、共有すべき作品なのだと思う。
と言っても、堅苦しく、義務感として〝観るべき〟というような映画ではない。とにかく繊細に人の内面を描いているし、映像も物語も美しく、痛みを共有し、また希望もあるのだと伝えてくれる。エンターテイメントとしても見事に完成された優れた映画なのだ。
