夏の砂の上のレビュー・感想・評価
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人生における転機というのは、お天道様の機嫌ぐらい曖昧なものかもしれません
2025.7.5 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(101分、G)
原作は松田正隆の戯曲『夏の砂の上』
妹の娘を預かることになった失業中の男を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は玉田真也
物語の舞台は、長崎県長崎市
かつて造船所で働いていた小浦治(オダギリジョー)は、会社の倒産によって失業し、次の職を探さないまま日々を過ごしていた
妻・恵子(松たか子)は愛想を尽かして出て行ったが、元部下の陳野(森山直太朗)と不倫関係にあると噂されていた
ある日のこと、治の元に妹の阿佐子(満島ひかり)がやってきた
博多で店を開くために娘・優子(髙石あかり)を預かれと言うもので、有無を言わさずに置いていく
優子は未成年だったが、近くのスーパーで働くことを決めていて、金銭的な負担ははいと言う
そんな様子を観ていた恵子は呆れ果て、何も言い残さないままどこかへと消えていく
それから治は、どう接して良いかわからぬ年頃の娘と共同生活をすることになったである
治は元同僚の持田(光石研)の再就職宴会に呼ばれ、そこであることないことを言われてしまう
そこには陳野もいて、噂話は尾鰭が付いていた
新しい女でもできたかと言われる始末で、生きた心地のしない夜を過ごすことになった
映画では、優子のバイト先でも飲み会が行われ、大学生の立山(高橋文哉)から言い寄られる優子が描かれていく
優子は自分に起こることを拒絶しないタイプで、興味本位で立山と付き合いを深めていく
それに対して、治は自分からは決して動かず、自分に起こる事もスルーするタイプだった
何を考えて生きているのか読めないものの、何とかなると気楽に構えていた
そんな治もやがて再就職をすることになるが、恵子との関係悪化が衆目の元となり、正式に離婚することになったのである
映画の冒頭では、干上がった川や溝などが強調され、給水車が出るほどの水不足になっていることが描かれていく
そんな日々も突然の大雨によって終わりを告げ、渇望しても降らず、忘れた頃に降ってくると言う感じに描かれていた
人生に起こる事もこれと同じで、意図して出来事に遭遇することはないと言える
映画のタイトルは『夏の砂の上』で、要は乾き切っていると言う意味になるのだと思う
元々海にいたハズの砂も、やがては海岸に打ち上げられ、海とは無縁のものとなっていく
彼らが潤うのは雨が降った時だけだが、彼らがその時を待っているとも思えない
すぐ近くに潤いがあるとしても、それを感じるのは人間だけで、砂はそんなことを思いもしない
そんな場所に足を踏み入れる私たちは、砂を憐れむかもしれないが、ただ熱いだけと思う人もいるように、その状態をどう受け止めるのかは、人それぞれと言えるのかな、と感じた
いずれにせよ、戯曲ベースなので演技力が必要な作品だったと思う
キャスティングがしっかりしているので、そう言った不安点もなく、淡々とした日常でほとんど何も起こらないのにずっと観ていられるのは凄いと思う
俯瞰的に見れば、治を取り巻く女性は大概だと思うが、そんな中にいて優子だけはまともに見えてしまう
治と真逆の気質で、何でも吸収してしまいがちだが、それが若さと言うものかもしれない
そう言った意味において、優子との出会いは治を少しだけ変えたのかな、と感じた
渇水の長崎に降る雨……
いい映画を見た、ジワーっと沁みる、そして余韻にひたる。
それはリアリティに裏付けされているから、だと思う。
幼い子供を亡くした夫婦がいる。
決して珍しいことではない。
治(オダギリジョー)と惠子(松たか子)は5歳の息子を、
大雨の日に水の事故で亡くした。
戸外に出たのを知らなかった。
側溝に落ちて急流に流されたのだ。
あの時、妻が目を離さなければ、
あの日、夫が、家で遊んでやってれば、
などと相手を責めたり、
お互いに顔を見ると亡くした息子の辛い思い出が蘇る、
後悔がつのる。
松田正隆の同名戯曲を、劇作家でもある玉田真也が監督。
映画は長崎市が舞台で、
坂が多くて、治の家もかなり高台にある。
坂の登り下りが頻繁に出てくるし、
家の窓からは治の勤めていた造船所の鉄塔やドックが無造作に残る港が
一望にできる。
息子を亡くした失意と溶接工の仕事の誇りもあり、
半ば自暴自棄になった夫を、見捨てて妻は家を出ている。
久しぶりに荷物を取りに戻った惠子は、
水もあげておらず、埃だらけの仏壇を見て治を責める。
“位牌を持ち帰る“という惠子、
”持たせないたくない“治、
顔を合わせば、「なんばしに来た」と怒鳴る治。
そんな恵子も、息子の好物を持参した様子はない。
恵子の様子はどこか荒んで渇水のように枯れている。
(長崎は日照り続きで、断水して、放水車が回っている)
暑い、暑い、汗が吹き出す。
喪失感から心が干からびた惠子は、
妻ある造船所の治の同僚だった男、
陣野(森山直太郎)と道ならぬ関係になり、
陣野の妻は治を激しく罵倒する。
長崎言葉の怒鳴り声は、内容がよく聞き取れないが、
自分が考え事をして、自転車事故を起こした・・・
それも治がしっかり恵子をつなぎとめずにいるから・・・
と、責める陣野の妻はかなりの打撲の怪我をを負っている。
前後して、治の妹の阿佐子が、17歳の娘の優子(高石あかり)を
無理やり家に預けにくる。
断りきれずに押し切られる治。
この優子もまた水商売で男から男へ渡り歩いている様子だ。
高校も行かずに、預けにくる途中にスーパーのアルバイトを
勝手に決めてしまう母の阿佐子。
身勝手で幼稚な姿が浮かぶ。
(満島ひかりが、17歳の子持ちを演じるのにも驚く)
この映画の一番の収穫は高石あかりだと思います。
「ベイビーわるきゅーれ」シリーズ以来、売れっ子で
オファーが絶えない・・・タイプは違うが河合優実なみの実力
と、今作で実感した。
底知れぬ何かを秘めている。
自堕落な面、
あどけない童女の顔と天性の魔性、
幾つもの顔を演じ分けるが、
蒼い沼のような寂しさが漂う姿は演技という言葉では言いあらわせない。
スーパーの先輩・立山(高橋文哉)との濡場も演じる。
優子は掴みどころがなくて、ふいにプイといなくなる猫のようだ。
治には心を許したらしく、
美しいシーンが3つある。
一つは、治に離婚届の印鑑を押させて、坂の階段下に待たせた立山と
連れ立って降りていく恵子に、声をかけるシーン。
二つ目は、日照りの空から、バケツをひっくり返すような、雨が
ようやく降って、
喜び、はしゃぐシーン。
三つ目は、長崎から今度はカナダへ行くと言う
「うまい話」で阿佐子が迎えにくる。
「叔父さんは私が守る」と啖呵を切ったのに、
身勝手な母親に簡単に母親に連れられてタクシーで去っていく。
なんとも切ないシーンなのに、
心は治の元に居たいはずなのに・・・
流れていく、流されていく、
(治に被っていた麦わら帽子を被せるシーン、
(17歳の娘の人生経験が・・・乗り越えてきた日々が
(伝わる…………名シーン、
☆優子はもしかして、難聴なのでは……
呼びかけられて振り向かないシーンが何度もある。
想像だが、暴力を受けて殴られて・・・
そんな気がする。
☆治は、優子と暮らすようになり、部屋も見違えるほどに片付く。
☆☆ハローワークにも出向いて、中華の店の下働き始める。
(ショッキングな出来事も起こる)
いつに無く嫌われ役の松たか子。
この戯曲に惚れ込み共同プロデューサーで主演のオダギリジョー。
舞台は見ていないが、会話劇が生き生きした人間の息吹きが伝われ
良い作品に生まれ変わった気がする。
オダギリジョーの存在が光る。
若い頃から独特な個性が好きだった。
恵の雨に打たれて生き返ったように、人も何度でも仕切り直しして、
晴れた空は清々しかった。
『夏の砂の上』が教えてくれた、アパレル経営の本質
映画『夏の砂の上』は、地方の銭湯を舞台にした静かな人間ドラマだが、経営者、特にアパレル業界で挑戦している自分にとっても深い示唆を与えてくれる作品だった。
銭湯という“古き良き文化”が時代の波に押され、存続の危機に直面する様は、まさに大量生産・大量消費の中で“本当に価値ある服”が見失われがちな現代のアパレル業界に重なる。目先のトレンドや売上ではなく、「誰に、なぜ届けるのか」という想いがなければ、ブランドは長く続かない。主人公が家業を継ぐか葛藤する姿は、事業を続ける意味や、自分のビジョンとの向き合い方そのものだった。
アパレルは“流行”を扱う業界だが、その根底には“人の生活に寄り添う”という本質があるはず。だからこそ、ただモノを売るのではなく、物語や価値観を纏ってもらえるかが重要だと、映画を通して改めて感じた。
『夏の砂の上』は、数字では測れない価値、そして“人と人との繋がり”の中で育つブランド力を思い出させてくれる。アパレルで挑戦するすべての人にとって、ブランディングや事業の軸を見直すヒントが詰まった一本だ。
高石あかりの体当たりの演技
昔の映画評なら間違いなくこう書くだろうけど、【ナミビアの砂漠】の河合優実の例に及ばず、『俳優のキャリアとしてまったく必要がないカット』なので、見ていて頭に来るやら腹が立つやら。その代わりと言ってはなんだけど、作中は息を呑むような推しの美しいクローズアップやミドルのショットだらけで「こんだけ愛してるならむしろマジであんな直接的な表現やらせんなよ!」と改めて思ったり(また腹立ってきた/森七菜とは鮮度が違う)。
ストーリー的にはまさにタイトル通りのカラカラに乾いた救いのない話なんだけど、悲しみの雨から始まって小さな救いの雨をクライマックスに持ってくるのは素敵だなと思ったし、なんなら雨の中ではしゃぐ優子に何故だか泣きそうになったし。これはなんか新しい感情の引き出され方だなと思った。ベビわるでもなんかこんなことあったからやはり高石あかり恐るべし。大好き。
あと違和感の塊の今どき勘違い大学生(仮面ライダーゼロワン!)に流されるように着いていく毒親に育てられた娘の悲しい感じは直近で見た【ルノワール】と共通の気持ち悪さと居心地の悪さでどちらもGJです。
こっから雑感。
セクシーダイナマイトが過ぎるオダジョー。クウガ25周年おめでとうございます。超クウガ展最高でした。さすが平成初代ライダー俳優。あなたがいなければその後のライダー俳優の道はなかったかもなのでライダー界の野茂英雄です。ありがとう。【ゆれる】の「もっと舌出せよ」からやられっぱなしです。でもプロデューサーとして「指は落とさんでもええっちゃろ」って言って欲しかったな。あ、やりたかったのか。
松さんは【ファーストキス】と打って変わって年相応で新鮮かつ残酷。直太郎は「こいつ絶対見たことあるけどだれだっけ?!」な既視感をエンドロールで回収する感じが面白かったな。満島ひかりは本当に声が良過ぎて驚く。目が覚める。
そんな感じ。駆け込みで行ったけど楽しめた。
あと、タバコがないと絵が持たない映画は良くないですよ。
舞台ではそんなことしないでしょ。猫に頼るのは許します。
それではハバナイスムービー!
結局、何を描きたかったのかが、よく分からない
いつまでたっても、何を描きたいのかがよく分からなかったのだが、終盤になって、男と、その姪の少女が、心を通わす物語だったのだということが分かってくる。
確かに、幼い息子を亡くし、妻とは別居して、職も失った男と、母親に捨てられ、バイト先の人間関係に馴染めず、彼氏ともうまくいかない姪とでは、不器用で、人付き合いが苦手なところがよく似ており、お互いに自分と同じ「匂い」を感じていたのだろうと思わせる。
ただ、それでも、姪が、男の妻に向かって「伯父さんの面倒は私が見る」と言い放ったり、久しぶりに雨が降って、2人で、たらいに溜めた雨水を飲み合ったりといった場面では、唐突感と脈略のなさを感じざるを得ないし、「どうしてそうなるの?」といった疑問も湧いてくる。(雨水を飲むのは、衛生面でも、よろしくないのではないか?)
もし、男と姪の絆のようなものを描きたかったのであれば、2人が、互いの心の距離を縮めていくようなエピソードを、もっときめ細かく、丁寧に描くべきだったと思えてならない。
むしろ、心に残ったのは、葬式の場で、男の後輩の妻が、男の妻と自分の夫が浮気をしているのを黙認している男を責める場面で、後輩の妻が徐々に感情を激化させていく様子を長回しで捉えたシーンは、篠原ゆき子の熱演もあって、見応えがあったと思う。
ただ、その後、男の妻が、葬式の手伝いに行こうとしている場面で、普通だったら、男は、彼女が、浮気相手の妻と鉢合わせしないように、葬式に行くのを止めようとすると思うのだが、彼女を押し倒して乱暴しようとしたことには、「いったい何を考えているのか」という疑問を抱かざるを得なかった。
男と姪が心を通わせたと思ったところで、姪が、母親と一緒にバンクーバーに旅立つというラストにも、「面倒を見るんじゃなかったいかい」と突っ込みを入れたくなる。
そうでなくても、左手の指を欠損した男には、身の回りの世話をしてくれる人が必要なはずなので、ここは、どう考えても、姪は、男と共に長崎に残るという展開にするべきだったのではないだろうか?
ようやくと作品のテーマが分かりかけたところで、最後の最後で、また、何を描きたかったのかが、分からなくなってしまった。
ローテーション
シーン変わりで人物の感情が変わる事が多く、え?と思う事がある?基本暗い話。というか最後もなんとも言えない終わり方。ただ、一つの物語として、映画としてはそこそこ面白かった。
髙石あかりはやっぱ狂人的なキャラの方が合ってるね。
⭐︎3.6 / 5.0
テーマ性は興味深かったけれど
【“長崎の暑い夏の日々、様々な鬱屈と哀しみを抱えて生きる人達の群像劇。”深い喪失からの僅かなる再生を感じさせる作品の雰囲気と共に、オダギリジョーの圧倒的な存在感に魅入られる作品でもある。】
■長崎の街で暮らす治(オダギリジョー)の元に、ある日妹(満島ひかり)が娘の優子(高石あかり)を連れてやってくる。
博多の中州で店を出す男に誘われたといって、優子を暫く預かってくれと言って。
5歳の息子アキオを豪雨の日に、長崎特有の斜面に立つ家の直ぐ傍を流れる側溝の濁流に呑み込まれ、その喪失感から、妻(松たか子)と別居し、定職にも付かずに生きている治。だが、治は優子を預かった事で、彼女の父親代わりとして生きようとするのであった。
◆感想
・今作は、松田正隆の戯曲が原作である事もあり、観る側に画面で映される事柄から、様々な事を推測させる。
例えば、冒頭の豪雨の中での長崎の傾斜地に立つ家々の傍の側溝を流れる濁流を映すシーン。その後、治の家の内部が映され、訪ねて来た妻が仏壇にお供えが出来ていないと治を詰るシーンで、この夫婦に何が起きたかが分かるのである。
・今作の共同プロデューサーも務めるオダギリジョーは、今作のような哀しみを抱きながら生きる男を演じさせたら、一級の俳優だと思っている。
私が、今作の治を見て思い出したのは、心の傷を抱えながら、職業訓練校で学ぶ男を彼が演じた、縊死した佐藤泰志の原作を山下敦弘監督が映画化した「オーバー・フェンス」である。あの映画も、喪失から再生して行く男を描いた映画であった。
・今作でも、直接的には描かれないが、造船の街長崎で溶接工として働いていた治が、”会社が倒産したのだろう”職場の仲間だった男(三石研)は、タクシー運転手として新たな生活を始めるも、ある日、仕事中に交通事故死する。その事も登場人物達の台詞で語られるのみである。
その葬儀の場で男の妻(篠原ゆき子)から”貴方は、奥さんとうちの夫の関係を知っていたんでしょう!”と激しく詰られるシーンは、凄い迫力である。治は情けない姿を晒すのみである。戯曲的なシーンでもある。
更に、治の後輩(森山直太朗)は治の妻と新たな生活をすると、治が務める様に成った中華料理店に来てその事を告げ、彼に土下座するのである。
そして、その後、治は豚の太い大腿骨をちゃんぽんスープの基にするために叩き割っている時に、指を三本切り落としてしまうのである・・。
・又、治が酔った時に亡き5歳の息子アキオの事を語り、慟哭するシーンはキツカッタけれども、治がずっと抱えて来た深い深い哀しみが漸く現れたシーンでもあった。妻には見せなかったが、優子が来たお陰で治の心が解放されたのだろうな、と思ったな。
・一方、母から預けられた優子もスーパーでバイトを始め、ナカナカ馴染めない中、徐々に恋人らしき男が出来たりするが、進展はしない。
彼女は、部屋の中の柱に付けられた治の息子の身長を刻んだ柱の傷を見つめるのである。
◼️そして、長い断水からの突然の土砂降りの突然の雨が降る中、優子は雨に濡れながら、笑顔で踊るように盥に水を貯め、治と共に水を飲むシーン。
”渇水からの、天からの水・・。”
今作を象徴するシーンだと思ったな。
<突然やって来た優子の存在が、心を閉ざしていた治の心を、ゆっくりと解いて行く様を、今作は文学調のタッチで描いて行くのである。
そして、優子は母と遠き国カナダへと旅立つのであるが、治の表情はどこか落ち着いており、二人がタクシーで出発した後に、坂の途中の小さな煙草屋でいつものように”今日も暑いね。”と言いながら、煙草を一箱買い、坂道をゆっくりと登って行くのである。
今作は、喪失からの僅かなる再生を感じさせる作品の雰囲気と共に、オダギリジョーの圧倒的な存在感に魅入られる作品でもある。>
上質作品、ここにありき!
一度見ただけでは理解がかなり困難な作品か。
今年152本目(合計1,693本目/今月(2025年7月度)1本目)。
今週、評価が分かれそうかな…といった印象があります。
作品のストーリーが追いにくいことが一つありますが、その理由が「方言関係」で、何を述べたいかかなりわかりづらい(実質的な長崎専用枠かなと思えるくらい)部分があり、また原作(いわゆる「舞台」「お芝居」というものの類の模様)には沿って作られているようですが、そこまで理解してみるのはそこそこ難しく、何度か見て6割理解できるかな…といったところです。
個人的には、物語の最初、および、途中でちらっと長崎の原爆投下について触れるシーンがありますが、それ以外では原爆投下や第二次世界大戦の日本について触れられることはないものの、テーマとして「雨や、水を求めるもの」という論点があることは映画から読み取れます。実は、長崎(と広島)は原爆投下時、広島に比べて長崎は川が多くあったため、原爆投下でやけどをした被害者が多数川に集まった事情があり(もちろん、原爆投下で水も大半が一瞬で蒸発してしまった)、このことはある程度原爆のことを知っていれば(広島・長崎出身ならわかるか)、実はここに結び付いているのかなという推測は働きますが、ここを読みとることは難しいのでは…と思います(かつ、おそらくそれが正解ではと思えるだけで、何が正解なのかも微妙)。
エンディングまで一直線で、最後まで見るといわゆるクレジット関係でいろいろと出てきますが(映画の趣旨的に、長崎県・長崎市は協力枠)、なぜか「法務担当」で行政書士の方が出てくるんですよね…。映画の趣旨的に行政法(広義の意味。行政に関する法を総称する語のこと)を扱った部分ってありましたっけ?確かに作品上、むしろ労働法(労働基準法など)が「やや」出てくる方向はありますが、それだと社労士枠のような気もしますし(ただ、それは一面の話であって、労働法規や労働に関する問題提起の映画ではない)、ちょっとここは資格持ちは「んん?」というところがあります。
実質的に1度見た場合はストーリーの展開を追うだけでかなり厳しく(方言関係。長崎出身やお隣の都道府県ほかを除くと結構厳しい)、2度3度見てなるほどね、という部分は多々あろうと思います。今週(7月1週)はなぜか競合が極端に多く(VHSビヨンドなど)、この作品がどこまで延ばせるか…というのは他作との関係になってくるのかな?という気がします。
評価に関しては以下まで考慮しています。
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(減点0.3/一度見ただけでは(方言関係で)理解をすることが難しい)
実質的に「長崎枠」という扱い(原爆関係は「直接的には」出てこないが、上記の考察のように解するなら「部分的には」出てくる)で、方言を理解できないとまず最初の鑑賞では詰むのではと思います。
(減点0.2/無権代理と労働基準法関係)
自分の子であっても、本人に無断で労働契約を(コンビニなどと)結んでも民法上無効であり、かつこの点は労基法に「親権者は未成年者に代わって労働契約を結んではいけない」という規定があるので、ここの部分は解釈が怪しいです。
(減点0.1/婚姻離婚の成立要件の配慮不足)
婚姻については双方の同意のほか、成人者2人の証言(実質は「確認」)を必要とします(民法)。離婚についても離婚のそれを準用しているので同じです。この部分の配慮がかけているように思えます(というより、この点は行政書士の方が監修しているなら突っ込まなかったのかという気がしますが。ただ、そのことは論点になっていないし、このことをテーマにする映画でもないので採点幅は限定的)。
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(減点なし?/「福山に行く」の意味)
作内で「福山に引っ越して仕事をすることになった」という話が出てきますが、「福山」という地名「自体」はどこにでもあるような一般的な地名である一方、身近に思いつくのは、やはり瀬戸内海に接する広島県福山市である一方(瀬戸内海に接する以上、造船業はある程度栄えている)、福山市らしきシーンは出てこず、「造船所で働く」というなら別に同じ広島県でも呉市等でも当てはまるところはありますし、「福山に行く」がどこを指しているのかも微妙です(ただ、このことは、その「福山」のシーンが出てこないことからどうであろうと理解に関係なく採点除外の扱い)。
(減点なし?/天体望遠鏡を持ち出すシーン)
作品自体が色々と「突飛なシーンが多い」のは先に書いた通りですが、突然天体望遠鏡を組み立てて「空を覗いてみよう」というシーンがあります(ただ、組み立てるだけで、実際に観測するシーンはない)。作品は夏なので、主に見える天体としてはベガやアルタイル等がありますが、それらを見ることに意味がなく(恒星を天体望遠鏡で見ても点にしか見えません)、しいていえばはくちょう座のアルビレオ(3等星。連星を持つことで知られる。「銀河鉄道の夜」など)が考えられますが、具体的な天体の話題にも発展しないので、ここも解釈が???になってしまいます。
カタルシスを味わえないので、覚悟して鑑賞して下さい
予告編を見て良い映画だと感じた。また、原作は戯曲で賞も取っているから、期待して鑑賞してみた。
残念ながら期待外れに終わり、映画好きならともかく一般の方には勧められない映画だった。
事故で幼い1人息子を亡くし、心に空洞ができ妻との関係がおかしくなった男と、親に見捨てられた未成年の姪っ子が同居生活を始め、心の穴を埋めていく物語だった。夏の猛暑で水道も止まってしまった長崎。突然の大雨で喜ぶ叔父と姪っ子。2人の心が交わり始める。ヤマ場はこれだけくらい。圧倒的なカタルシスを味わえない。というか、もともと人生とはそんなものだろう。そんなに何もかも上手く廻っていかないのが人生だ。戯曲はそこを評価されたのだろう。
本屋に原作があり立ち読みしていたら、原作の登場人物は4人だけ。映画だと情報があり過ぎて、戸惑ってしまう。舞台で鑑賞すると違っている感じがする。
オダギリジョー劇場ですね
オダギリジョーさん主演、プロデュースにも参加ということで、良くも悪くもオダギリジョーさんの色に染まった映画なんだろうなと・・・ 期待もそれなりというか、かっこ良くない人をかっこ良く演じる彼の姿が予想出来そうな感じでしたが、舞台が絵になる街、長崎なので、長崎の街の空気が、物語に、ちょっとスパイスのように効いていたら良いのになと思い、観に行きました。
でも、オダギリジョーさんの濃い個性の前には、長崎の坂の上に住んでいる住民の大変さみたいなスパイスも、あまり効き目はなかったように思います。舞台が、東京の下町でも大丈夫って思ってしまうほど、オダギリジョーさんの独断場です。
オダギリジョーさんが大好きな人には、たまらない映画かも・・・ それ以外の人は、ぜひ、共演の高石あかりさんの演技に期待してください。若いけど、存在感のある、いい女優さんです。
「積み上げない人生」を描く苦い味のフィルム
ストーリーの6割方はオダギリジョー演じる小浦の家の中で展開する。この辺りがいかにも戯曲っぽいのだが、面白いのは家は長崎の階段の上にあって、主役たちは(ということは役者たちは)えっちらおっちら階段を、生活するために、すったもんだするために(演じるために)登ってくる。それは小浦はもちろんそうだし、小浦の妻恵子(を演じる松たか子)も、小浦の姪優子(を演じる高石あかり)も同じである。一人、小浦の妹で優子の母阿佐子(を演じる満島ひかり)だけが階段を登るシーンがない。これは彼女だけが他の者たちと異なり彼女なりに前向きな人生を生きているからだろう。そう、舞台である小浦の家は、負け組が集まるところ、ただの負け犬ではなく、人生の方向性を見失い、流されるだけの日常を送っている者たちの住処なのである。
職がなく、妻にも逃げられ、かといって何らかのアクションを起こそうともしない自堕落な男を演じさせるとオダギリジョーはともかく上手い。一方で高石あかりという人はとても律義な真面目な女優さんなんだろう。一所懸命演じていることでキチンとしたところが出てきてしまっているのだが、おそらくはこの優子という人も、だらしなく流されやすい娘なのである。彼らの今の営みは夏の砂の上で演じる芝居のごとく崩れてかたちは残らない。
映画の最後の方に小浦が昔、事故で失った子供のことを「本当にいたかどうか定かではない」と恵子に述懐するところがある。過去の記憶は、そして愛も希望も、長崎の坂や階段を流れ落ちる雨水の如く流れ去ったのである。
最後に、小浦は心を通わすことになった姪にも去られてしまう。妻を、友人を、そして指まで失った小浦が坂の上から見上げる空は青い。夏の砂の上には何も積み上げられなかった。でも何故か小浦の(オダギリジョー)の顔は明るい。苦くてでも不思議に清々しいエンディングだった。
小さな希望、小さなお話し
玄人向けというか、舞台好きの人たちにはよい作品っぽいが、映画とした場合のカタルシスはやや薄め。
ほとんどのものを喪っていく男が、言い争いと不幸の連鎖の絶望の果てに、渇水中に雨で得た水のような小さな希望を見出し、「死ななくでもいいのかな」「生きていてもいいのかな」と気づく……
そんな「小さなお話し」でした。
描かれている土地が長崎なので、照り付ける日差しと、過去の増水と、造船不況による仕事を無くした人々の姿が、まるで原爆投下の後と重なり、令和の「戦後」を描いたようにも思えました。
「オダギリジョーが主演でプロデューサー兼務、上海の映画祭で好評、高石あかりちゃんも出てる」という以外、前情報なしに行きまして。
舞台映えしそうで、坂の上にある主人公の一軒家の中だけで完結する演出が可能だな、なんて思って劇場を出てからググったら、劇場舞台(戯曲)が原作と知ってやはりと納得。
心地よい長崎弁と蒸し暑い画面
作り置きの麦茶と1台の扇風機
前作『そばかす』で注目を集めた玉田真也監督。劇場で数回観た本作のトレーラーもいい雰囲気で、出演陣もなかなかに豪華な面々ですが、「果たしてどっちと出るか?」と半信半疑を楽しみながら、公開初日にTOHOシネマズ日本橋で鑑賞です。
舞台は長崎。水不足とうだるような暑さの中、坂や階段の多い道を歩いて移動するシーンが印象的な本作。冒頭、忌々し気に水路へタバコをポイ捨てする小浦治(オダギリジョー)もまた、汗に染みたTシャツ姿で弁当が入ったコンビニ袋を片手に、馴染みのタバコ屋で「暑いね」と挨拶を交わしながらいつものタバコを補充して帰宅します。勤めていた造船所が廃業し、無職の治は妻である恵子(松たか子)にも見放されて「あてのない人生」を過ごしています。ところが、久しぶりに顔を見せた妹の阿佐子(満島ひかり)から、「しばらく面倒見て」とまるで猫でも預けるように姪・優子(高石あかり)を託されて物語が始まります。
カンカン照りが続く長崎の夏。度々断水することもあり、エアコンの壊れた「治の家」は作り置きの麦茶と1台の扇風機が心の拠り所。いきなり始まった「叔父と姪」二人の同居生活ですが、お互いに口数も少ない上に生活リズムも違うため接点はあまり多くありません。ただ、他者との距離の取り方や醸し出されるアンニュイさなど、どこか似ていてバイブスが合う二人は、直接は干渉していなくてもどこかで気に掛け合っている雰囲気が伝わります。そして、いろいろあって積もり積もったものが溢れる後半、「捨てられた者」同士のやるせなさと行き場のない感情を、一気に冷まして洗い流すような雷雨のシーンは本作最大の見所。高石あかりさん、今、正に「売れ始めている」若手俳優のお一人ですが、実にいいムードをお持ちですので、今後も偏らずにいろいろな役を見てみたいと感じます。
また、周囲を固める俳優陣も皆素晴らしく、光石研さんや篠原ゆき子さんなど、限らたシーンにおける「絶妙なキャラクター描写」は流石の説得力で観ていて唸ります。中でも特に、ストーリーを展開させるための重要な役どころである「元同僚・陣野」を演じる森山直太朗さんの演技は意外なほどに素晴らしい。俳優活動は多くなく映画出演も数えるほどですが、今作では長崎弁を駆使しながら見事に陣野役を演じ切っておられます。
そして、長く演劇の世界で活躍されてきた玉田監督は流石、特定の状況設定(シチュエーション)を基盤に展開されるヒューマンドラマを描かせたらお手の物と感じさせ、時折見せるオフビートなユーモアも無駄なく効果的。作品性として劇場必須なわけではありませんが、少ない言葉数でも十分に伝わってくる見事なストーリーテリングと、温度感や空気感がアリアリと感じるような長崎の情景。そしてイメージ通りな生活感にリアルさを見る「治の家」の雰囲気など、他に気を散らす要素がない劇場だからこそ、作品に入り込んでそれらを感じ取れて浸れるような作品だと思います。嫌いじゃない一本。
雰囲気・・
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