夏の砂の上のレビュー・感想・評価
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上質作品、ここにありき!
見た後もシーンが目に残り、この余韻とともに最高の映画でした。このキャストの並びにも関わらずものすごい存在感を残している髙石あかりさんは本当にいい俳優さんだと思います。数々の賞レースを総なめにすることを心から祈っています。
一度見ただけでは理解がかなり困難な作品か。
今年152本目(合計1,693本目/今月(2025年7月度)1本目)。
今週、評価が分かれそうかな…といった印象があります。
作品のストーリーが追いにくいことが一つありますが、その理由が「方言関係」で、何を述べたいかかなりわかりづらい(実質的な長崎専用枠かなと思えるくらい)部分があり、また原作(いわゆる「舞台」「お芝居」というものの類の模様)には沿って作られているようですが、そこまで理解してみるのはそこそこ難しく、何度か見て6割理解できるかな…といったところです。
個人的には、物語の最初、および、途中でちらっと長崎の原爆投下について触れるシーンがありますが、それ以外では原爆投下や第二次世界大戦の日本について触れられることはないものの、テーマとして「雨や、水を求めるもの」という論点があることは映画から読み取れます。実は、長崎(と広島)は原爆投下時、広島に比べて長崎は川が多くあったため、原爆投下でやけどをした被害者が多数川に集まった事情があり(もちろん、原爆投下で水も大半が一瞬で蒸発してしまった)、このことはある程度原爆のことを知っていれば(広島・長崎出身ならわかるか)、実はここに結び付いているのかなという推測は働きますが、ここを読みとることは難しいのでは…と思います(かつ、おそらくそれが正解ではと思えるだけで、何が正解なのかも微妙)。
エンディングまで一直線で、最後まで見るといわゆるクレジット関係でいろいろと出てきますが(映画の趣旨的に、長崎県・長崎市は協力枠)、なぜか「法務担当」で行政書士の方が出てくるんですよね…。映画の趣旨的に行政法(広義の意味。行政に関する法を総称する語のこと)を扱った部分ってありましたっけ?確かに作品上、むしろ労働法(労働基準法など)が「やや」出てくる方向はありますが、それだと社労士枠のような気もしますし(ただ、それは一面の話であって、労働法規や労働に関する問題提起の映画ではない)、ちょっとここは資格持ちは「んん?」というところがあります。
実質的に1度見た場合はストーリーの展開を追うだけでかなり厳しく(方言関係。長崎出身やお隣の都道府県ほかを除くと結構厳しい)、2度3度見てなるほどね、という部分は多々あろうと思います。今週(7月1週)はなぜか競合が極端に多く(VHSビヨンドなど)、この作品がどこまで延ばせるか…というのは他作との関係になってくるのかな?という気がします。
評価に関しては以下まで考慮しています。
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(減点0.3/一度見ただけでは(方言関係で)理解をすることが難しい)
実質的に「長崎枠」という扱い(原爆関係は「直接的には」出てこないが、上記の考察のように解するなら「部分的には」出てくる)で、方言を理解できないとまず最初の鑑賞では詰むのではと思います。
(減点0.2/無権代理と労働基準法関係)
自分の子であっても、本人に無断で労働契約を(コンビニなどと)結んでも民法上無効であり、かつこの点は労基法に「親権者は未成年者に代わって労働契約を結んではいけない」という規定があるので、ここの部分は解釈が怪しいです。
(減点0.1/婚姻離婚の成立要件の配慮不足)
婚姻については双方の同意のほか、成人者2人の証言(実質は「確認」)を必要とします(民法)。離婚についても離婚のそれを準用しているので同じです。この部分の配慮がかけているように思えます(というより、この点は行政書士の方が監修しているなら突っ込まなかったのかという気がしますが。ただ、そのことは論点になっていないし、このことをテーマにする映画でもないので採点幅は限定的)。
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(減点なし?/「福山に行く」の意味)
作内で「福山に引っ越して仕事をすることになった」という話が出てきますが、「福山」という地名「自体」はどこにでもあるような一般的な地名である一方、身近に思いつくのは、やはり瀬戸内海に接する広島県福山市である一方(瀬戸内海に接する以上、造船業はある程度栄えている)、福山市らしきシーンは出てこず、「造船所で働く」というなら別に同じ広島県でも呉市等でも当てはまるところはありますし、「福山に行く」がどこを指しているのかも微妙です(ただ、このことは、その「福山」のシーンが出てこないことからどうであろうと理解に関係なく採点除外の扱い)。
(減点なし?/天体望遠鏡を持ち出すシーン)
作品自体が色々と「突飛なシーンが多い」のは先に書いた通りですが、突然天体望遠鏡を組み立てて「空を覗いてみよう」というシーンがあります(ただ、組み立てるだけで、実際に観測するシーンはない)。作品は夏なので、主に見える天体としてはベガやアルタイル等がありますが、それらを見ることに意味がなく(恒星を天体望遠鏡で見ても点にしか見えません)、しいていえばはくちょう座のアルビレオ(3等星。連星を持つことで知られる。「銀河鉄道の夜」など)が考えられますが、具体的な天体の話題にも発展しないので、ここも解釈が???になってしまいます。
カタルシスを味わえないので、覚悟して鑑賞して下さい
予告編を見て良い映画だと感じた。また、原作は戯曲で賞も取っているから、期待して鑑賞してみた。
残念ながら期待外れに終わり、映画好きならともかく一般の方には勧められない映画だった。
事故で幼い1人息子を亡くし、心に空洞ができ妻との関係がおかしくなった男と、親に見捨てられた未成年の姪っ子が同居生活を始め、心の穴を埋めていく物語だった。夏の猛暑で水道も止まってしまった長崎。突然の大雨で喜ぶ叔父と姪っ子。2人の心が交わり始める。ヤマ場はこれだけくらい。圧倒的なカタルシスを味わえない。というか、もともと人生とはそんなものだろう。そんなに何もかも上手く廻っていかないのが人生だ。戯曲はそこを評価されたのだろう。
本屋に原作があり立ち読みしていたら、原作の登場人物は4人だけ。映画だと情報があり過ぎて、戸惑ってしまう。舞台で鑑賞すると違っている感じがする。
オダギリジョー劇場ですね
オダギリジョーさん主演、プロデュースにも参加ということで、良くも悪くもオダギリジョーさんの色に染まった映画なんだろうなと・・・ 期待もそれなりというか、かっこ良くない人をかっこ良く演じる彼の姿が予想出来そうな感じでしたが、舞台が絵になる街、長崎なので、長崎の街の空気が、物語に、ちょっとスパイスのように効いていたら良いのになと思い、観に行きました。
でも、オダギリジョーさんの濃い個性の前には、長崎の坂の上に住んでいる住民の大変さみたいなスパイスも、あまり効き目はなかったように思います。舞台が、東京の下町でも大丈夫って思ってしまうほど、オダギリジョーさんの独断場です。
オダギリジョーさんが大好きな人には、たまらない映画かも・・・ それ以外の人は、ぜひ、共演の高石あかりさんの演技に期待してください。若いけど、存在感のある、いい女優さんです。
「積み上げない人生」を描く苦い味のフィルム
ストーリーの6割方はオダギリジョー演じる小浦の家の中で展開する。この辺りがいかにも戯曲っぽいのだが、面白いのは家は長崎の階段の上にあって、主役たちは(ということは役者たちは)えっちらおっちら階段を、生活するために、すったもんだするために(演じるために)登ってくる。それは小浦はもちろんそうだし、小浦の妻恵子(を演じる松たか子)も、小浦の姪優子(を演じる高石あかり)も同じである。一人、小浦の妹で優子の母阿佐子(を演じる満島ひかり)だけが階段を登るシーンがない。これは彼女だけが他の者たちと異なり彼女なりに前向きな人生を生きているからだろう。そう、舞台である小浦の家は、負け組が集まるところ、ただの負け犬ではなく、人生の方向性を見失い、流されるだけの日常を送っている者たちの住処なのである。
職がなく、妻にも逃げられ、かといって何らかのアクションを起こそうともしない自堕落な男を演じさせるとオダギリジョーはともかく上手い。一方で高石あかりという人はとても律義な真面目な女優さんなんだろう。一所懸命演じていることでキチンとしたところが出てきてしまっているのだが、おそらくはこの優子という人も、だらしなく流されやすい娘なのである。彼らの今の営みは夏の砂の上で演じる芝居のごとく崩れてかたちは残らない。
映画の最後の方に小浦が昔、事故で失った子供のことを「本当にいたかどうか定かではない」と恵子に述懐するところがある。過去の記憶は、そして愛も希望も、長崎の坂や階段を流れ落ちる雨水の如く流れ去ったのである。
最後に、小浦は心を通わすことになった姪にも去られてしまう。妻を、友人を、そして指まで失った小浦が坂の上から見上げる空は青い。夏の砂の上には何も積み上げられなかった。でも何故か小浦の(オダギリジョー)の顔は明るい。苦くてでも不思議に清々しいエンディングだった。
長崎弁と蒸し暑い画面
作り置きの麦茶と1台の扇風機
前作『そばかす』で注目を集めた玉田真也監督。劇場で数回観た本作のトレーラーもいい雰囲気で、出演陣もなかなかに豪華な面々ですが、「果たしてどっちと出るか?」と半信半疑を楽しみながら、公開初日にTOHOシネマズ日本橋で鑑賞です。
舞台は長崎。水不足とうだるような暑さの中、坂や階段の多い道を歩いて移動するシーンが印象的な本作。冒頭、忌々し気に水路へタバコをポイ捨てする小浦治(オダギリジョー)もまた、汗に染みたTシャツ姿で弁当が入ったコンビニ袋を片手に、馴染みのタバコ屋で「暑いね」と挨拶を交わしながらいつものタバコを補充して帰宅します。勤めていた造船所が廃業し、無職の治は妻である恵子(松たか子)にも見放されて「あてのない人生」を過ごしています。ところが、久しぶりに顔を見せた妹の阿佐子(満島ひかり)から、「しばらく面倒見て」とまるで猫でも預けるように姪・優子(高石あかり)を託されて物語が始まります。
カンカン照りが続く長崎の夏。度々断水することもあり、エアコンの壊れた「治の家」は作り置きの麦茶と1台の扇風機が心の拠り所。いきなり始まった「叔父と姪」二人の同居生活ですが、お互いに口数も少ない上に生活リズムも違うため接点はあまり多くありません。ただ、他者との距離の取り方や醸し出されるアンニュイさなど、どこか似ていてバイブスが合う二人は、直接は干渉していなくてもどこかで気に掛け合っている雰囲気が伝わります。そして、いろいろあって積もり積もったものが溢れる後半、「捨てられた者」同士のやるせなさと行き場のない感情を、一気に冷まして洗い流すような雷雨のシーンは本作最大の見所。高石あかりさん、今、正に「売れ始めている」若手俳優のお一人ですが、実にいいムードをお持ちですので、今後も偏らずにいろいろな役を見てみたいと感じます。
また、周囲を固める俳優陣も皆素晴らしく、光石研さんや篠原ゆき子さんなど、限らたシーンにおける「絶妙なキャラクター描写」は流石の説得力で観ていて唸ります。中でも特に、ストーリーを展開させるための重要な役どころである「元同僚・陣野」を演じる森山直太朗さんの演技は意外なほどに素晴らしい。俳優活動は多くなく映画出演も数えるほどですが、今作では長崎弁を駆使しながら見事に陣野役を演じ切っておられます。
そして、長く演劇の世界で活躍されてきた玉田監督は流石、特定の状況設定(シチュエーション)を基盤に展開されるヒューマンドラマを描かせたらお手の物と感じさせ、時折見せるオフビートなユーモアも無駄なく効果的。作品性として劇場必須なわけではありませんが、少ない言葉数でも十分に伝わってくる見事なストーリーテリングと、温度感や空気感がアリアリと感じるような長崎の情景。そしてイメージ通りな生活感にリアルさを見る「治の家」の雰囲気など、他に気を散らす要素がない劇場だからこそ、作品に入り込んでそれらを感じ取れて浸れるような作品だと思います。嫌いじゃない一本。
雰囲気・・
それでも生きていく…
左遷された人のお話
試写会で「夏の砂の上」を見せて頂きました。
本作品、人生で左遷されて希望もやる気も次にすがる気持ちのない人々の日常を描いた作品・・・・私にはそう感じました。
本来なら、この手の映画ってある意味「希望が見つかり」人生ってやり直しが利くんだ的な内容になるかともいますが、本作品、単に希望を失ってしまった人の日常を淡々と描いている作品です。ある意味、綺麗事で終らないというか・・・
主演にオダギリジョーであり、共同プロデューサーとして本作品に関わりを持っているので、脇で固めている俳優さんがある意味、地味ながら凄いかな・・・・なので、要所要所の演技には光るものを感じるかな・・・
左遷を受けた人間がこうして一カ所に集まってもどうにもならないというか・・・しかいs、本作品は決して綺麗事だけで終わらないので、私的には見ていて物凄く良かったかな・・・・
本作品、撮影場所の関係らしく、猫が要所要所で出て来る所に、自身にとって大変に良いと感じました。
しかし、オダギリジョーさんが役柄、煙草をスパスパ吸うシーンが多いので、昔煙草を吸っていた者としては、たまには吸いたくなるかな・・・
遅く生まれすぎた、不幸な作品。
松田正隆の戯曲を映画化。『愛』についての様々なホームドラマ的設定でのアプローチが静かに語られ、交錯して熟す。
オダギリジョーが製作もかんで、相当に入れ込んでいる映画のようだが、最もその映画内での佇まいに違和感を覚え続けたのがオダギリジョーだった。彼の持つ雰囲気というかオーラが、本作の主人公にマッチしていたのかという点だ。で、映画を観ているあいだに「この役は誰がにあうのだろうか」と想像し続けてしまった。原田芳雄?ショーケン?藤竜也?菅原文太?渥美清?。。。それぞれがこの役柄で個性を爆発させそうな役者をイメージしていた。藤竜也以外は故人ばかりで、比較してはいけないが、この作品が昭和で作られたら、より舞台が「長崎」であることの意味も残滓的にリアルに描かれていくのだろう。という「遅く生まれ過ぎた作品」への同情を持って、この作品を<感じた>。
長崎の街を主役に据えて
高低差が激しい街を貫く川と海は、時に命や生活を奪い、時に恵みの雨を齎すという、諸刃の剣のような「水」 が印象的な作品だった。
エンドロールまで観て、黒い雨のような歴史も一瞬頭をよぎった。(祐子の台詞で少し触れられている程度だが)
家族を喪う、断水で水不足になる等、水で苦しめられる描写がずっと続き、小さな界隈の息が詰まるような人間関係がどん詰まる中で、ラストの雨のシーンはもはや喜びや祝祭感すら感じてしまった。
高低差のある地理的条件の中で、ひたすら歩くしかなく、階段を上がって来る訪問者・下がって去っていく者という縦の描写も印象的。
その中で階段の上がり下がりを繰り返し彷徨う主人公の、まるで「糸の切れた凧」みたいな寄る辺無さみたいなものを表すのに、オダギリジョー氏はとても合っていたし、
更にタイプの違う空虚さのような、「空気が抜けていく風船」みたいな髙石あかりさんも良かった。
(個人的には松さん満島さんの共演は胸熱だった…カルテット以来ですからね)
私は舞台版を拝見しておらず、舞台を拝見した方からは、家のセットしか無かった舞台から物理的な広がりが出て、長崎の景色が実際に観られたのは良かったという話も聞きつつ、
なんとなく映画を観ていてもこれは戯曲原作である、舞台向きな作品だなとも感じて、おそらく舞台と映画それぞれの良さを活かした実写化になっているのではないかと思う。
ただ雨のシーンはやっぱり映像の方がリアルで良いんじゃないかな、と思いつつ、舞台化されることがあれば観てみたくなった。
また、原摩利彦さんの音楽が静かに寄り添っていて良かった。
特に映画の始まり方、ジリジリと灼けつく暑さと渇き、蝉が事切れている命の儚さ、長崎の街並みをゆったりじっくりと映しながらタイトルが出るまで、音楽と共に流れるように本作のテーマがきちんと提示されていて、こういう良質な日本映画がこれからも作られてほしいと思わず考えた。
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