「戯曲と舞台劇と映画と」夏の砂の上 島田庵さんの映画レビュー(感想・評価)
戯曲と舞台劇と映画と
原作戯曲既読。
舞台劇は見ていないので、脳内演出で読んだ。
戯曲の「場」は、治(オダギリジョー)の家だけ。
家の周りは、台詞から想像させるだけ。
映画はもちろん、家以外を映せる。
逆に、家以外も映さないといけない、とも言える。
そうしないと画面が退屈至極になるから。
となると、その移し替え(映し変え)がうまくいくかどうかが気になるんだが、
持田(光石研)の葬式をめぐる場面、会場と家を分けたのは、
間延びしちゃって上手くなかった。
* * *
原作者はハヤカワ演劇文庫のあとがきでこう述べている。
>場面に奥行きが生まれるとその劇はわかりやすい感じになるのだ。つまり、ちょっとドラマチックになる。それが、私には辛い。
だが映画は、ドラマチックな要素がないと辛いだろう。
だから声高に叫んだり取っ組み合ったりする演出をしていたわけなんだが、
そういうト書きもなかったと思うし、
少なくともワタクシの脳内演出はそうではなかった。
そこが、違和感。
ラストも、センチメンタル過ぎる。
あと、細かいことだが、
「葬式」の電話連絡が「昨日」というのはどうなのか。
「通夜」ならわかるけど。
とか、
優子(髙石あかり)「お醤油取って」
治「自分で取れ」からの、
取らせずお説教、そしたら優子が、残ったご飯をひとくち食べて食事終了、からっぽのご飯茶碗とおかずの皿を持って片づけ、
って、醤油かけるものないじゃん、
なんてことが気になった。
(何言ってるか分かるかなぁ……)
それから、優子が「川上さん」と呼ばれて返事しないことが多々あったのは、
苗字が変わって慣れてないから、ということが、
映画からは分からないのも気になった。
左手の指を切断しちゃうところは、
舞台だと語りと包帯だけで表せるけど、
映画ではその場面があるんだろうな、嫌だなぁ、と思っていたので、
治が包丁を使うたびに目をそらしてたんだが、
やっぱりそこ、カットしなかったのね……
* * *
読んだときは笑える要素のない戯曲だと思ってたけど、
実際しゃべってるのを見ると、
あ、もしかしてここ、うまく演出すると笑えるのかも、
と思うところはいくつかあって、
初演の際の平田オリザ演出はどうだったのかなぁ、
というのが気になっている。
>トミーさん
「私ね、つい、こないだまで西沢って名前だったから、川上! 川上! って言われてもわかんないのよ」っていう台詞が削られちゃってるんですよ。
あれじゃ、耳が悪いか性格が悪いか、としか思えませんよね。
あと、溶接と包丁は、勝手が違うでしょうね。
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