ルノワールのレビュー・感想・評価
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不確かなものを信じ、頼りにして生きる人たち
この映画ではさまざまなことを考えさせられました。そのうち「不確かなものを信じ、頼りにして生きる人たち」について、書いてみたいと思います。
超常現象、テレパシー、催眠術、祈り、手相占い、イミテーション、欺瞞などの不確かなものを信じる人たち。科学的に根拠が乏しいもの、まやかし、偽物、嘘、偽りなどをを信じ、あるいは、それを頼りに生きている人たち。その人たちにも、やがて、たしかな現実が現れます。その現実は、不確かなものを信じる人たちにとっては、必ずしも優しい現実ではなく、時として、厳しい現実となることもあります。それでも、人はその不確かなものを信じ、頼りにして生きています。
伝言ダイヤルで知り合った自称大学生、浮気相手の優しい表情と言葉、浮気の贖罪としての手相占い、家柄の良さそうな親友の家庭、健康食品、がんに効くという神の手道場、そして、バブルという時代背景そのもの。これらが、不確かなものとして挙げることができると思います。こういった不確かなものを頼りにして、人々は生きています。しかし、その後に現れる現実は、厳しいものであり、その現実には失望させられます。
この映画のタイトルである『ルノワール』についても、映画では不確かなものとして描かれていると思います。
映画では、主人公のフキはルノワールの『イレーヌ嬢』という肖像画に興味を示します。美少女『イレーヌ嬢』に、フキは少女としての理想像を見出したのかもしれません。ですが、フキが見た『イレーヌ嬢』は、芸術性がないレプリカ、不確かなイミテーション。
フキは、そのレプリカの絵画を父親に買ってもらいます。フキは、父親の生前はその絵画を病室に飾り、父親の死後は勉強机の横に飾ります。病室の『イレーヌ嬢』は、父親の回復を願うフキのささやかな思いの象徴のようです。勉強机の横に飾られた『イレーヌ嬢』は、フキにとって、亡くなった父親との絆と思い出を示す、シンボリックなものに感じます。言い換えれば、絵画はイミテーションであっても、フキにとっては、大切な父の闘病の証であり、父の愛情が詰まった大切な思い出の品ではないかと思います。
映画では、不確かなものを信じ、それを頼りにする人たちを、中立的に描いています。不確かなものを信じる人たちを、批判的ではなく、嘲笑的でもなく、憐憫的でもなく、「人はそういう不確かなものを信じながら、生きていくものです」と淡々と描いています。そして、このような描き方ができる早川監督に、「人間の尊さや人の営みの尊さ」と謙虚に向き合う姿勢を感じ取ることができると思います。
体調が万全でない中で見ると寝る
雰囲気は良かったと思います。
どのシーンも映像が美しかったです。
ただ、朝5時起きで1日暑い外で動き回っていた日、22時近い時間のレイトショーで観たのが完全に失敗でした。
ゆったり流れる静かな映像と映画館の暗闇、涼しさで、途中途中意識が飛びました…(>_<)寝不足で観ちゃいけない映画です。
ただ、そんな状態でも、ロリコン大学生が迫ってくるあの静かな気持ち悪さはすごくリアルでした。
昭和末期の家庭を覗き見するような怖さ
劇中に出てくる国鉄のカレンダーによれば舞台は1987年。途中、中学生が両親と祖母を殺害した事件(1988年)のニュースも出てくる。テストで平均点を下回ったらお小遣いナシという子育て方針の家だったとか。
そのような昭和末期の、「真面目を極めた末に正気を保てなくなっている」家庭が描かれる。リリー・フランキー演じる父は末期のがん。看病と家計のため孤軍奮闘する母を石田ひかりが演じている。この家庭のほころびを11歳のフキちゃん(鈴木唯さん)の視点で残酷に暴く。
このお母さんが印象的で、父の死を見越して葬式や喪服の準備までしている。「私は先のことまで考えているのよ」とフキに言い訳するが、必死であるがゆえにどこか空洞化してしまった価値観を体現しているようだ。
父の病室に部下が律義に訪れるけれど、後で「もう職場に帰ってこないだろう」と陰口を囁く。フキちゃんが習い事に通う英会話教室では丁寧なおもてなしが意地悪さを際立たせる。人間関係の儀礼がまだ生きていて、でも形骸化しているところがリアル。
しかし、残念ながら肝心のフキちゃんにキャラクターの核のようなものが感じられなかった。映画『こちらあみ子』のような奔放な個性でも、『夏の終わりに願うこと』『aftersun』のような父の死を予感する少女の感性でもない。ただ大人の痛々しさを暴く「眼」の役割だったのだろうか。
ラストでフキのテレパシーごっこにつきあう母。鋭敏な少女ではなく、老獪な母こそ、この映画を通じて成長した勝者だったかもしれない。
構成について、起承転結のはっきりした映画が見たいわけではないが、今作は「転」のあとにまた「承」が続くような場面が気になった。描く順序を変えても大差ないのでは、とも。何度か「ここで終わり?」と思いながら観てしまったのは、相性が合わなかったということだろう。
無題
まず、なぜ主人公フキはおかっぱあたまの大きめのシャツに半ズボンなのか。
最後まで理由が見えてこない。
80年代の思い出を連ねただけに見えてしまうシーンの連なり、
「死」に対しての、フキの、恐怖や不思議、興味などの話なのかと思いきや、その辺りは冒頭のみで、そのあとは薄らいでいくし、
子供から見た大人たちの不思議やおかしさ、その影響によるやりきれなさ、そして成長、という話でもない。
予告で使われていた大型客船のシーンも、予告用でしかない。
色々きつかったです。
そこはかとないユーモア
いつもの映画館 久々
祝日だけど月曜日なので会員サービスデーだと
監督の前作がよくて楽しみにしていた一作
上映が今日までだったので滑り込み
一言でいうと
背伸びしがちな小5の少女が
大人の世界に触れるという物語かと
で両親を含むその大人たちが
必ずしも善人ではない
で少女も決して純心無垢ではない
友達に父親の浮気の写真を見つけるようにしむける
オラが勝手に期待しているセオリーを裏切る
そういうところが監督の狙いなのかもしれない
今書いていて整理したらそういうことかと
ただ好みではない
なんだかエピソードがツギハギというか
あまり必然性を感じなくて
石田ひかりのエピソード
パワハラの研修に行ってどうしてそうなるのか
手相見のエピソードもうーん
河合優実のエピソードって何
冒頭シーンとつながっているのか
そもそも誰だっけ
心理学男のくだり
橋からオヤジが連れ帰る
現実と夢のシーンが整理されずに
出されるような居心地の悪さがいくつかあった
もう少し説明があってもいいような
前作と共通するそこはかとないユーモアは感じた
中島歩のシーンとか喪服のシーンとか
まぁ他の人のレビューを早く読みたい系だな
フロントライン でっちあげといい流れで来ていたが
小休止だな
終了後は炎天下の市役所前ベンチ
何とかギリギリ日陰を見つけた
缶ビール2本と自作弁当
どうやら猛暑日だったようだ
評判以上 子どもをうまく捉えていた
なんだか聞こえてくる口コミが悪く、見る気が失せていたのだが、観てよかった!
監督の撮りたいものが撮れた作品だと思う。
それに応えた役者さんたちも素晴らしい。
序盤から最後まで目が離せずのめり込めた。
なんだかんだ色々あるけど、自分にとって良い映画ってのはそういうとこが大事だと思ってる。
小5らしさ、死や悲しみへの疑問、好奇心、無邪気な悪気。かなりリアルに描かれていたと思うし、演じる相手へ投げかけるようなフキの視線もとても素晴らしかった。こちらへも投げかけられていたと思う。
映画というスクリーンでみる作品として頭一つ抜けている作品だと感じた。
河合優実さんとの共演シーン、恐ろしく完璧じゃなかったか?あのテンポ、空気感。他人と自分の境界。色んなものが詰まっていて痺れました。
スクリーンで観ることができて良かった。
個人的新人賞です。いいものみれたなー
フキの視点
人間として逃れられない
身内の死の現実を目の前にして
薄情にも滲み出てくる人間の本質の数々。
子供だが大人になりかけ、危うさも
ありつつ、どこか冷静。
あの相手を覗きこむ仕草と表情は
はっとする。
どう受け止めたら良いのか、処理すれば
良いのか、少女の一夏の経験が
凝縮している。
彼女の目線でフキの考え。
子供の頃の自分を思い出す
人間くささも感じる映画。
微かな幼少期のにおい
自分の話でもあるようでないような。でも、確かにあの時に感じた記憶を呼び戻す様な作品であった。
突然、何かを触りたくなったり、意地の悪い事をしてみたり、やってはいけないことをやってみたり。
大人の返事に、ハキハキと大きな声で答えたり。
大人の言う事を聞いてはいて、一見は意思疎通が取れている様に見えて、そこにはいないと言うなんとも危うい状態を見事に表現されていたと感じた。
自分も親として振り返ってみると、この映画で出てくる人物達の様に、本当に身勝手で自分のことしかつくづく考えていないなとこの映画観て思い直した。
(父、母、不倫相手、その妻、友達の親、同じ病室のばぁさん、アイツ!)
誰かの為などと言い訳ならべて、子供を自分の思い通りにしようとする姿。頭が痛かった。。。
子供を一人の人間であると捉えて接しよう、でないと寂しさの余りに一線を越えてしまうのかもしれない。ちゃんと、聞いて、見て、向き合おうと思えた作品でした。
最後、フキが少し成長した姿となり寂しい様な、でも母を見る目は子供の様な。カードの答えは合っていたのか合っていなかったのか。私は、カードの答えは合っていたのではないかと思う次第です。
手の中に冷たい感触が残るような物語
面白かったです。
私は好きな映画だな。
主役の女の子の鈴木唯さんの不気味な何を考えているのか分からない感じの抑えた演技が良い。それでも演出で、女の子の心中を感じられて、胸に鋭い痛みが走ります。
「伝言ダイヤル」(時代設定当時のアダルトツール。小中学生が使って犯罪に巻き込まれて社会問題になった)で知り合った「心理学に興味がある?」という学生と会うエピソードは、その象徴だと思いました。
末期癌の父親役のリリー・フランキーさんは、観る前はどうかな?と思っていたのだけれど、娘との心の奥底での繋がりを感じさせる演技で、とても良かったと思う。
石田ひかりさんは、あまり上手に感じられなくて、母親の人物像が表面的になってしまっていたと思います。(それは女の子の心象的な演出かもしれないけれど)
そのため、父親の死後の母子の関わりに深みを感じられなかったのは、私は残念でした。
子どもが抱える内面世界の不気味なリアリティーを最後まで感じさせてくれたお話しです。
不気味な光の中でお話しが進んでいって、手の中に冷たい感触が残るような物語。
ボーっとしてる様に見えて、ちゃんと子供は見てます。
長編2作目だが、さすがの完成度。
子供の視線、成長と上手く行ってない親や危険、、、最近よく眼にするテーマだが上手く見せたと思う。たいてい長回しの多用になりがちだがシークエンスをあまり引っ張らず次々見せていく。子供の頃って次々脈絡なく興味が移って行くし、どうでも良い些細な事に深く引き込まれたり、、、自分もそうだったなと思い出した。
話の軸になっているのは末期癌の父喪失までの過程で、子供って気持ちの表現方法がわからず淡々としてる様にも見えたりするのは自分も少しわかる。案外いろんな事考えてダメージうけてるのよ。
キャストも濃すぎず薄過ぎずいい塩梅だった。
主人公フキに中学生の兄がいたらとふと考えてしまう ある意味 一人っ子についての映画 早川千絵監督のドライなユーモアのセンスが光る傑作
よく「親は選べない」とか言いますが、子供時代の家庭環境を考えると「兄弟姉妹の配置とその中における自分のポジションは選べない」というのも、まあいろんな人がときには言いたくなるようなことだとは思います。この作品の主人公フキ(演: 鈴木唯)は一人っ子です。私は一人っ子ではありませんし、我が一族郎党を見渡しても3年以上一人っ子状態が続いた例は4親等内には一例もありませんので特に実例をよく知ってるわけではないのですが、一人っ子の友人はちらほらいますので、そこから推察するに、この映画内でのフキの言動は一人っ子の特徴を表しているようにも思えます。
この作品では父にリリー•フランキー、母に石田ひかりを配していますので、フキは両親が比較的高齢になってからできた子供であると言えます。また、母親が本作の舞台になっている’80年代後半には比較的珍しかった女性としての管理職に登用されていることから、キャリア志向が強かったとも推測され、この母親、比較的高齢であることも合わせてなかなか子育てにまでエネルギーが回らなかったことでしょう。年齢の離れた両親(友だちのちひろちゃんの家に遊びに行けば、ちひろちゃんも一人っ子みたいだけど、両親は自分のところより若い)、きょうだいはいない、学校が終わって家に帰ればカギっ子…… フキの家は生活に不自由してるようには見えないので(フキは英語塾に通わせてもらってます)、ネグレクトというには当たらないのですが、いわば、軽く精神的にネグレクトを受けている感じだったのかもしれません。フキは「みなしごになりたい」なんて作文を書いてたみたいですが、みなしごのような孤独を抱えているようにも見えます。
でも、フキは基本的に賢い子でそんな孤独をうまくあしらいながら生きていくコツを身につけてるようでもあります。口数はそんなに多くはないのですが、大人の顔色を読むのはそれなりにうまく社交的です。自分の父親が末期癌で死が近いのを知っていますが、父親がまだ諦めていないこと、母親がとっくに諦めてることも勘付いていて、父の回復を心から願っています。
でも…… この映画でのフキはなんだか人との縁が薄い子のように思えてきます。
そんなフキとその周辺を早川監督はちょっとドライなユーモアを交えながら淡々と描きます。私、実は『PLAN 75』を見逃してしまっていたので、早川監督はこれが初見だったのですが、この作品のそこかしこに散りばめられたユーモアには非常に好感を持ちました。爆笑というのではなくて、くすっ、にやりといった感じの笑い。こういうのって、日本映画ではなかなかお目にかかれないので貴重です。
ともあれ、フキは持ち前の好奇心の強さから、一人っ子、カギっ子ならではの危なっかしい冒険を経験することにもなりますが、なんとか切り抜けて、11歳小学5年生の夏が終わってゆきます。フキがお父さんの死について作文に書くのはいつになるのでしょうか。その作文を書いたとき、フキはまた大人への階段を一段登ったーーそんな気がします。
冒頭の言葉ですべてを語った?
「人が死ぬと、人は泣く。それは死んだ人がかわいそうだから泣くのか、自分がかわいそうだから泣くのか」
冒頭、そんな言葉(たぶんあっていると思います)で始まリました。
見終わって、やはりその言葉に帰着するのかなと思いました。
そして全編を通して、おとぎ話のような、フキの描いた物語の中の世界ように思えました。
父親(リリー・フランキー)の存在が曖昧に見えて、病院にいる父親も、フキと一緒に競馬に行ったりした父親も果たしてリアルだったのでしょうか。
少なくとも雨の中で座り込んでいるフキを迎えに来た父親は、フキの描いたモノの中の父親のような気がします。
宗教にハマって体操をしている父親も、母親とその事で喧嘩していたのもフキの想像の中なのかもしれません。
友人ちひろの家の話しも、男に連れ去られた話しも、フキの想像の世界の話し。
映画の中で描かれた現実は、フキと母親との2人でいるだけでいるシーンではないかなと思えました。
空虚をまとう“芸術風”への怒り
「ルノワール」という映画を私は全く評価しない。星一つすら与える価値を感じなかった。
最大の問題は、この映画が観客の知性や感性をまるで信頼していないことにある。題名は「ルノワール」。しかし、その名が意味する絵画的背景や人物像、芸術思想に踏み込む描写は極めて乏しく、ジャン・ルノワールの絵画を父の病室に飾る、ただそれだけに等しい。それは“ルノワール”という看板を借りた、まやかしのブランドにすぎない。
確かに、演出は一見「印象派的」だった。だが、そこに明確な意図や構造美があったとは到底言えない。無音とノイズを用いた場面転換は単調で、リズムの変化も読めてしまう。演出意図が透けて見えるほど浅く、むしろ想像力を萎えさせる。
物語も問題だらけだ。起承転結がなく、一貫性も欠けている。自由奔放な少女の心象世界を描くためにあえて構造を破壊したのだとしても、それが成立しているとは思えなかった。類似の構造を持つ作品「怪物」は、あどけなさや危うさを描きながらも、大衆映画としての体裁を保っていた。この映画はそれすら持たない。
終盤の“家出”が夢オチであるという演出も、明確な伏線や文法的示唆がなく、観客の理解に委ねすぎている。たまたま私には読み解けたが、同行した母は「どうやって帰ってきたの?」と私に尋ねた。そこに対し「夢オチなんだよ」と説明することはできたが、それは観客に課すには過酷すぎる読解の強要だった。
加えて、時代設定にも整合性がない。1980年代という設定の中で、「コンプライアンス」や「パワハラ」への言及が登場するのは、あまりにも安直な現代性の押し込みである。まるで時代に対する理解や敬意が感じられない。
私がこの映画に向ける怒りは、ただ「つまらなかった」というような感情的なものではない。
これは映画という形式に対する冒涜だ。
映画は芸術であっていい。しかし、同時に“娯楽”としての顔も持っている。観客がいてこその映画であり、独りよがりのオ○ニー作品を観客に強いることは、“映画”という形式そのものを裏切る行為である。
私はこの作品を見ている間、ひどい現代音楽のコンサートに閉じ込められたような、不快さを覚え続けた。形式に酔い、意味を殺し、感性を麻痺させるその手法は、もはや虚飾でしかなかった。
仮にこの映画が賞を受賞したとしても、私はその審査員やその賞の価値を疑わざるを得ない。なぜならこの作品は、賞を得るために“らしさ”を全振りした、空疎な模倣品にすぎないからだ。
「意味はなく、その時間を感じるだけの映画」──そう表現した自分の言葉が、最もこの映画の本質を言い表しているように思う。だが、その時間は私にとって、ただ無意味な苦痛でしかなかった。
鑑賞後、気になった事柄を色々調べたらいくつか合点がいきました
物語の舞台である、1987年頃の雰囲気をとても感じました。主人公はじめ登場人物の人々も、たしかにその頃実在していたのではないかというリアリティがありました。
トランプのカード当て、そのカードを当てる側の人が、なぜそのカードと回答したのか?
妙に気になったので調べてみたら、例えば主人公の母が答えたダイヤのクイーンは、野心や支配欲と言った意味を持つ場合もあるようです。知りませんでした。
他の人が答えたカードや、病室の窓に縛り付けたリボン等、私が理解できないだけで、色々な事柄やアイテムが意味を持つのかも知れません。
監督さんはじめスタッフさんの意図とは異なるのかも知れませんが、そういう点を自分なりにでも理解した上で、もう一回鑑賞したいと思いました。
ある意味もの凄くリアル
80年代の
小学5年生の女の子のお話
なんかずっと
微妙にイヤな気分で見てた。
テレビで超能力者を見て
超能力、催眠術を練習しだす主人公。
見てるこっちは
「そんなバカなことやってぇ」って
冷めてというか、否定的に見てるんだけど
その練習を一緒にやる友達。
大人も、一緒になってやる。
子どもの遊びに付き合う
って感じでなく、ちゃんとやる。
お母さんも
がんに効くと言われた
どう考えても怪しい食べ物を
大量に買ってくる。
お父さんと娘で
怪しい宗教団体みたいなのに
参加したり、
お父さんも
怪しいクスリを
100万で買おうとしたり。
誰も否定的に言う人がいないまま
どんどん物語は進んでく。
すごいモヤモヤが積もっていく。
イライラとは違うけど
嫌な気持ちがずっと続いてた。
最終的に
「なんてバカなことしてたんだろう」
って我に返るんなら
スッキリするんだけど、
ラストでも
超能力の練習してた。
嫌な気分で終える作品だった。
逆にむしろ、
なんも言えないのがリアル
なのかなぁと
見終わって結構たった今
思わなくもない。
好きな映画なので2度見たけど、娯楽作品としては面白くないと思う。
僕は、例えば「M:I」みたいなエンタメ作品でも出演者の日常生活や暮らしを描いた部分が好きで、飽きずにずっと見ていたいと思ったりする。もちろん日常生活だけで終わってしまったら「M:I」にならないし、娯楽作品として面白くも何ともない。て言うかダメである。
さて今回の「ルノワール」だが、主人公のフキ1 1歳のひと夏の体験が日記のように断片的に描かれる。何となくひと繋がりの物語が有るような無いような感じだ。
僕はこういう日常生活みたいのをずっと見てるのが好きだけど、物語として面白いかって聞かれると全然面白くない。もし2時間以上やってたら絶対眠くなる。
1987、8年頃に11才だった早川監督(1976年生まれ)の記憶や体験が、映画に反映されてるのだと思う。フキは自分の投影で、それを映画にしたのかもしれない。
カンヌのコンペティション部門に選ばれたということは、審査に通って賞レースに参加したって事らしい。審査員のほとんどは1980年代後半の日本の世相を知らないだろうから、いったい何が面白かったのだろう。きっと何か映画としての面白さや芸術性で選ばれたに違いない。僕にはサッパリ分からない。審査員には映画の時代背景の資料とかが配られるのかもしれない。
フキが周囲の大人たちとやり取りする中での表情が面白い。
一番面笑ったのが、英語塾の先生がフキに同情して抱きしめたときの戸惑ったような困ったような顔だ。
日本てハグとかの習慣ないから、親戚でもなく、週一ぐらいしか会わない先生に抱き締められても困るよねえ。ねー。
あと、ダイヤルQ2がらみのところは、さすがに犯罪に巻き込まれるところまでは行かないだろうとは思っていたが、ハラハラしたぜい。危っぶねー。
(追記訂正)
ダイヤルQ2ではなく、伝言ダイヤルが正しいみたいです。どっちも使ったことないからゴッチャになってました (/--)/
それから、ポスターにもなってる、最後の船の上で楽しそうに踊る場面が気に入った。フキの喜怒哀楽の表情がハッキリ分かる場面は一つもなかったような気がするが、ここだけは笑顔で楽しそうで良かった。この場面の意味は分からないけど (^^)。やっぱし夢の場面なのかな?
以上、おしまい。
2025(令7)/6/21㈯ A
6/25㈬ A
女優・鈴木唯
アートっぽい雰囲気で始まりちょっと期待してみたが
「やっぱり自分に合わない」と感じてしまった。
え、理不尽な殺人事件の被害者かよ?
え、お父さん大病で死んでしまうのかよ?
え、ご近所さんの旦那さん、事故で死んじゃったのかよ?
死に方のありがちな設定の全部載せ、ご苦労様です。
身内が事故で亡くなった日のことを話す未亡人の姿が
「○○の×が△△△△、と■■□□ない★は」の
あの人とまんま被って見えた。河合優実は好きだけど、
不幸な役ばっかりで新鮮味を感じなかった。
小学生の両親役の役者さん、年齢層高め。
怪しい大学生の家に上がって、これからどうなる?という時
まさかの家族の帰宅。しかし少女を連れ込んだことは
発覚しなかった。玄関に少女の靴はなかったのか?
いろいろと違和感がある映画だったけど、オーディションで
役を獲得したという鈴木唯の、いきなりの主演が見どころ。
約2時間の映画の主演女優としてほぼ出ずっぱり。
感受性や死生観が独特な少女の役を見事に演じきった。
物語が特別面白いと思わなかったし演出に感心することも
なかったのでもう一度観たいとは思わないが、逸材の
新人女優の初主演作品という価値で記憶には残ると思う。
口臭い・・・
今作で一番のパワーワード 多分、フキはこれを一生背負って生きなければならない・・・ これが一番の悲しい出来事だと思う※自分も母親にいつも言われていて、舌苔をこそげ落とす器具を誕生日にプレゼントされた(泣)
映像美はあるのだが…
・映像美はあるのだが…+αがない、あるいは物足りない。
映像・トピックの継ぎはぎ感、パッチワーク感が拭えない。
・シークエンスのつなぎに河原のシーン、鉄道のシーンが挿入されているが安易では?鵜飼?のシーンがあったが、外人の東洋趣味(オリエンタリズム)をくすぐるもの以上ではないのでは?
・なぜ、今“伝言ダイヤル”なのか…
・映画は、今起こりつつある事象、あるいはこれから起こりうる事象を先取りして取り扱うものである(たとえ時代設定が古くても)、と思うのだが、そのような事を感じさせることのない映画だった。
・幼女趣味の男にホイホイついて行ってしまう女の子はストーリーとしてオカシイし(たとえ夢の中の話だったとしても)よろしくない(カンヌ等世界的舞台では、尚更受け入れられないだろう)。
・YMOのライディーンは今聞いてもカッコイイ。大音量で聴けて良かった。ダンスも良かった。もっと長く見ていたかった…。
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