ルノワールのレビュー・感想・評価
全55件中、1~20件目を表示
ある種の問題をはらみながら、当時の時代を映した現在にも通じる秀作!
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作の映画『ルノワール』を大変面白く観て、秀作だと思われました。
今作の時代は1980年代後半であって、映画を観るにつれてその時代性は明らかになって行きます。
そして今作の特徴は、1980年代後半の時代背景もあり、エロスと死をオカルトで繋ぐ構成になっていたと思われます。
映画の中盤で、11歳の主人公・沖田フキ(鈴木唯さん)が知り合った、北久理子(河合優実さん)の夫が、幼児性愛にも通じるビデオ編集テープを持っていて、それを北久理子が追求したすぐ後に、鍵がかかったアパートの自宅へ、ベランダから入ろうとして誤って転落死したというエピソードが語られます。
また、映画の終盤では、伝言ダイヤルで知り合った明らかに少女性愛者と伝わる大学生・濱野薫(坂東龍汰さん)に危うい目に遭いかけます。
この、主人公・沖田フキが知り合った北久理子の夫が幼児性愛に通じるビデオテープを持っていてその後に転落死するエピソードも、主人公・沖田フキが伝言ダイアルで知り合った少女性愛者に危うい目に遭うシーンも、相当リスキーなエロス描写に思われながら、エロスと死にまつわる話がここで語られていたと思われます。
そして、このリスキーなエロス描写は、一方で、少女や女性が、男性からの病的で危険な性被害に常に晒されているとの、率直でリアルな表現だったとも言えます。
主人公・沖田フキの父・沖田圭司(リリー・フランキーさん)は、末期ガンで死に直面しています。
しかし主人公・沖田フキの母・沖田詩子(石田ひかりさん)は、夫の沖田圭司に対して殺伐とした対応しかしていません。
極めつけが、母・沖田詩子が、夫の死のために用意して掛けられていた喪服を、父・沖田圭司が見つけてしまう場面です。
ここでも終始、死にまつわる(ドライな)描写が続いています。
そして、これらのエロスと死を、オカルトで今作は繋いでいたと思われるのです。
夫の幼児性愛にも通じるビデオ編集テープを責め立て、夫を転落死で失った北久理子に対しても、主人公・沖田フキはオカルト儀式的な催眠術をしたりしています。
また主人公・沖田フキは、末期ガンで入院している父・沖田圭司の病床で、エスパーカード当てを楽しんでいました。
今作の映画『ルノワール』は、リスキーなエロス描写もありながら、死に対するドライな眼差しがあったと思われます。
だからこそ、心は満たされず、深淵に落ちる心情を、オカルト的な空気が救っていたとも思われるのです。
この1980年代後半の後に現実の日本では、バブルが崩壊し、オカルトブームはその後、オウム真理教によるサリンテロ事件によって事実上の終焉を迎えたと思われます。
その意味で今作は、その後の未来を暗示させる、不穏な(リスキーなエロス描写など)問題ある、しかしエロスと死をリアルに描いた秀作になっていたと、僭越思われました。
しかし一方で、現在でも心は満たされず、深淵に落ちる人々の心情は溢れていて、リスキーなエロスや、捨て置かれるドライな死に関する問題は、そこかしこに噴出しています。
そのリスキーなエロスとドライな死の、間を繋ぎ救う、当時のオカルトに変わる現在への解答が示された、(今作の早川千絵 監督・脚本の映画『PLAN 75』のように)現在の物語として描かれた作品であれば、傑作になったのに、との無い物ねだりも鑑賞後に個人的にはありました。
しかしながら、(こちらは両親の離婚という別の内容ですが)傑作・相米信二監督の映画『お引越し』とのオマージュも感じさせながら、問題内容もまとった秀作として、個人的にも面白く深く今作を鑑賞しました。
行き詰まる大人たちと、知恵にあふれた少女の物語ーー今後に大期待の監督誕生!
早川千絵監督の2作目となる最新作だ。公開から少し遅れて名画座での鑑賞となった。
75歳以上の国民に死を推奨する、というSF的な設定の前作「PLAN 75」は国際映画祭で高く評価されたそうだ。僕は未見だ。前作もできれば映画館で必ず観るつもりである。
最初の感想は「すごい映画作家が誕生した!」ということである。これから、続けて次の作品をとって欲しいと切望している。
原作ではなく監督自身によるオリジナル脚本とのことだから、早川監督の作家性が全面的に反映された作品なのだろう。
ネットで読める監督インタビューによると「今回は出来るだけ意味づけや説明から離れたところから映画を作ってみたいと思っていた」とのこと。本作の死の床にある父親という設定も、ご自身の体験でもあるとのことでもあるし、また80年代という設定も現在49歳の早川監督の少女時代である。
自身の体験を元に、自分でも言語化できないそこにあったものを、探求しながら描く純文学的な作品なのだと思う。
すぐにパッと手に取れる、わかりやすいメッセージがあるわけではなく感想も書きにくいのだけれど、じわじわと心の奥底を動かされる力のある映画だった。個人的な感想として、何がこの映画のパワーになっているのかを考えてみたい。
「うれしい、 楽しい、 寂しい、 怖い そして“哀しい”を知り、 少女は大人になる」ーーこれが、公式サイトでの本作の紹介である。「不完全な子供」から「より完成された大人」への〝成長物語〟という意味だと思う。
しかし、本作を見ていると、むしろ11歳の少女フキの方が、より統合されていて、大人達の方が、欠損を抱えて生きていることが見えてくる感じがした。
本作の大人たちは、この社会に適応し、自分の役割をこなして生活していくだけで精一杯である。役割に過剰適応して、自分を見失っている感じだ。
石田ひかり演じる母は、昇進したばかりのワーキングマザーだ。8男女雇用機会均等法以前に入社した世代だろう。当時は、総合職で就職する女性は相当少なかった。また結婚・出産後に働き続けるというのはさらに少なかった。
働き続けるだけでも大変なのに、彼女は昇進している。相当な努力が必要だったはずだ。フキが11歳になって子育て負担が軽くなってようやく実現した昇進で、遅れた昇進だという焦りもあったかもしれない。せっかく仕事に集中できると思ったら、夫が病気になってしまった。
彼女は〝優秀な社員〟という役割に相当な労力を払い、その人格が強くなっている。だから〝パートナー〟として夫への愛情や友情、〝母〟としてのフキへの愛情や家庭生活は、空虚になってしまっている。
〝優秀な社員〟である誇りが、部下への厳しい指導になって、受け入れられない降格につながってしまい、また、1人の女性として自己実現できていない感覚が、優しいだけの凡庸な男との不倫につながってしまう。
ギリギリ80年代の89年入社の僕の経験では、当時はこうした管理職女性は本当に少なかった。会社もまだ家族的で、鷹揚で面倒見のいい兄貴的な上司が多かった。むしろ雇用機会均等法組が、中間管理職になり始めた90年代後半以降に増えてきたタイプとして描かれているように感じた。成果主義や株式重視の経営が広がった時期で、現場に厳しく成果を求めるカルチャーが一気に広がった時代だった。
ただ、この映画のように、厳しい指導が問題とされるようになったのは、本当に最近、2010年以降ではないだろうか。80年代後半という設定だが、そこから現在に続く、働く女性の普遍的な課題を象徴させた人物なのだと思う。
リリー・フランキー演じる父も、母と同じく、会社人格に乗っ取られているようだった。彼は末期ガンであることをうまく受け入れられないようだ。だから、死の恐怖に対しても、調査して対策を考えるという〝業務上のトラブル〟のような対処をする。さらに空き時間には、ベッドで会社の書類を読み込んだりしている。死を受け入れられたら、妻やフキとの愛情を深めたり、川沿いの散歩で平凡だけど美しい自然に目を向けられたかもしれない。
そして、主人公のフキ。
11歳だから、彼女はまだ未熟である。世間的な知恵は、これから学んでいかねばならない。しかし、この映画の大人たちが、これまで学んできた〝世間的な人生への対処〟のせいで、かえって行き詰まっているのに比較して、フキの対処は知恵ある賢者のように見えた。
一見、フキは父の死を受け止めきれていないようにも見える。悲しいという感情も、自分では気づいておらず、英語教室のお姉さん教師が泣くから「ああ、こういう時は悲しいと思って泣くんだ」と教えられたような感じである。
しかし、身近な人が死ぬから悲しいというのは、世間的な型通りの対処でもある。親の死は悲劇で、それは悲しく辛いことーーこうして感情を、言葉と思考で整理することもできる。しかし、言葉にして整理することで、抜け落ちるものもたくさんある。フキは全身で全てを受け止めているようだ。
フキの対処は怪しくも思えるスピリチュアル的な方法だ。
父ではなく自分の死を夢で見て、それを作文にする。
占いか呪術のようなことをしたり、テレパシーで言葉にせず伝えることを試みる。
遠くのベランダでたたずむ女性の危うさを直感し、家に上がり込んで催眠術もどきで抑圧を解除してしまう。
川の堤防で夕陽を眺める場面は、宇宙の知恵と交信しているようでもある。
フキがやっていることは、偉大な心理学者ユングが個性化といった大きな知恵との接続を試みる方法(夢分析、曼荼羅、自由連想法)のようでもある。この映画の中でただ1人、落ち着いた成熟した対処ができているように見えたのは、世間的な役割や「こうするべき」という世間的な知恵に縛られていないからこそ、できることなのかもしれないとも感じさせられた。ベランダの女性も、そして父と母も、フキの知恵によって、かなり救われたのではないだろうか。
ただ一つの失敗は、伝言ダイヤルで信頼できる大人を探そうとしたことだった。大人なんか頼りにせず、自分の感覚を信じて進めば大丈夫ーーそう応援したくなった。
しかし、彼女も世間的な知恵を身につけた大人に、一度はならないといけないのが辛いところだ。そうした人生の課題をこなした後に、もう一度、11歳のときの感覚を思い出してほしい。
早川監督自身が、一度、就職や家庭生活や子育てといった世間的課題をこなしてから、再び知恵ある子供の世界を探求している、そんな映画なのかもしれないと思う。
色々な見方をして考えさせられる映画だ。この映画の前では、僕の見方も、個人的な一つの感想に過ぎないと思う。
エンターテイメントとしての映画では、登場人物の明確なキャラクター設定と動機が必要とされるけれど、揺れ動くし、自分で自分がわからないのがまた人間というものだ。
早川千絵さんは、人間のわからなさや、言葉にすると抜け落ちてしまう〝人の全体性みたいなもの〟を描くことができる稀有な映画作家だと、本作を見て感じた。
早川監督は、会社勤務を経て、大学で学び、子育てもされて、映画監督としては遅いスタートをされた方のようだ。これからたくさん作品を作って欲しいし、50代を人生の収穫の時代として謳歌してほしいと思った。
今後を応援したい注目の映画監督。日本を代表する映画作家として、さらに大きく飛躍することを期待している。
嫌いじゃないんだけど
ふわっとした作品は嫌いではないので観に行ってみたいなと思いふらっと拝見。
淡々としているのにどこかずっと不穏で、個人的には不安な時間が長くてしんどかった。
共感できる、あの年代ならではの残酷さと無鉄砲さ……なんだけど、いつか痛い目を見てしまうかもしれない、どうか立ち直れないほど悲しいことが起こりませんようにとずっと祈っていた。
人のものを勝手に触ったり、引き出しを開けたり、話を聞かなかったり、そんな電話しちゃダメだよとか、そんな形で知り合った人に会っちゃダメだよとか、そんな時間にひとりで外出ないで、なんて……心配性が発動しまくり。
平成一桁ガチクソババァ(ネットミーム)なので、色々と信じられなかった。
見た当初は、うん、悪くなかったと思ったはずなのに、見てから2ヶ月経ってレビューを書こうと思ったらそんなことしか浮かびませんでした。
でも、ゆるやかに成長はしていて、色んな人の色んな境遇や気持ちを実際に見て、知って、この子はどんどん大人になるんだろうなと、そういう救いで終わった気がして、絶望の話というわけではなかったかな。
わたしの修行が足りてないだけなんでしょうね(笑)
ひたすら暗い
相米慎二の『お引越し』みたいな映画かな?と思って見始めたら、ずっと宮台真司的な世界が描かれていて辛かった。子供の目線で大人の世界を描く映画はいくつもあるが、子供の無邪気さやその眼差しを通したありのままの世界のキラキラした様子と、大人の社会の苦悩や現実の対比が描かれているのが面白いところだけれど、これは子供のふりをした大人の眼差しといった様子で90年代のバブル崩壊後的な社会の歪みと陰が永遠と描かれている(設定的には80年代後半だが)
出てくる大人も基本的には皆んな嫌なやつで、主人公のフキもいい奴かと言うと微妙だし友達もほぼ出てこない。家でひとりぼっちで伝言ダイヤルに電話したりしている。これはきっと狙い通りで冒頭から自分のお葬式の空想から始まる所から、家庭の不安定さから離人症的になっていると推察される。
何処かで子供目線のユーモラスさなどを期待したが、ほぼそんな様子はなく本当にずっと暗い。基本的にフキが大人に出会い、その人たちの暗闇を見つめる構造になっているので会話のシーンばかりで映像に動きが無いのもシンドイ。舞台も田舎という訳ではなく、地方都市ぐらいの感じなので会話するシーンも狭く奥行きがない所がほとんどで画的にも面白くない。
唯一動きがあって面白い映像だと思ったシーンが伝言ダイヤルでロリコンぽい大学生に会いに行くシーンで狙ってやってるとしたら観客に何を思わせたいのか、感じさせたいのか甚だ疑問だった。
なので120分以上の上映時間も比較的苦痛で、いつ面白くなるのか、いつ終わるのかということばかりが頭にチラついてわざわざ劇場に観に来たことを後悔した。
不確かなものを信じ、頼りにして生きる人たち
この映画ではさまざまなことを考えさせられました。そのうち「不確かなものを信じ、頼りにして生きる人たち」について、書いてみたいと思います。
超常現象、テレパシー、催眠術、祈り、手相占い、イミテーション、欺瞞などの不確かなものを信じる人たち。科学的に根拠が乏しいもの、まやかし、偽物、嘘、偽りなどをを信じ、あるいは、それを頼りに生きている人たち。その人たちにも、やがて、たしかな現実が現れます。その現実は、不確かなものを信じる人たちにとっては、必ずしも優しい現実ではなく、時として、厳しい現実となることもあります。それでも、人はその不確かなものを信じ、頼りにして生きています。
伝言ダイヤルで知り合った自称大学生、浮気相手の優しい表情と言葉、浮気の贖罪としての手相占い、家柄の良さそうな親友の家庭、健康食品、がんに効くという神の手道場、そして、バブルという時代背景そのもの。これらが、不確かなものとして挙げることができると思います。こういった不確かなものを頼りにして、人々は生きています。しかし、その後に現れる現実は、厳しいものであり、その現実には失望させられます。
この映画のタイトルである『ルノワール』についても、映画では不確かなものとして描かれていると思います。
映画では、主人公のフキはルノワールの『イレーヌ嬢』という肖像画に興味を示します。美少女『イレーヌ嬢』に、フキは少女としての理想像を見出したのかもしれません。ですが、フキが見た『イレーヌ嬢』は、芸術性がないレプリカ、不確かなイミテーション。
フキは、そのレプリカの絵画を父親に買ってもらいます。フキは、父親の生前はその絵画を病室に飾り、父親の死後は勉強机の横に飾ります。病室の『イレーヌ嬢』は、父親の回復を願うフキのささやかな思いの象徴のようです。勉強机の横に飾られた『イレーヌ嬢』は、フキにとって、亡くなった父親との絆と思い出を示す、シンボリックなものに感じます。言い換えれば、絵画はイミテーションであっても、フキにとっては、大切な父の闘病の証であり、父の愛情が詰まった大切な思い出の品ではないかと思います。
映画では、不確かなものを信じ、それを頼りにする人たちを、中立的に描いています。不確かなものを信じる人たちを、批判的ではなく、嘲笑的でもなく、憐憫的でもなく、「人はそういう不確かなものを信じながら、生きていくものです」と淡々と描いています。そして、このような描き方ができる早川監督に、「人間の尊さや人の営みの尊さ」と謙虚に向き合う姿勢を感じ取ることができると思います。
体調が万全でない中で見ると寝る
雰囲気は良かったと思います。
どのシーンも映像が美しかったです。
ただ、朝5時起きで1日暑い外で動き回っていた日、22時近い時間のレイトショーで観たのが完全に失敗でした。
ゆったり流れる静かな映像と映画館の暗闇、涼しさで、途中途中意識が飛びました…(>_<)寝不足で観ちゃいけない映画です。
ただ、そんな状態でも、ロリコン大学生が迫ってくるあの静かな気持ち悪さはすごくリアルでした。
昭和末期の家庭を覗き見するような怖さ
劇中に出てくる国鉄のカレンダーによれば舞台は1987年。途中、中学生が両親と祖母を殺害した事件(1988年)のニュースも出てくる。テストで平均点を下回ったらお小遣いナシという子育て方針の家だったとか。
そのような昭和末期の、「真面目を極めた末に正気を保てなくなっている」家庭が描かれる。リリー・フランキー演じる父は末期のがん。看病と家計のため孤軍奮闘する母を石田ひかりが演じている。この家庭のほころびを11歳のフキちゃん(鈴木唯さん)の視点で残酷に暴く。
このお母さんが印象的で、父の死を見越して葬式や喪服の準備までしている。「私は先のことまで考えているのよ」とフキに言い訳するが、必死であるがゆえにどこか空洞化してしまった価値観を体現しているようだ。
父の病室に部下が律義に訪れるけれど、後で「もう職場に帰ってこないだろう」と陰口を囁く。フキちゃんが習い事に通う英会話教室では丁寧なおもてなしが意地悪さを際立たせる。人間関係の儀礼がまだ生きていて、でも形骸化しているところがリアル。
しかし、残念ながら肝心のフキちゃんにキャラクターの核のようなものが感じられなかった。映画『こちらあみ子』のような奔放な個性でも、『夏の終わりに願うこと』『aftersun』のような父の死を予感する少女の感性でもない。ただ大人の痛々しさを暴く「眼」の役割だったのだろうか。
ラストでフキのテレパシーごっこにつきあう母。鋭敏な少女ではなく、老獪な母こそ、この映画を通じて成長した勝者だったかもしれない。
構成について、起承転結のはっきりした映画が見たいわけではないが、今作は「転」のあとにまた「承」が続くような場面が気になった。描く順序を変えても大差ないのでは、とも。何度か「ここで終わり?」と思いながら観てしまったのは、相性が合わなかったということだろう。
無題
まず、なぜ主人公フキはおかっぱあたまの大きめのシャツに半ズボンなのか。
最後まで理由が見えてこない。
80年代の思い出を連ねただけに見えてしまうシーンの連なり、
「死」に対しての、フキの、恐怖や不思議、興味などの話なのかと思いきや、その辺りは冒頭のみで、そのあとは薄らいでいくし、
子供から見た大人たちの不思議やおかしさ、その影響によるやりきれなさ、そして成長、という話でもない。
予告で使われていた大型客船のシーンも、予告用でしかない。
色々きつかったです。
そこはかとないユーモア
いつもの映画館 久々
祝日だけど月曜日なので会員サービスデーだと
監督の前作がよくて楽しみにしていた一作
上映が今日までだったので滑り込み
一言でいうと
背伸びしがちな小5の少女が
大人の世界に触れるという物語かと
で両親を含むその大人たちが
必ずしも善人ではない
で少女も決して純心無垢ではない
友達に父親の浮気の写真を見つけるようにしむける
オラが勝手に期待しているセオリーを裏切る
そういうところが監督の狙いなのかもしれない
今書いていて整理したらそういうことかと
ただ好みではない
なんだかエピソードがツギハギというか
あまり必然性を感じなくて
石田ひかりのエピソード
パワハラの研修に行ってどうしてそうなるのか
手相見のエピソードもうーん
河合優実のエピソードって何
冒頭シーンとつながっているのか
そもそも誰だっけ
心理学男のくだり
橋からオヤジが連れ帰る
現実と夢のシーンが整理されずに
出されるような居心地の悪さがいくつかあった
もう少し説明があってもいいような
前作と共通するそこはかとないユーモアは感じた
中島歩のシーンとか喪服のシーンとか
まぁ他の人のレビューを早く読みたい系だな
フロントライン でっちあげといい流れで来ていたが
小休止だな
終了後は炎天下の市役所前ベンチ
何とかギリギリ日陰を見つけた
缶ビール2本と自作弁当
どうやら猛暑日だったようだ
評判以上 子どもをうまく捉えていた
なんだか聞こえてくる口コミが悪く、見る気が失せていたのだが、観てよかった!
監督の撮りたいものが撮れた作品だと思う。
それに応えた役者さんたちも素晴らしい。
序盤から最後まで目が離せずのめり込めた。
なんだかんだ色々あるけど、自分にとって良い映画ってのはそういうとこが大事だと思ってる。
小5らしさ、死や悲しみへの疑問、好奇心、無邪気な悪気。かなりリアルに描かれていたと思うし、演じる相手へ投げかけるようなフキの視線もとても素晴らしかった。こちらへも投げかけられていたと思う。
映画というスクリーンでみる作品として頭一つ抜けている作品だと感じた。
河合優実さんとの共演シーン、恐ろしく完璧じゃなかったか?あのテンポ、空気感。他人と自分の境界。色んなものが詰まっていて痺れました。
スクリーンで観ることができて良かった。
個人的新人賞です。いいものみれたなー
フキの視点
人間として逃れられない
身内の死の現実を目の前にして
薄情にも滲み出てくる人間の本質の数々。
子供だが大人になりかけ、危うさも
ありつつ、どこか冷静。
あの相手を覗きこむ仕草と表情は
はっとする。
どう受け止めたら良いのか、処理すれば
良いのか、少女の一夏の経験が
凝縮している。
彼女の目線でフキの考え。
子供の頃の自分を思い出す
人間くささも感じる映画。
微かな幼少期のにおい
自分の話でもあるようでないような。でも、確かにあの時に感じた記憶を呼び戻す様な作品であった。
突然、何かを触りたくなったり、意地の悪い事をしてみたり、やってはいけないことをやってみたり。
大人の返事に、ハキハキと大きな声で答えたり。
大人の言う事を聞いてはいて、一見は意思疎通が取れている様に見えて、そこにはいないと言うなんとも危うい状態を見事に表現されていたと感じた。
自分も親として振り返ってみると、この映画で出てくる人物達の様に、本当に身勝手で自分のことしかつくづく考えていないなとこの映画観て思い直した。
(父、母、不倫相手、その妻、友達の親、同じ病室のばぁさん、アイツ!)
誰かの為などと言い訳ならべて、子供を自分の思い通りにしようとする姿。頭が痛かった。。。
子供を一人の人間であると捉えて接しよう、でないと寂しさの余りに一線を越えてしまうのかもしれない。ちゃんと、聞いて、見て、向き合おうと思えた作品でした。
最後、フキが少し成長した姿となり寂しい様な、でも母を見る目は子供の様な。カードの答えは合っていたのか合っていなかったのか。私は、カードの答えは合っていたのではないかと思う次第です。
手の中に冷たい感触が残るような物語
面白かったです。
私は好きな映画だな。
主役の女の子の鈴木唯さんの不気味な何を考えているのか分からない感じの抑えた演技が良い。それでも演出で、女の子の心中を感じられて、胸に鋭い痛みが走ります。
「伝言ダイヤル」(時代設定当時のアダルトツール。小中学生が使って犯罪に巻き込まれて社会問題になった)で知り合った「心理学に興味がある?」という学生と会うエピソードは、その象徴だと思いました。
末期癌の父親役のリリー・フランキーさんは、観る前はどうかな?と思っていたのだけれど、娘との心の奥底での繋がりを感じさせる演技で、とても良かったと思う。
石田ひかりさんは、あまり上手に感じられなくて、母親の人物像が表面的になってしまっていたと思います。(それは女の子の心象的な演出かもしれないけれど)
そのため、父親の死後の母子の関わりに深みを感じられなかったのは、私は残念でした。
子どもが抱える内面世界の不気味なリアリティーを最後まで感じさせてくれたお話しです。
不気味な光の中でお話しが進んでいって、手の中に冷たい感触が残るような物語。
ボーっとしてる様に見えて、ちゃんと子供は見てます。
長編2作目だが、さすがの完成度。
子供の視線、成長と上手く行ってない親や危険、、、最近よく眼にするテーマだが上手く見せたと思う。たいてい長回しの多用になりがちだがシークエンスをあまり引っ張らず次々見せていく。子供の頃って次々脈絡なく興味が移って行くし、どうでも良い些細な事に深く引き込まれたり、、、自分もそうだったなと思い出した。
話の軸になっているのは末期癌の父喪失までの過程で、子供って気持ちの表現方法がわからず淡々としてる様にも見えたりするのは自分も少しわかる。案外いろんな事考えてダメージうけてるのよ。
キャストも濃すぎず薄過ぎずいい塩梅だった。
主人公フキに中学生の兄がいたらとふと考えてしまう ある意味 一人っ子についての映画 早川千絵監督のドライなユーモアのセンスが光る傑作
よく「親は選べない」とか言いますが、子供時代の家庭環境を考えると「兄弟姉妹の配置とその中における自分のポジションは選べない」というのも、まあいろんな人がときには言いたくなるようなことだとは思います。この作品の主人公フキ(演: 鈴木唯)は一人っ子です。私は一人っ子ではありませんし、我が一族郎党を見渡しても3年以上一人っ子状態が続いた例は4親等内には一例もありませんので特に実例をよく知ってるわけではないのですが、一人っ子の友人はちらほらいますので、そこから推察するに、この映画内でのフキの言動は一人っ子の特徴を表しているようにも思えます。
この作品では父にリリー•フランキー、母に石田ひかりを配していますので、フキは両親が比較的高齢になってからできた子供であると言えます。また、母親が本作の舞台になっている’80年代後半には比較的珍しかった女性としての管理職に登用されていることから、キャリア志向が強かったとも推測され、この母親、比較的高齢であることも合わせてなかなか子育てにまでエネルギーが回らなかったことでしょう。年齢の離れた両親(友だちのちひろちゃんの家に遊びに行けば、ちひろちゃんも一人っ子みたいだけど、両親は自分のところより若い)、きょうだいはいない、学校が終わって家に帰ればカギっ子…… フキの家は生活に不自由してるようには見えないので(フキは英語塾に通わせてもらってます)、ネグレクトというには当たらないのですが、いわば、軽く精神的にネグレクトを受けている感じだったのかもしれません。フキは「みなしごになりたい」なんて作文を書いてたみたいですが、みなしごのような孤独を抱えているようにも見えます。
でも、フキは基本的に賢い子でそんな孤独をうまくあしらいながら生きていくコツを身につけてるようでもあります。口数はそんなに多くはないのですが、大人の顔色を読むのはそれなりにうまく社交的です。自分の父親が末期癌で死が近いのを知っていますが、父親がまだ諦めていないこと、母親がとっくに諦めてることも勘付いていて、父の回復を心から願っています。
でも…… この映画でのフキはなんだか人との縁が薄い子のように思えてきます。
そんなフキとその周辺を早川監督はちょっとドライなユーモアを交えながら淡々と描きます。私、実は『PLAN 75』を見逃してしまっていたので、早川監督はこれが初見だったのですが、この作品のそこかしこに散りばめられたユーモアには非常に好感を持ちました。爆笑というのではなくて、くすっ、にやりといった感じの笑い。こういうのって、日本映画ではなかなかお目にかかれないので貴重です。
ともあれ、フキは持ち前の好奇心の強さから、一人っ子、カギっ子ならではの危なっかしい冒険を経験することにもなりますが、なんとか切り抜けて、11歳小学5年生の夏が終わってゆきます。フキがお父さんの死について作文に書くのはいつになるのでしょうか。その作文を書いたとき、フキはまた大人への階段を一段登ったーーそんな気がします。
冒頭の言葉ですべてを語った?
「人が死ぬと、人は泣く。それは死んだ人がかわいそうだから泣くのか、自分がかわいそうだから泣くのか」
冒頭、そんな言葉(たぶんあっていると思います)で始まリました。
見終わって、やはりその言葉に帰着するのかなと思いました。
そして全編を通して、おとぎ話のような、フキの描いた物語の中の世界ように思えました。
父親(リリー・フランキー)の存在が曖昧に見えて、病院にいる父親も、フキと一緒に競馬に行ったりした父親も果たしてリアルだったのでしょうか。
少なくとも雨の中で座り込んでいるフキを迎えに来た父親は、フキの描いたモノの中の父親のような気がします。
宗教にハマって体操をしている父親も、母親とその事で喧嘩していたのもフキの想像の中なのかもしれません。
友人ちひろの家の話しも、男に連れ去られた話しも、フキの想像の世界の話し。
映画の中で描かれた現実は、フキと母親との2人でいるだけでいるシーンではないかなと思えました。
鑑賞後、気になった事柄を色々調べたらいくつか合点がいきました
物語の舞台である、1987年頃の雰囲気をとても感じました。主人公はじめ登場人物の人々も、たしかにその頃実在していたのではないかというリアリティがありました。
トランプのカード当て、そのカードを当てる側の人が、なぜそのカードと回答したのか?
妙に気になったので調べてみたら、例えば主人公の母が答えたダイヤのクイーンは、野心や支配欲と言った意味を持つ場合もあるようです。知りませんでした。
他の人が答えたカードや、病室の窓に縛り付けたリボン等、私が理解できないだけで、色々な事柄やアイテムが意味を持つのかも知れません。
監督さんはじめスタッフさんの意図とは異なるのかも知れませんが、そういう点を自分なりにでも理解した上で、もう一回鑑賞したいと思いました。
ある意味もの凄くリアル
80年代の
小学5年生の女の子のお話
なんかずっと
微妙にイヤな気分で見てた。
テレビで超能力者を見て
超能力、催眠術を練習しだす主人公。
見てるこっちは
「そんなバカなことやってぇ」って
冷めてというか、否定的に見てるんだけど
その練習を一緒にやる友達。
大人も、一緒になってやる。
子どもの遊びに付き合う
って感じでなく、ちゃんとやる。
お母さんも
がんに効くと言われた
どう考えても怪しい食べ物を
大量に買ってくる。
お父さんと娘で
怪しい宗教団体みたいなのに
参加したり、
お父さんも
怪しいクスリを
100万で買おうとしたり。
誰も否定的に言う人がいないまま
どんどん物語は進んでく。
すごいモヤモヤが積もっていく。
イライラとは違うけど
嫌な気持ちがずっと続いてた。
最終的に
「なんてバカなことしてたんだろう」
って我に返るんなら
スッキリするんだけど、
ラストでも
超能力の練習してた。
嫌な気分で終える作品だった。
逆にむしろ、
なんも言えないのがリアル
なのかなぁと
見終わって結構たった今
思わなくもない。
好きな映画なので2度見たけど、娯楽作品としては面白くないと思う。
僕は、例えば「M:I」みたいなエンタメ作品でも出演者の日常生活や暮らしを描いた部分が好きで、飽きずにずっと見ていたいと思ったりする。もちろん日常生活だけで終わってしまったら「M:I」にならないし、娯楽作品として面白くも何ともない。て言うかダメである。
さて今回の「ルノワール」だが、主人公のフキ1 1歳のひと夏の体験が日記のように断片的に描かれる。何となくひと繋がりの物語が有るような無いような感じだ。
僕はこういう日常生活みたいのをずっと見てるのが好きだけど、物語として面白いかって聞かれると全然面白くない。もし2時間以上やってたら絶対眠くなる。
1987、8年頃に11才だった早川監督(1976年生まれ)の記憶や体験が、映画に反映されてるのだと思う。フキは自分の投影で、それを映画にしたのかもしれない。
カンヌのコンペティション部門に選ばれたということは、審査に通って賞レースに参加したって事らしい。審査員のほとんどは1980年代後半の日本の世相を知らないだろうから、いったい何が面白かったのだろう。きっと何か映画としての面白さや芸術性で選ばれたに違いない。僕にはサッパリ分からない。審査員には映画の時代背景の資料とかが配られるのかもしれない。
フキが周囲の大人たちとやり取りする中での表情が面白い。
一番面笑ったのが、英語塾の先生がフキに同情して抱きしめたときの戸惑ったような困ったような顔だ。
日本てハグとかの習慣ないから、親戚でもなく、週一ぐらいしか会わない先生に抱き締められても困るよねえ。ねー。
あと、ダイヤルQ2がらみのところは、さすがに犯罪に巻き込まれるところまでは行かないだろうとは思っていたが、ハラハラしたぜい。危っぶねー。
(追記訂正)
ダイヤルQ2ではなく、伝言ダイヤルが正しいみたいです。どっちも使ったことないからゴッチャになってました (/--)/
それから、ポスターにもなってる、最後の船の上で楽しそうに踊る場面が気に入った。フキの喜怒哀楽の表情がハッキリ分かる場面は一つもなかったような気がするが、ここだけは笑顔で楽しそうで良かった。この場面の意味は分からないけど (^^)。やっぱし夢の場面なのかな?
以上、おしまい。
2025(令7)/6/21㈯ A
6/25㈬ A
全55件中、1~20件目を表示










