ルノワールのレビュー・感想・評価
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少女が見つめていたもの
小学5年生の眼から観た大人と呼ばれる人間たちの行動はときに滑稽です。
不思議な事象を超能力と面白がったり、
小学生の書く作文に過剰に反応してみたり、
子どもの泣き顔を集めた動画を観賞してみたり、そんな夫との死別を淡々と受け止めてみたり、
素敵な家族として体裁を整えてみたり、
見えない何かを信仰してみたり、
電話で気の合う人を探してみたり、
懲りずに誰かを好きになってみたり。
たとえ、自分の親であっても理解に苦しむことがあります。
死を覚悟したような佇まいながら、仕事のことを考えながら病床を過ごしたり、何かにすがるように足掻く様子を見せたり。
そんな夫よりも仕事や段取りを優先させてみたり、その職場では言動を問題視されてみたり。
それでいて父母ともに、どこか奥深い場所で家族のことを考えていたり。
そんな大人たちが紡ぐ「社会」と呼ばれる環境を、少女はまっすぐに冷静に見つめながら上手に泳いでいきます。それは楽しんでいるようにも見えましたし、その眼はトランプの模様と数字を見透かすような眼差しでした。そして、どちらが大人なのか?と思えるような姿勢でした。
いろんな人間に出会い、多様な経験を積むことでたくましい大人になっていく未来が予想されるような締めくくりでした。
いつの時代の設定かとか気にならない空気感でしたが、途中YMOの「ライディーン」が流れた瞬間、小学校でこの曲をバックに行われた縄跳び大会が思い出されて一気に昭和に引き戻されました。
純粋、爽やか、冷徹に大人の価値観、固定観念を揺さぶる
タイトルの意図は不明だが、
映像が、光と影のコントラスト強く、やや粗めの質感も手伝って、
絵画的な見方、鑑賞の仕方を求められているようで面白い。
それは、全編にわたって一応の話の流れはあるけれど、セリフの無いシーンが多く、
観る人それぞれで心情を想像してくださいというようなスタンスからも感じた。
内容については、
子供の純粋な心、強い眼差しが、大人の矛盾や勝手な都合を冷徹に炙り出し、
生死も含めた固定観念や価値観に揺さぶりをかけてくるのが面白い。
物語の時代を数十年前に設定しているのは、
胡散臭い迷信や他人に依存してしまうそんな大人の弱さ、情けなさを強調する
キーアイテムが豊富なのが理由だろうか。
ラスト近くに女の子が手を振るシーンは、
まさしく相米監督の”お引越し”のオマージュのようで
少女の成長の暗示に対して、思わず”おめでとう”と言いたくなりました。
とてつもなく味わい深い作品
早川千絵監督による映画『ルノワール』は、1980年代の日本を舞台に、11歳の少女・フキのひと夏の体験を、繊細かつ静謐なタッチで描き出した傑作である。
とはいえ、この作品は単なる少女の成長譚ではない。物語は直線的な時系列で語られるのではなく、相米慎二監督の映画「お引越し」をはじめ様々な作品からの引用、断片的で印象的なカットの連なりによって進行する。そこに見られるのは、日本の80年代にさまざまな表現領域で取り入れられたポストモダン的アプローチ、すなわち脱構築的なサンプリング、カット&リミックスの手法だ。
ビデオテープ、ロリコン文化、超能力、狼男、怪しげな民間療法……。こうした時代の記号の羅列が濃密に織り込まれ、80年代という時代の空気が再現される。そしてその中に、言葉では語りえない感情や傷が、ひっそりと浮かび上がってくる。この手法は、ジャン=リュック・ゴダールが80年代に行った映画言語の解体と再構築にも呼応しているようにも思える。
なかでも特筆すべきは、フキの「抑圧された哀しみ」が、劇中で直接語られることがないという点だ。フキは語らない。だがその沈黙の豊かさを、早川監督は映像と音の配置によって丁寧に、精緻に語っていく。それは「物語」ではなく、「構造そのものが語ってしまう」という、極めて現代的で冷徹な視点がある。
それはまさに早川千絵という作家の映像表現の真骨頂である。
——と、ここまでやや理屈めいたことを書いてきたが、後半、あの雨のシーン以降、フキの喪失と愛と哀しみが、ぐっと押し寄せてきて、涙が止まらなくなった。
名場面が幾重にも折り重なる、宝石箱のような映像体験。ぜひ劇場で、味わってほしい。
タイトル回収って言葉知ってる?
少女の視点で日常の風景を描く
カンヌのときに話題になっていたので、「どんな作品?」と興味が湧いた。
200館弱の上映で、思ったほどの公開規模ではなかったので、「どこでもいつでも見れる」わけでは無かったが、観賞スケジュール調整最優先作品として観てみた。
【物語】
舞台は1980年代後半、ある夏の郊外の街。多感で想像力豊かな11歳の沖田フキ(鈴木唯)の日常が描かれる。
会社員の父親沖田圭司(リリー・フランキー)は会社でそこそこの地位まで来ていたが、現在はがんに侵され、入退院を繰り返し、本人、家族とも快方の希望を持てない状況で日々過ごしている。家計を支える母親詩子(石田ひかり)は、会社では部下の指導をパワハラ扱いされ、家庭でも仕事でもストレスを抱えていた。
ふきはそんな大人達に囲まれながらも、周囲に押し潰されることもなく、自分の世界を生きていた。
【感想】
思ってたのとはちょっと違った。
メリハリの利いた感動ストーリーを好む人は肩透かしかも知れない。俺も観る前はもう少し物語らしい物語がある作品かと思っていたのだが、日常描写系の作品だった。少女の身の回りで起きる様々なことは、直面する少女にとっては大事件も含まれるが、他人事として大人が見れば「良くある話」ばかりだ。
それらの出来事が少女の目にどう映り、少女がどう受け止めていくかを描いた作品と言っていい。 そういう意味で、フキの言動のリアリティーがポイントになって来るが、鈴木唯は子供が持つ、可愛らしさ、純粋さ、多感さ、小憎たらしさ、危なっかしさを好演している。 つまり、特別な少女ではなくて、どこにでもいる11歳の等身大の少女がそこにいた。
確かに話題になった鈴木唯の好演は認めることができ、出来の悪い作品とは思わないのだが、俺的には心動かされる作品ではなかったかな。
ちなみに題名のルノワールだが、ルノワール画の特徴をググってみたら、「鮮やかな色彩と軽やかな筆致で、人物や日常の風景を生き生きと描いた」と出て来た。なるほど、そういうところを目指したのかと、納得。
「ナミビアの砂漠」と「かぞかぞ」を足して水で割ったような
冒頭にゴミに出す為に紐で梱包された「FOCUS」と「FRIDAY」が登場して終わりの方で鵜飼いを映したシーンがあるので「FRIDAY」で刊行された昭和59年以降の岐阜が舞台なのは分かる。当時の小道具を集めるのは大変だったろうな、とは思った。登場したビデオがVHSだったので「ふてほど」で昭和61年の小川家にあるデッキみたい。ベータを使うのはSONYがスポンサーでないとダメなのだろうか?「カムカム」のように「ノストラダムスの大予言」を登場しなかったが主人公はオカルト番組のファンなのが当時らしい。それと郵便受けに入った伝言ダイアルのチラシを使うシーン。いいと思ったところはここだけ。
しかし内容は主人公の小5の女の子と両親(主に母親役の石田ひかり)との間で作品内の視点が何回も変わる上に抽象的で分かりにくいシーンが多過ぎる。これで河合優実との共演が8回目という中島歩の役どころが「ナミビアの砂漠」と同じ精神科のカウンセラーだ。石田ひかりの夫の訓覇圭プロデューサーが制作統括の1人だった「かぞかぞ」ではマルチの福地桃子と七実の亡父役の錦戸亮が登場するシーンも見ていて楽しいのに「かぞかぞ」くさいシーンが非常に陰気臭い。事務所が売り出したい女の子を「RoOT」の2人に加えて河合優実が出演した「17才の帝国」と「かぞかぞ」のプロデューサーの奥さんを組ませた映画に見える。
鈍牛倶楽部が制作に関わった映画でも河合優実が主演の「ナミビアの砂漠」は分かりにくいが許容範囲に入っても金子大地が所属するアミューズが制作して堀田真由が主人公の「バカ塗りの娘」のような鑑賞出来る映画を制作してほしい。
内容を知らずに見ると寝る羽目になります
”PLAN 75”の監督だから、なにか問題提起した作品だろうくらいの予備知識で観たら・・・あれれ
小六の女の子の日常と家庭の話がずーっと続いて終わった
ただの、思春期前の女の子が少しだけ成長しただけの作品でした
観客席からは、かなりの寝息が聞こえる
多分、同じように内容を知らずに来た人が多数だったんでしょう
日曜日の昼下がりの映画館、かなり人が入ってたんですがね
はい、知らずに入った自分も悪い
でも、この手の映画は数あれど、こんなにつまらないのは珍しい
理由を考えてみました
①女の子が子供すぎる
もう少し大人になりかけの色気がないと、思春期へのムンムンとしたオーラが出ない
足が長くて、これから肉が付いて女性になっていくんだろうけれど、この子はまだ子供
顔にも色気がない
カッパみたい
この体型なら、同じ子役出身の夏帆が子供だったらなあなんて、思いました
②子供が意外に残酷で合理的なのは、人生経験の無さから来るイメージの欠如です
実際、娘に聞いたら、お父さんより飼い猫が死ぬ方が悲しいんだと(笑)
今回は父親の死をきっかけに、布団の中で少し涙が出た
普段からいるはずの人が居なくなった寂しさくらい
つまり、ものすごく初歩的な感情の動き
とても、映画で語るような話しではありません
演技も下手なら、テーマもつまらなすぎる
演出も感動とは程遠い
だから、とーてもつまらない
③ご都合主義
監督が女性だから、残酷な結果を避けたんだろうけどね
都合よく危険をすり抜けて、めでたしめでたしでは、文科省の教育ドラマかっつーの
もっと傷付いてこその映画です
やってはいけない事をすれば、それなりの危険が伴い、フィクションだからこそ、その残酷さを見せる事ができるんです
それに、変態ロリコン男が坂東龍太って
ファンが怒りますよ
ついでにいうと、朝の連ドラで好感度を上げた中島歩が女癖の悪い男役ででてます
それに、なんなん?
何かと言うと不倫不倫
不倫出しときゃ、問題提起してるとおもってるのかな
同じパターン、2回出してるしね
監督の頭の中が単純すぎる
④今の日本状況を知らなさすぎる
日本は安全で、ほとんどの人がいい人だと思ってるんかな
甘々な人だ
問題提起するなら、そこなんだよ
外国人を悪くいうつもりは無いけど、今の日本は古き良き日本では無い
外国と思った方がいい
お父さんは女子トイレに入れないから、女の子をトイレにひとりで行かせれば、待ち構えた人さらいにトランクに放り込まれて誘拐される
学校にひとりで行かせられる時代ではなくなっている
家に鍵をかけないでもドロボウに入られない時代は終わりました
実際、そういう田舎の新興住宅地に住んでいるんですが、人を信用していてか、オープン外構ばかりです
心配なので、うちだけ柵をつけて門を付けましたが、そんな我が家で車のイモビライザーが鳴りました
盗難防止対策は必須ですが
5人組の強盗に押し込まれたら、日本家屋なんて、どこも対処出来ない
香港みたいに、ドアの前に鉄格子をつけないとくらせない時代がやってくる
外国人が法を犯しても、なぜか不起訴になるのは何故?
沖縄の米軍だけじゃないんですよ
なんて、理不尽な事がおこりまくっている
もちろん、父親が死んだ事に同調して、女の子を抱きしめる英語教師のような、いい影響もあるにはある
でも、日本にとって害のある風習だらけです
女の子が夜にフラフラ出回って何も無いのがおかしい時代です
ということで、この映画、なんなん?
となるのは当然ではないでしょうか
寝んかっただけマシでしょ
あ、エンディングの歌だけ良かった
あれ、誰のなんて歌かな
人生は一度きり
先を見るだけじゃなくて、今を楽しみましょうみたいな歌詞
この歌だけで、0.5ポイントアップです
永遠に色褪せない少女の絵には、フキなりの大人への抵抗が示されていたように感じた
2025.6.23 一部字幕 MOVIX京都
2025年の日本映画(122分、G)
父の死に直面する11歳の少女を描いた青春映画
監督&脚本は早川千絵
物語の舞台は、日本のとある地方都市(ロケ地は岐阜県岐阜市)
闘病中の父・圭司(リリー・フランキー)と、彼を支える母・詩子(石田ひかり)との間に生まれた11歳のフキ(鈴木唯)は、どこからか手に入れた「子どもたちが泣いているビデオ」を見ていた
見終えた彼女はそれをマンションのゴミ捨て場に捨てに行くものの、そこで不審に思える住人と遭遇した
その後、フキはその男に襲われて殺され、死んだことを実感していない彼女は自分の葬式を目のあたりにしてしまう
だが、一連のこの事柄はすべてフキの想像で、課題の作文だったことがわかる
彼女はこの作文以外にも「孤児になったら」という題名で作文を書き、担任の戸田先生(谷川昭一朗)を困らせていた
母も学校に呼ばれるものの「先生は暇なのかしら」と毒を吐き、「たかが作文じゃないの」と吐きすてた
その後、父の容態は悪化し、入院せざるを得なくなる
当時の日本では末期癌に対する治療は限定的で、父は海外の医療誌などを引っ張り出してきて主治医を困らせていた
ある日のこと、同じマンションの住人・北久里子(河合優実)と遭遇したフキは、彼女の部屋に入れてもらうことになった
フキは超能力とか催眠術に興味を持っていて、見様見真似で久里子に催眠術をかけていく
すると彼女は、夫が奇妙なビデオを隠し持っていたことを告白し、それを見つけて以降、夫を見る目が変わってしまったと告げた
また別のある日には、英語塾で一緒になったちひろ(高梨琴乃)の三つ編みに興味を示し、友だちになって、彼女の家に招かれることになった
ちひろの家は裕福なようで、母・梨花(西原亜希)はケーキを出してくるものの、父・淳(大塚ヒロタ)の無言の圧に苛まれ、ケーキを買い直しに出掛けてしまう
フキはこの夫婦に不穏なものを感じていたが、別の日にかくれんぼをしていた時に、大事にしてそうな箱の中から「別の女の人と一緒にいる父の写真」、「その女の人が赤ん坊を抱いている写真」などを見つけてしまう
フキはそれとなくちひろが見つけるように仕向け、それが原因かはわからないものの、彼女は遠くに引っ越すことになったのである
映画は、淡々と大人たちの裏の顔を知っていくフキが描かれ、父の死によって動いていく大人の世界というものを体感していく
母は早々に知人に葬式の相談をしているし、死んでもいないのに喪服を部屋に出していたりする
父の会社の同僚(中野英樹&佐々木詩音)も「もう復帰はできないだろう」と考えていた
さらに、母は研修先で出会った男・御前崎(中島歩)の妻・貴和(宮下今日子)が手がけている健康食品を大量に買い込んだり、占い師(天光眞弓)に「恋をしている」と言われて浮き足だったりもしていた
フキは超能力の本で得た知識で母と男を引き離そうと考え、ある術のようなものをかけていく
映画のタイトルは「ルノワール」で、これは劇中でフキが父のために買う絵画のレプリカのことで、購入したものは「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」と呼ばれるものだった
ルノワールの作風とか、彼にまつわることが映画と関連しているというふうに捉えがちだが、おそらくは「少女の絵」というところに意味があるのだと思う
この絵は「少女の絵」としては最も有名な作品で、ある伯爵の8歳の長女を描いたものだった
前述の変わりゆく大人たちとは対称的な存在であり、変わらないものとしてのメタファーであると思う
父から見れば「変わらないフキ」であり、フキから見れば「変わらない私」であり、父の死によって変わっていく大人たちへの抵抗にも思える
父の死後は彼女の家に絵が飾られることになるのだが、これは変わらぬ父のメタファーになるのだろう
あの絵を見るたびに思い出すのは、11歳だった時に過ごした父との時間であり、その思い出は色褪せることはない
そう言った想いをフキなりに表現したものが、あの少女の絵であり、直接的な意味を避けるために「ルノワール」というタイトルにしたのかな、と思った
いずれにせよ、少女期に感じたことがテーマになっていて、あの時期の彼女には「大人の感じているもの、発しているもの」を敏感に感じ取る力があったのだと思う
それによって、見たくない部分も見てしまうことになり、いずれは自分が身につけてしまう大人の事情というものを先取りしているようにも見えた
あの絵があることで、フキなりに抵抗を見せていたことがわかるのだが、いずれはそう言ったものも変わってしまうのだろう
でも、父が存命中に動き出す必要はないので、いささか心が離れているとしても拙速に思えたのだろう
そう言った感覚が当時の監督にあって、それを印象的な映像に作り込んだのかな、と感じた
かなりふわっとした映画
ちょっと期待し過ぎたのはカンヌコンペ作品だからだろう。予告編から相米慎二の『お引越し』味があちこちにみえたが、『こちらあみ子』の森井監督もそうだけどこの世代への圧倒的な影響力を感じつつ、早川監督としては前作『PLAN75』からまた大きく舵を切ってきたなあとある意味期待もあった。
『こちらあみ子』に比べても思ったよりスケッチ映画で、そのスケッチの一部分の、特に浦田秀穂の被写体に迫っていくところのカメラやロケ地の抜けの景色の良さがかなり魅力的ではあるものの、それが一向に連続性を持ったカタルシスに向かっていかない。どう繋がるかと思って前半観ていたら、ああこれはスケッチで終わらせるんだな、と思い、淡さの良さは感じつつ、映画としては物足りない。かつ描かれているエピソードのひとつひとつがかなり弱い。弱いのでスケッチにするしかなかったのではという気もしてくる。
おそらく監督の幼年期を彩る超能力番組、キャンプとYMO、テレクラ、両親の関係、すべてがゆらゆらとして不安で心をどこに置いていいかわからない感覚のエピソードがほぼ単発。そしてそれらがだいたい淡いというより薄い。そして面白みがない。主人公もいい子でも悪童でもない。主要登場人物はみんな両面がある。それはいいのだけどだからどうなんだ、というところに向かないふわっとした映画だった。が、『PLAN75』よりはいい。
実験してみる世代
2025年。早川千絵監督。小学校5年生の感受性鋭い少女が、末期がんを患う父、キャリア志向の母、できたりできなかったりする友人、などと触れながら、表面的ではない彼らの本心を見抜いたり挑発したりして大人になっていく、奇跡のようなひと夏の話。
少女は催眠術や透視術にはまり、父親が新興宗教的なものにはまっているあたりに時代感覚が現れている。80年代後半の時代設定は見ているうちになんとなくわかってくるが、監督自身の世代と同じようだ。笠松競馬場が出てくるから岐阜県なのだろうが、だとするとあの印象的な川は長良川か木曽川か。
しかし、重要なことは時代や地域ではなく、少女が催眠術や透視術のテレビや本にはまったときに、自分でやらずにいられないことの方だ。伝言ダイヤルの番号を知ったら電話をかけずにいられないし、同年代の少女の三つ編みが気になったらその髪に触らずにはいられないし、友人の父の浮気写真を見つけたらそれを友人に見つけさせずにはいられない。そして、その危険と隣り合わせの好奇心によって、少女は人間の奥深さを知り、あやうく少女趣味の浪人生の餌食になりかけ、友人ができ、その友人が遠くに引っ越していくきかっけをつくることになる。死期が近い父親に向ける視線も、悲しみよりも好奇心の方が強く、その視線によって、表面的な情緒的関係とは別の関係(透視術の成功)を父親との間に築いている。そしてどうやら母親とはそうした関係にはならないらしい。好奇心旺盛な実験精神によって世界と触れ合っていく少女のあやういひと夏を見事に形象化している作品。
ルノワールは画家の父親の方を指すと作品内で言及されているが、息子の映画監督の方を意識していないわけがないと思わせる広々とした端正な画面と落ち着いた展開。
どこか曖昧な掴みどころのなさが残る
あの時代の空気 The Air of That Era
映画の背景に妙な既視感があった。
観賞後、パンフレットを確認したら
主人公の女の子、設定上は同い年。
1980年に11歳。
2025年には56歳。
映画で描かれた、
あの時代は限りなくリアルだった。
人と人の間には、
距離の長さと
時間の長さがあり、
一人になる時間があった。
遠く離れて繋がる術は
固定電話だけだったので、
離れる時間は
文字通り離れていた。
その間に、
誰かと会い、経験を積んでいく。
その間にあったことは、
本人が言わない限り誰も知らない。
自分にとっても昔にあたる映像を観て、
確かにそうだったなあと思ったのだ。
本人しか知らないこがあるのは
実はとても大切なのかもしれない。
それゆえに、その時間経過で、
主人公の女の子の変化して行く様が
自然に映った。
もちろん彼女の周りの親たちなどの
大人の変化も。
逆に今の時代は良くも悪くも
こんなふうにゆっくり変化することを
許容しないし、
それが出来ないなと思ってしまった。
だから監督は、この時代を選んだろうか?
距離を超えて瞬時に繋がれる
今のこの時代、本当に幸せなのか
改めて考えてしまった。
There was a strange sense of déjà vu in the film’s backdrop.
After the screening, I looked at the pamphlet and found that the girl in the story was, by setting, the same age as me—
11 years old in 1980.
She would be 56 in 2025.
The era depicted in the film felt uncannily real.
Back then, between people,
there was both physical distance
and the passage of time.
There was time to be alone.
The only way to stay in touch over long distances
was by landline,
so being apart
truly meant being apart.
During that time apart,
you would meet others, gain experiences.
And what happened in that time—
no one would ever know unless you chose to tell.
Watching images of what is now my own past,
I realized—yes, that’s exactly how it was.
Having things known only to yourself
might actually be something very important.
That’s why the girl's gradual changes over time
felt so natural.
So did the changes in the adults around her—
like her parents.
In contrast, today’s world, for better or worse,
doesn’t seem to allow for that kind of slow transformation.
Or maybe we’re no longer capable of it.
Perhaps that’s why the director chose this era.
In today’s world, where we can connect instantly across any distance—
are we truly happier?
The film made me stop and think again.
日常的なテーマと大胆な筆致
夢に見た情景を作文にしクラスで発表する。
達者なモチーフと表現力は教師も激賞するほどだが、
鑑賞者には現実なのか夢想なのかもわからない。
冒頭のシークエンスで数回繰り返され、
以降は、はてこれは本当に起きたことだろうかと
観ている側は疑心暗鬼に陥る。
突然喀血した父は末期癌と診断され
余命いくばくもない。
母親は怪しげな療法に頼り、
奇跡的な回復を願いつつも
諦念にも似た思いが一方に有る。
父親に懐く娘は、
母親の態度が受け入れられない。
少女のひと夏の成長譚。
綺麗なものには触れたくなるし、
好奇心は旺盛で、
初めて訪れた場所でも
あら捜しをするのを欠かさない。
見つけたものと起こした行動が、
結果後々の禍の種になっても、
彼女は後悔しているのかいないのか。
表情からは何ら読み取ることはできない。
無邪気さは併存する。
オカルトや超常現象に興味を持ち、
キャンプファイヤーでは『YMO』の〔ライディーン(1980年)〕で踊りまくる。
ああ、自分たちの頃にも
こうしたことはあったなと、懐かしさはある反面、
囲む社会には不穏さも。
世間知らずと無謀さが窮地を招くことはある。
それでも最悪の事態にならぬのは、
脚本/監督の『早川千絵』の主人公に対しての優しい眼差し。
それぞれのエピソードは
自身の体験を膨らませたものだからだろう。
本作のタイトルは、
最初は父親の病室に、
やがては
少女の部屋に飾られた『ルノワール』による
〔イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)〕の複製画から。
描かれた八歳の少女の肖像画は、
今では世界中で愛される一枚と言われている。
が、依頼した両親は、
この画を気に入らなかったと聞く。
それは今までの画家の描き方と
相当に異なっていたから。
{印象派}の特徴は(AIの纏めによると)、
光と色彩、そして一瞬の印象を捉えることを重視した画風。
風景や日常生活を明るい色彩と大胆な筆致で描いた、と
書かれている。
それはこの映画にも当てはまる。
色彩は鮮やかで、エピソードの一つ一つは静かに流れるもののいずれも印象的、
加えて記憶に残る。
各々は独立していても、
総覧した時に一人の少女のキャラクターが立ち上がる。
ただ、幾つもの素行から、
彼女を好きになるかどうかが、
評価の分かれ目なのだが。
『スーラ』の{点描}が
ある程度の距離を置かないと
何が描かれているのかも判然としないのと同様、
本作でも個人に寄り添い過ぎて
もやっとした作品に感じることは否めない。
ハートの5
海外ではウケるのだろうが刺さらない
【今作は、一人の少女が様々な死の匂いに触れ、命の尊さをぼんやりと感じながらも、ルノワールの如く周囲の大人たちの表情を捉えながら、悲しみを静かに乗り越え新しき生を踏み出す姿を描いた作品である。】
■11歳の少女フキ(鈴木唯)は、末期がんの父(リリー・フランキー)と、看病と仕事に追われる母(石田ヒカル)と暮らしている。
フキは、父の死が近い事を何となく感じているのか、自分が首を絞め殺され自分の葬式の夢を見たりする夢想的な少女である。彼女は夫を自殺で亡くした女(河合優実)に催眠術を掛け、夫の死の話を聴いたりもする。
更に彼女は、仲の良い友達の父母の仲が破綻している事や、母のストレスなども感じている。そして、ある日、出会い系の電話で出会った青年(坂東龍汰)の家に行ったりもするのである。
◆感想
・一番印象的なのは、少女フキを演じた鈴木唯の不思議な存在感である。死に対する興味を持ち、冷静に周囲の大人の言動を大きな目で観察しているし、時には大胆な行動にもでるのである。
が、それが自然に見えるのだなあ。
・母は、ストレスからか自覚無き同僚教師へのパワハラにより行かされた研修の講師(中島歩)と、ファミリーレストランでのカスハラを行いながら、近しくなっていく姿と講師の顔を興味深そうにじっと見ている。
・フキは、人一倍感受性が豊かな女の子なのだろうな。だがその態度はどこか飄々としている。そして言うのである。”人が死ぬと、どうして哀しいの?”
そして、フキは思うのである。”大人って、完璧な人なんていないじゃん。お父さんだって、病気に付け込まれて100万円、騙し取られるし・・。”
けれども、彼女はそんな大人達を馬鹿にするわけではなく、只、彼らの表情を見ているのである。ルノワールが絵画を描く際に人を観察したように。
<そして、父はあっけなく亡くなり、(このシーンが映されないのが上手いと思う)母とフキは何事もなかったかのように列車に乗り、フキは観光先の太陽が降り注ぐ船の上で若者達と踊るのである。
今作は、一人の少女が様々な死の匂いに触れ、命の尊さをぼんやりと感じながらも、ルノワールの如く周囲の大人たちの表情を捉え、悲しみを乗り越え、新しき一歩を踏み出す姿を描いた作品なのである。>
無垢で無邪気な好奇心
夏休み前の大荷物小学生の様な雑多さ
誰の為に創った作品なのか。ほとんど心が動じなくて、も一つ疲れるだけに。
PLAN 75(2022年)作品から3年目。
この前 第78回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されたことは知ってました。
今日は「ルノワール」の鑑賞です。
少しだけ期待はしていましたが、これから見る方には申し訳ないけども
期待通りの作品仕上がりでは無かった感じでした。
前作の”PLAN 75”では 流れが読めてはいましたが
役者陣がシッカリ演技で支えてて そこが有ったからこそ
成り立ってた映画作品と思います。
今作の出ている俳優の方々は 何でこの作品に出ようと?思ったのか?
きっと前作がカンヌで特別賞貰った監督だったからでしょう?違うかな。
大御所も出ていたし。その前例もあって
だから それに纏わりつく様に寄って来られたと思うのですよ。
それ自体は別に問題とは思いませんけど この本は読んで選びましたでしょうか。
今作のメインの沖田フキ役:鈴木さんね。(オーディション時小学生)
厳しい事言うけども 感情出しが弱いですよ。
英語先生との家の食事場面は 本当に楽しそうで笑顔は有った。
でも 他の場面の感情が全部指示された演技となっており
これでは 絵に成って行かないと感じました。
難しい感情表現だとは思うのだけど、ほぼ目が死んでますね。
こっちは眼球の奥の心情までも読み取って観て行くので
本気で本物を前に出してこないと 総て空振りに受け取れます。
若いから仕方がないとか、それはプロでは通じないと思いますね。
ただ ok出すのは現場なので、そこは そうなったのは仕方がないですが。
あとは、全体的に散漫なイメ-ジが在ります。
行間埋める様に汲取らないと感情流れが埋まって行かない手法が
カンヌ好みかと言えばそうなんでしょうけど、
観ている側に強制的に求めて行くのも どうかと感じます。
ハッキリ言って 繋ぎが酷く 疲れます。
(他・感じた所)
・序盤のタイトルコールで 俳優陣のテロップを下から上へ表示出しましたよね。
正直不吉さ感じました。過去 逆方向出し作品は どれも不吉さが有って
それを僅数秒見ただけで 大体内容が分かってしまう思いです。
・出会い系伝言ダイアルで 見知らぬ青年に会いに行ったフキ。
彼の自宅から、事の状況が変わって追い出さて 雨の中彷徨う。
そこへ駆け寄るなに者かの姿。 (あれは?何だったのか・・・)
タオルで頭を拭いてくれる父(リリ-フランキ-さん)の姿が在り、そこに娘に対しての優しさは十分溢れていて良かった場面と思います。
そして同時に 彼が病で亡くなったのだと言う事。それが伝わる。
ここの流れだけが 良い展開だったでしょうか。そう感じました。
カンヌとか妙に賞を獲っちゃったから 変なプレッシャーが生まれて。だから
監督にとって 撮らされた作品感を感じましたです。
誰かの為に創るのでは無くて、自分の求める作品を探求して制作にこれからも励んで欲しいと思います。
変ですけど期待は一切致しませんw。
心は常に前向きにと そう思う次第です。
ご興味ある方は
劇場へどうぞ!
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