ルノワールのレビュー・感想・評価
全200件中、41~60件目を表示
冒頭の言葉ですべてを語った?
「人が死ぬと、人は泣く。それは死んだ人がかわいそうだから泣くのか、自分がかわいそうだから泣くのか」
冒頭、そんな言葉(たぶんあっていると思います)で始まリました。
見終わって、やはりその言葉に帰着するのかなと思いました。
そして全編を通して、おとぎ話のような、フキの描いた物語の中の世界ように思えました。
父親(リリー・フランキー)の存在が曖昧に見えて、病院にいる父親も、フキと一緒に競馬に行ったりした父親も果たしてリアルだったのでしょうか。
少なくとも雨の中で座り込んでいるフキを迎えに来た父親は、フキの描いたモノの中の父親のような気がします。
宗教にハマって体操をしている父親も、母親とその事で喧嘩していたのもフキの想像の中なのかもしれません。
友人ちひろの家の話しも、男に連れ去られた話しも、フキの想像の世界の話し。
映画の中で描かれた現実は、フキと母親との2人でいるだけでいるシーンではないかなと思えました。
if解釈せずに行為を観たら
色んな意図が自分には伝わらなかった。
80年代が舞台なんですね。
監督の早川千絵は76年生まれだけど、何かしら思い入れがあるのだろうか。
その時代に青春の多くの時間を費やした身としてはそれっぽいキーワードは幾つか出たもののそれほど80年代を強く感じる事ができなかったので、恐らく意図してこれ見よがしなアピールはしなかったんだと思う。
主人公のフキを見てすぐに思い出したのが佐世保女子高校生殺人事件の犯人の女の子。
成績は良いが自画像は真っ黒、グロいモノへの執着、そして何よりも感情が無く、他人への共感性が欠如しているといった点などで非常に酷似している。
数年後には猟奇的な犯罪を犯すような気がしてならない気持ちの悪さをあえて演出(個人の見解です)した意図が自分には伝わらなかった。
ストーリーは山も谷もなく淡々と送られる日常を小学5年生の少女フキの目を通して描かれるのだが、ポイントごとに河合優実、中島歩、坂東龍汰などの有名どころを配置しており、それぞれの短編ドラマを見ている様なつくりは嫌いではない。
本作はフランス、シンガポールなど数カ国との国際共同作品という事で、かなり意識しリアルな日本の中流家庭の普段を静かに切り取り繊細に表現しようとした早川千絵監督のやり手感が少しだけ鼻につき、演出方法やカメラワークも自主制作映画でよく見られる手法のオンパレードだったのが少しだけ残念な気がした。
子どもの視線の先
夢か現実か
こういうジャンルは好きだし、夏のいま!が旬な内容です。
じっさい途中までは良かったけど、あわや性の餌食に…て
くだりから急に拒絶感。
仮にこのシーケンス自体が空想(夢)だったとしても。
(お迎えに来てくれる人が現実的でないので夢エピソード濃厚だけど)
逆にそうじゃない場合は、実際どうやって帰ったのか…??
見てはいけないものをあえて見つけさせたり、
いい感じで告白してる最中に「はい!おしまい」
とか、なかなかの無自覚な悪魔。
お母さんの変化にも瞬時に反応して、こっそり
縁切りのおまじないをするあたりも機転がきく子。
ピーター・グリーナウェイの映画で流れてたようなレコードを聴いて踊ったり、
夏の夕空を眺めてみたり。画面のこちら側にも、夏の匂いがたちこめる。
しかししかし。
もう少し明確な彼女のひと夏の成長を見届けたかったなあと。
ただ、そうしてしまうと途端にテンプレートのようなありきたり夏映画になってしまう危険性もあり。
荒削りな印象はするものの、これはこれで、このまま受け止めておこう…。
※冒頭で見てたVTRは、10階の奥さんの喧嘩の原因になったテープ?捨てに行った時に話しかけたのが10階の旦那さん???じゃ一体どこから回ってきた???
途中で席を立ちたくなったのは何十年ぶりだったでしょうか
作中、女優があんなビデオ見るんじゃなかったと吐く場面があります。私はこんな映画観るんじゃなかったと言わずにいられない
カンヌ映画祭competition出品となってますが、”ある視点”部門の方が良かったのではないでしょうか
冒頭から意味を感じられない、必然性の薄いカット割の連続で我慢を強いられました
脚本にもそもそもの物語にも観る者に伝えたいことが暗示的にも伝わらず、主題と思われる事柄との関連性が薄いいくつかのシーンも思いつきのように挟まれ、観賞後の苦い後味がながく拭いされない理由の一つになりました
ここしばらくでの最低評価であったJOKER2を下回ってしまった
映画ってある程度社会性のある創作物だと思うんですが、自己満足側に寄ってしまうとこんな感じなんでしょうか
貴重なお小遣いでしっかり作品を選んで劇場で観ているつもりの身としてはとても残念
出演した俳優さんはこのような作品で演じたことをどのように思ったのか、率直な感想を聞いてみたいと思いました
80年代回顧の少女映画。「ちょっと変わった社交的な子」の半自叙伝的な成長譚。
あまりに仕事が忙しすぎて、
観てから大分経ってしまったので、
細かいことはもううろ覚えなのだが、
個人的に嫌いな映画ではなかった。
昔はこんな感じの映画、よくあったよね。
80年代後半という時代感を醸し出すために、
時代考証に異様にこだわった作りも含め、
今ではなんとなく時代のはざまに捨て置かれ、
忘れられている「80年代少女映画」への
比較的まっすぐな追慕と憧憬(承継?)の
映画であるような気はする。
あと、カンヌで上映されて評判を呼んだってのは、
なんか、すごくよく分かる気がするんだよね。
だって、『ルノワール』って、フランス少女映画の
そのまま80年代日本への移植みたいな映画だから。
●考えていることがわかりにくいヒロイン
●親、学校、社会をひたすら観察する視点
●おまじないや呪術的な儀式にハマる
●少女が自ら積極的に性的冒険に乗り出す
●歳の差の離れた相手との危ない関係
●父母もしくは祖父母の大病もしくは死
●お父さんとの微妙な距離感と交情
●お母さんとのリアルな軋轢と衝突
●父、もしくは母親のアヴァンチュール
●学校での奇矯な行動とすれ違い
●シスターフッドの濃密な描写
●暴走の爆発と鎮火、日常への回帰
このあたりの要素は、80年代以降のフランス少女映画で、それこそお腹いっぱいになるほど繰り返し繰り返し描き込まれてきた「思春期性を表現する必須アイテム」だといえる。
それを早川監督は巧みに日本の80年代へと移設し、鈴木唯という優秀な女優を得て、「昔観たことのあるような懐かしさと既視感のある、少女映画らしい少女映画」に仕上げて見せた。
ここでは、エリック・ロメールやクロード・ピノトー、ジャック・ドワイヨン、クロード・ミレールといった面々の築き上げてきたフランス少女映画の伝統が、相米慎二と大林宣彦に代表される80年代日本少女映画の空気感にそのまま連結され、一体化している。
だから観ていて、単純に80年代回顧&懐古だからという以上に、やたらとむずがゆく、なつかしい感覚が押し寄せてくる。そういや、こういう映画をかつての僕は「なんとなく日本映画らしい」「なんとなく80年代らしい」と認識していたもんだなあ、と。
80年代の少女映画に大抵あって、
ここで欠けているのは、それこそ、
少女が自転車で疾走するシーン(代わりに母親がこいでるw)と、
口実を設けたヌードくらいではないでしょうか?
― ― ― ―
ということで、カンヌのフランス人たちも、なんだかけっこう懐かしい気持ちでこの映画を観ていたのではないかと思うわけだ。
ただし80年代の少女映画は、日仏とも男性監督が担い手であったこともあって、ずっとセクシャルで、ロリータ的で、いかがわしい匂いもあった。
たとえ女性が思春期映画を撮っても『ジャンヌ・モローの思春期』(79)みたいに、男性から見てさえかなり性的でどきどきするような内容に仕上がっていた時代だ。
『ルノワール』では、現代に生きる女性監督ならではの(性的に)きわめて抑制された語り口と撮影術で、「少女映画」が21世紀の女性映画のテイスト&ポリコレのラインに収まるようにリファインされているのを確認することができる。
ずぶ濡れにしたり、風呂に入れたり、脱がしたりしないのは、いまや当たり前。
それだけではない。
胸のふくらみや脇やひざやうなじや絶対領域を強調しない。
体形のわかる服や汗や吐息や口元や上気した頬を強調しない。
そういったフェティシズムから、ヒロインを徹底的に守っている。
かわりに強調されるのが、鈴木唯の眼差しだ。
世の善も悪もおしなべてまっすぐ見つめる、透徹した視線。
黒々とした瞳と、真っ白な白目。
その感情のこもらない、ただただ真っすぐ凝視する眼差しが、もうすぐ死ぬ父親を、いろいろと無理をしている母親を、靴下をビニルに詰める金満マダムを、実は見下している友人を、薄幸だけど語りだすと止まらない未亡人を、変質者のマザコン大学生を、詐欺師風のカウンセラーを、TVから語り掛けてくる超能力者を、容赦なく射貫いていく。
― ― ― ―
この映画が観ていてイマイチわかりにくいのは、
端的に言ってヒロインのキャラクターがつかみづらいからだろう。
たとえば「こちらあみ子」のヒロインはド直球のASD&ADHDで、それはそれでわかりやすい映画だった。
ロリータ時代のシャルロット・ゲンズブールは、常に子供であることへの焦燥と苛立ちにさいなまれていた。
多動や、不良や、背伸びや、反抗期や、
おしゃまさんは、わかりやすい。
思春期映画として、客が期待しているものだから。
拗らせ方が、理解の範囲内にあるから。
だが、本作で鈴木唯が演じるフキちゃんは、
ちょっと毛色が違う。
想像力豊かで、ダークなものやオカルトが好き。
両親を含む大人とは一定の距離感を保っていて、
何事も冷静に観察し、本質を見つめている。
危ないもの、傷つけるもの、死にまつわるものに
強く惹かれていて、コミットしようとする。
ただポイントとして、だからといってこの子は、
荒れたり、反抗したり、騒いだりは一切しない。
いつもスンとしていて、感情の揺れを見せず、
大人に何か指摘されたら、素直にいうことをきく。
返事は丁寧で、声はかわいく、挙動は愛らしい。
ちょっと変な子だけど、この子は社交性が異様に高いのだ。
思春期映画というのは「軋轢」を描く映画だとつい思いたくなるが、この映画でのフキちゃんは、誰とでもうまく交流できるし、うまく相手に対応ができる。
でも、彼女は同時にいちばん仲良くしてくれている友人を平気で罠にかけるし、自分から伝言ダイヤルを介したアヴァンチュールにのめり込んでいくし、得体の知れない人間の闇の深奥へとわくわくしながら分け入っていく。
社会性をあわせもった「どこか変な子」が、
次々と好奇心の対象を標的にとらえては、
ソフトに「蹂躙」していくというのが、
『ルノワール』という映画の本質ではないか。
というわけで、なかなかに感情移入しにくいヒロインではあるのだが(笑)、僕自身は実のところ、まあまあの親近感をもってフキちゃんを観ていたのだった。
なぜなら自分も、かなり「社交的だけど」「変な子」だったからだ。
カウンセラーを生業とする妻には、あんたは純度100%のADHDだよと断じられているが、自分はとにかく昔から忘れ物と立ち歩きの多い問題児童だった。
けじめがつけられない。授業中のおしゃべりがとめられない。
鞄を電車に置き去りにして、手ぶらで家に帰る。
そんなことがしょっちゅうだった。
そのわりに誰とでもたいてい仲良くできて、諍いごとを一切起こさないので(たぶん人生で喧嘩したことも人に文句をいったことも一回もない)、小学校で入った塾で半年ほどいじめられた以外は、学校は小中高大と、とにかく居心地のよい場所で、仲間とつるんでは遊んでばかりいた。ついでにいうと、成績も悪くなかったので、教師から見たらまあまあむかつくガキだったはずだ(笑)。
とはいえ、
3歳のときに電柱の貼り広告をたどってひとりで書道教室に出向いて、先生に頼み込んでノート一冊分「魔」という漢字をびっしり書きとりして帰ってきたという(もはや自分では覚えていないけど親から教えられた)エピソードなんかを訊くと、やはり自分はまともな子供ではなかったんだろうなあ、と我ながら痛感する。
とにかく小さい頃は昆虫をたくさん殺したし、小学生のときから首が飛んだり串刺しにされたりする映画が好きで好きでたまらなかった。
小学校低学年のときは『鬼太郎』に異常にのめりこんで、ノートにびっしり「自分で考えた妖怪」を描きまくっていたし、高学年になると今度は『必殺』にのめりこんで、毎日前を行く人の首の急所を貫くことばかり夢想しながら歩いているぶっそうな子供だった。
性的にも明らかに暴走していて、幼稚園の頃から近所の子供たちを組織して、山狩りをしてはビニ本を収集していたし、他にもここでは書けないようなろくでもない悪戯をいっぱいやった。
でも、少なくとも中学以降はずいぶんと「良い子」になった、と自分では思っている。
少なくとも悪いことはしなくなったし、誰かに危害を加えたこともない。
今ではこんなに穏やかで無害な初老のおっさんに収まりました……。
でも、まかり間違えば、僕は自分がサイコキラーや性犯罪者に落ちぶれていても全然おかしくなかった人間だと、本気で思っている。
僕を救ってくれたのは、人殺しや妖怪変化の出てくる映画や本格ミステリや時代劇やコミックといった「代替物」であり、現実世界で良い子でいるかわりに、暴走する妄想を無限に解き放てる脳内の空想世界だった。
まさに江戸川乱歩いうところの、
「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」だ。
そんな僕にとって、フキちゃんのダークサイドは、
なんとなく理解できるし、共感の持てるものだ。
ヤバいもの、普通じゃないもの、妖しい連中。
「闇の引力」に常に無抵抗に引き寄せられる様は、
当時の自分を観ているようで、何だか空恐ろしい。
もちろん共感できない部分もある。
自分には、友人の負の反応が観たくて
ひどい罠を仕掛けるようなフキちゃんの
「サイコパス」的な側面はなかったし、
あれだけ妖怪や必殺の虜になっても、
なぜかオカルトには全くはまらなかった。
それでも、フキちゃんの底暗い感性や、
醒めた世界認識と死生観には親近感を抱く。
徹底した80年代後半の文物に対するこだわりぶりから見ても、フキちゃんはまさに早川監督の「分身」のようなものなのだろう。
監督は48歳というから僕よりはある程度年下で、80年代後半にはちょうど小学校高学年くらいだったはずだ。
早川監督は多感だった小学校高学年の時期に、いかがわしくも魅惑的だった80年代を体験した。彼女にとって80年代は、強烈なノスタルジーを呼ぶ時代であると同時に、「どちらに転ぶかわからなかった危ない少女時代」を思い出すよすがでもある。
彼女は結局「闇の引力」に引きずり込まれることなく成長し、大人になって、ヤバい人間になる代わりにクリエイティヴな職業を選択し、遅咲きでそこにたどり着くことができた。
そんな彼女の人生は、僕の人生とも被る部分がある。
闇に引き付けられながらも、それをフィクションの世界で消化し、クリエイティヴな生業へと反映させていく。そうやって「バランス」を保ってきた生き方には、共感を寄せざるを得ない。
― ― ― ―
●お、さだまさしか、と思ったら、リリー・フランキーだった(笑)。
腹水の表現が生々しくて怖い。そういやリリー・フランキーは、いとうせいこうやみうらじゅんと並ぶ「90年代サブカル」のまさにアイコンだったんだよね。今は俳優になっちゃったけど。ちなみに、石田ひかりもまた「90年代」は、姉の石田ゆり子の10倍は有名なアイドル女優だった。
●中島歩の挙動や声が竹野内豊すぎて痺れる。
●この映画って、実は一筋縄ではいかないつくりになっていて、アヴァンに出てくる「フキちゃんの考えた虚構」であるはずの「子供が泣いているヴィデオ」が、時系列では「後」であるはずの河合優実の独白のなかで、旦那が性的関心を持って観ていたと思しきスナッフフィルムとして登場する。要するに、想像が現実に侵蝕してきて彼我の境界が融解していくような構造を、わざと「違和」として仕掛けてきてるんだよね。
ほかにも、終盤出てくる虚実の曖昧な、死にかけている父との散歩や身体を拭くシーン(ここだけは「いかにも少女映画」と言いたくなるようなセクシャルな描写になっている)や、最後の船上でのダンスシーンなど、現実と夢想のあわいをぼかしていく描写が散見される。
●そういや、なんでタイトルが『ルノワール』なんだろうね?
パンフ買いそびれたからわかんないや。
フキちゃんが気に入ってルノワールの「イレーヌ嬢」の複製画を飾ってたのは覚えてるけど。
そこがわかっていない以上、もしかすると僕はこの映画のキモの部分を、本当に何もわかってないのかもしれない……(笑)
子供の目線
不穏な空気がずっと続く
観客にとって面白い映画と映画祭で評価される映画は全く違う。
この作品の不穏な空気や違和感は賞を取った者故の審査員への忖度の結果なのかもしれないと思ったり思わなかったり。
とにかく主人公の感情はチラホラ見えるが本意はわからない。
愛を知らないから愛せないのか、
愛を知らないから愛されたいのか、
愛を知らないから試したいのか、
愛を知らないから壊したいのか。
まったくわからないまま話は進んでいく。
まったくわからないから絵作りの昭和のディテールへの病的なこだわりに目が行き、主人公が橋を颯爽と漕ぎ渡る自転車の「昔オカンが乗ってたやつ」との完全シンクロに脳みそをぶん殴られる。そんな映画でした。
とにかく導入の夢のシーンからもう本当に胸糞悪い気分でそのまま最後まで行ってしまった感じ。
ポスターの多幸感と実際の内容がここまでかけ離れてるとそのシーンが映された時の驚きと違和感は半端ないな。
取り留めないけどこんな感想の映画もあるよね。
あと大好きなベンジー出てた!やっぱ彼のダメ男役最高だ!
それではハバナイスムービー!
空虚をまとう「芸術風」への怒り
私はこの映画を全く評価しない。最大の問題は、この映画が観客の知性や感性をまるで信頼していないことにある。題名は「ルノワール」。しかし、その名が意味する絵画的背景や人物像、芸術思想に踏み込む描写は極めて乏しく、ジャン・ルノワールの絵画を父の病室に飾る、ただそれだけに等しい。それは“ルノワール”という看板を借りた、まやかしのブランドにすぎない。
確かに、演出は一見「印象派的」だった。だが、そこに明確な意図や構造美があったとは到底言えない。無音とノイズを用いた場面転換は単調で、リズムの変化も読めてしまう。演出意図が透けて見えるほど浅く、むしろ想像力を萎えさせる。物語も問題だらけだ。起承転結がなく、一貫性も欠けている。自由奔放な少女の心象世界を描くためにあえて構造を破壊したのだとしても、それが成立しているとは思えなかった。類似の構造を持つ作品「怪物」は、あどけなさや危うさを描きながらも、大衆映画としての体裁を保っていた。この映画はそれすら持たない。終盤の“家出”が夢オチであるという演出も、明確な伏線や文法的示唆がなく、観客の理解に委ねすぎている。たまたま私には読み解けたが、同行した母は「どうやって帰ってきたの?」と私に尋ねた。そこに対し「夢オチなんだよ」と説明することはできたが、それは観客に課すには過酷すぎる読解の強要だった。加えて、時代設定にも整合性がない。1980年代という設定の中で、「コンプライアンス」や「パワハラ」への言及が登場するのは、あまりにも安直な現代性の押し込みである。まるで時代に対する理解や敬意が感じられない。
私がこの映画に向ける怒りは、ただ「つまらなかった」というような感情的なものではない。これは映画という形式に対する冒涜だ。映画は芸術であっていい。しかし、同時に「娯楽」としての顔も持っている。観客がいてこその映画であり、独りよがりのオ○ニー作品を観客に強いることは、「映画」という形式そのものを裏切る行為である。私はこの作品を見ている間、ひどい前衛音楽のコンサートに閉じ込められたような、不快さを覚え続けた。形式に酔い、意味を殺し、感性を麻痺させるその手法は、もはや虚飾でしかなかった。仮にこの映画が賞を受賞したとしても、私はその審査員やその賞の価値を疑わざるを得ない。なぜならこの作品は、賞を得るために「らしさ」に全振りした、空疎な模倣品にすぎないからだ。
「意味はなく、その時間を感じるだけの映画」その時間は私にとって、ただ無意味な苦痛でしかなかった。
鑑賞後、気になった事柄を色々調べたらいくつか合点がいきました
物語の舞台である、1987年頃の雰囲気をとても感じました。主人公はじめ登場人物の人々も、たしかにその頃実在していたのではないかというリアリティがありました。
トランプのカード当て、そのカードを当てる側の人が、なぜそのカードと回答したのか?
妙に気になったので調べてみたら、例えば主人公の母が答えたダイヤのクイーンは、野心や支配欲と言った意味を持つ場合もあるようです。知りませんでした。
他の人が答えたカードや、病室の窓に縛り付けたリボン等、私が理解できないだけで、色々な事柄やアイテムが意味を持つのかも知れません。
監督さんはじめスタッフさんの意図とは異なるのかも知れませんが、そういう点を自分なりにでも理解した上で、もう一回鑑賞したいと思いました。
懐かしき時代
ある意味もの凄くリアル
80年代の
小学5年生の女の子のお話
なんかずっと
微妙にイヤな気分で見てた。
テレビで超能力者を見て
超能力、催眠術を練習しだす主人公。
見てるこっちは
「そんなバカなことやってぇ」って
冷めてというか、否定的に見てるんだけど
その練習を一緒にやる友達。
大人も、一緒になってやる。
子どもの遊びに付き合う
って感じでなく、ちゃんとやる。
お母さんも
がんに効くと言われた
どう考えても怪しい食べ物を
大量に買ってくる。
お父さんと娘で
怪しい宗教団体みたいなのに
参加したり、
お父さんも
怪しいクスリを
100万で買おうとしたり。
誰も否定的に言う人がいないまま
どんどん物語は進んでく。
すごいモヤモヤが積もっていく。
イライラとは違うけど
嫌な気持ちがずっと続いてた。
最終的に
「なんてバカなことしてたんだろう」
って我に返るんなら
スッキリするんだけど、
ラストでも
超能力の練習してた。
嫌な気分で終える作品だった。
逆にむしろ、
なんも言えないのがリアル
なのかなぁと
見終わって結構たった今
思わなくもない。
かわいい
198✗
響かなかった
長かった〜という印象でした。
いろんなエピソード(制作側が入れたいこと全部)が繋がることなく、並べられている感じで⋯
私の心には響いて来なかったです。
伝言ダイヤルのパートも出来事だけだし、他のパートも人の心の機微が見えない。
フキなどは、大人が作り上げた子どもを演じている感じが強くて、ナチュラルじゃなかったんだよなぁ⋯。
円卓のが面白かったなー、とか比べるところでもないけども、なぜか思い出してしまいました。
あと、なんか嫌だなーと思う人が多くて⋯
お父さんの部下とか、お母さんに薬を買わせる人とか、伝言ダイヤルの男とか⋯
って、全体的に、みんなのキャラが薄いのかも⋯
11歳の子どもの父親は、もう少し若いほうがリアルだなぁ⋯と。
リリーさんは、おじいちゃんにも見えなくもないのよ。
石田ひかりさんは、良い感じに歳を重ねてらして⋯
お母さん役もっとみたいかもー。
全200件中、41~60件目を表示