「永遠に色褪せない少女の絵には、フキなりの大人への抵抗が示されていたように感じた」ルノワール Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
永遠に色褪せない少女の絵には、フキなりの大人への抵抗が示されていたように感じた
2025.6.23 一部字幕 MOVIX京都
2025年の日本映画(122分、G)
父の死に直面する11歳の少女を描いた青春映画
監督&脚本は早川千絵
物語の舞台は、日本のとある地方都市(ロケ地は岐阜県岐阜市)
闘病中の父・圭司(リリー・フランキー)と、彼を支える母・詩子(石田ひかり)との間に生まれた11歳のフキ(鈴木唯)は、どこからか手に入れた「子どもたちが泣いているビデオ」を見ていた
見終えた彼女はそれをマンションのゴミ捨て場に捨てに行くものの、そこで不審に思える住人と遭遇した
その後、フキはその男に襲われて殺され、死んだことを実感していない彼女は自分の葬式を目のあたりにしてしまう
だが、一連のこの事柄はすべてフキの想像で、課題の作文だったことがわかる
彼女はこの作文以外にも「孤児になったら」という題名で作文を書き、担任の戸田先生(谷川昭一朗)を困らせていた
母も学校に呼ばれるものの「先生は暇なのかしら」と毒を吐き、「たかが作文じゃないの」と吐きすてた
その後、父の容態は悪化し、入院せざるを得なくなる
当時の日本では末期癌に対する治療は限定的で、父は海外の医療誌などを引っ張り出してきて主治医を困らせていた
ある日のこと、同じマンションの住人・北久里子(河合優実)と遭遇したフキは、彼女の部屋に入れてもらうことになった
フキは超能力とか催眠術に興味を持っていて、見様見真似で久里子に催眠術をかけていく
すると彼女は、夫が奇妙なビデオを隠し持っていたことを告白し、それを見つけて以降、夫を見る目が変わってしまったと告げた
また別のある日には、英語塾で一緒になったちひろ(高梨琴乃)の三つ編みに興味を示し、友だちになって、彼女の家に招かれることになった
ちひろの家は裕福なようで、母・梨花(西原亜希)はケーキを出してくるものの、父・淳(大塚ヒロタ)の無言の圧に苛まれ、ケーキを買い直しに出掛けてしまう
フキはこの夫婦に不穏なものを感じていたが、別の日にかくれんぼをしていた時に、大事にしてそうな箱の中から「別の女の人と一緒にいる父の写真」、「その女の人が赤ん坊を抱いている写真」などを見つけてしまう
フキはそれとなくちひろが見つけるように仕向け、それが原因かはわからないものの、彼女は遠くに引っ越すことになったのである
映画は、淡々と大人たちの裏の顔を知っていくフキが描かれ、父の死によって動いていく大人の世界というものを体感していく
母は早々に知人に葬式の相談をしているし、死んでもいないのに喪服を部屋に出していたりする
父の会社の同僚(中野英樹&佐々木詩音)も「もう復帰はできないだろう」と考えていた
さらに、母は研修先で出会った男・御前崎(中島歩)の妻・貴和(宮下今日子)が手がけている健康食品を大量に買い込んだり、占い師(天光眞弓)に「恋をしている」と言われて浮き足だったりもしていた
フキは超能力の本で得た知識で母と男を引き離そうと考え、ある術のようなものをかけていく
映画のタイトルは「ルノワール」で、これは劇中でフキが父のために買う絵画のレプリカのことで、購入したものは「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」と呼ばれるものだった
ルノワールの作風とか、彼にまつわることが映画と関連しているというふうに捉えがちだが、おそらくは「少女の絵」というところに意味があるのだと思う
この絵は「少女の絵」としては最も有名な作品で、ある伯爵の8歳の長女を描いたものだった
前述の変わりゆく大人たちとは対称的な存在であり、変わらないものとしてのメタファーであると思う
父から見れば「変わらないフキ」であり、フキから見れば「変わらない私」であり、父の死によって変わっていく大人たちへの抵抗にも思える
父の死後は彼女の家に絵が飾られることになるのだが、これは変わらぬ父のメタファーになるのだろう
あの絵を見るたびに思い出すのは、11歳だった時に過ごした父との時間であり、その思い出は色褪せることはない
そう言った想いをフキなりに表現したものが、あの少女の絵であり、直接的な意味を避けるために「ルノワール」というタイトルにしたのかな、と思った
いずれにせよ、少女期に感じたことがテーマになっていて、あの時期の彼女には「大人の感じているもの、発しているもの」を敏感に感じ取る力があったのだと思う
それによって、見たくない部分も見てしまうことになり、いずれは自分が身につけてしまう大人の事情というものを先取りしているようにも見えた
あの絵があることで、フキなりに抵抗を見せていたことがわかるのだが、いずれはそう言ったものも変わってしまうのだろう
でも、父が存命中に動き出す必要はないので、いささか心が離れているとしても拙速に思えたのだろう
そう言った感覚が当時の監督にあって、それを印象的な映像に作り込んだのかな、と感じた
