ルノワールのレビュー・感想・評価
全200件中、1~20件目を表示
淡々とした日常の光と影を一枚の絵画のように切り取った作品
本作品は、前作「PLAN 75」で第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で高い評価を得た早川千絵監督の長編監督第2作目になります。また本作品も2025年第78回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されおり注目度が高い作品です。
1980年代後半の夏を舞台に、闘病中の父(リリー・フランキー)と、仕事に追われる母(石田ひかり)と暮らす11歳の少女フキ(鈴木唯)が、大人の世界を覗きながら、人々の心の痛みに触れていく中で、少しずつ大人になっていくひと夏の成長物語。
さて、
観終わった感想は🤫
起承転結のない物語、ごくありふれた誰かの日常をまるで絵日記のように、ごく淡々と静かにみせてもらったという印象です。11歳の少女フキ役の唯ちゃん、なかなかユニークな女の子でしたね。あの頃の子どもはみんなユリ・ゲラーとMr.マリックに夢中でしたからね😎自分の少女時代を見ているかのようなノスタルジーを覚えました。少しばかり無愛想、無感情にみえたのは、監督の演出だったのかしらね🤫しかしこれだけの注目作品に、あの年齢で堂々と主演を演じ切った度胸に拍手👏今後も期待したいですね。
この映画に何か特別なことは何ひとつない。それがいいと思うか、それが物足りないと感じるかで評価も分かれそうではあります🙄
身近な人の死も、大切な人との別れも、思春期ならではの少し危険な好奇心も、程度の違いはあるにせよ子どもから大人になる過程でみんなが体験する少し痛みをともなった記憶です。とくにこの年ごろの子どもにとって身近な人の死は、大きな心理的影響を与えます。人の命は永遠ではないこと、大切な人がある日突然いなくなってしまうこともあること。それを取り巻く大人たちの対応は、時に滑稽で痛ましく、あらゆる感情と対峙しなければならないことを知ります。
それが
「大人になる」ということならば
少女にとって、このひと夏は
少しだけ大人になることを
急かされた夏
ということでしょう🤫
タイトル「ルノワール」
解釈が間違ってなければ、フランスの印象派の画家ですね。
私はおしゃれなタイトルだなと思いましたよ🧐
幅広い世代に共感と、中高年にはノスタルジーも
本作については当サイトの新作評論枠に寄稿したので、ここでは補足的な事柄をいくつか書いてみたい。
評で紹介したように、早川千絵監督は「ルノワール」を作るうえで影響を受けた映画として、ビクトル・エリセ監督作「ミツバチのささやき」、相米慎二監督作「お引越し」、エドワード・ヤン監督作「ヤンヤン 夏の想い出」の3本を挙げた。プロットを引用したり演出を参考にしたりした、いわゆる元ネタを明かすのは作り手としての誠実さが表れているように思う。
と同時に、2014年の短編「ナイアガラ」がカンヌのシネフォンダシオン部門(次世代の国際的な映画制作者を支援する目的で、各国の映画学校から出品された短編・中編を毎年15~20本選出)に入選、長編初監督作「PLAN 75」がカンヌ「ある視点」部門でカメラドール(新人監督賞)の次点と、すでにカンヌからの覚えめでたい早川監督が国際映画祭の“傾向と対策”をしっかり実践していることを示唆してもいる。「ヤンヤン~」はカンヌで監督賞、「お引越し」もカンヌの「ある視点」部門招待、「ミツバチのささやき」はシカゴやサン・セバスティアンなど複数の国際映画祭で入賞。つまり、「幼い子供が大人の世界を垣間見て、少し成長する」筋の映画は、世界の映画人から愛され、評価されやすい傾向があると言える。そうした過去作の引用を散りばめることは、それら名作のシーンを思い出す点でノスタルジーを補強する効果も見込める。
もちろん1980年代を知る日本の観客なら、当時の出来事や流行を単純に懐かしく感じると同時に、その後に起こるバブル崩壊、オウム真理教が起こした一連の事件、1995年の阪神淡路大震災などを連想して、複雑な思いを募らせるかもしれない。ただしそうした時代背景を知らずとも、誰しも通ってきた幼い頃を思い出させてくれる普遍的な情感に満ちており、共感を呼ぶポイントがいくつもあるはず。
評の最後では鈴木唯について、「願わくばその野生馬のようにしなやかな個性と魅力を保ちつつ、女優として大成することを心から期待する」と書いた。早川監督にもぜひ、鈴木唯の成長の折にふれ、たとえば5年後とか、10年後とかにまたタッグを組んでほしい。フキのその後を描く続編の企画なら最高と個人的には夢想するが、まったく別のキャラクターで作るとしてもそれはそれで可能性が広がって面白い映画が期待できそうだ。
そして少女は大人になってい く。
嫌いじゃないんだけど
ふわっとした作品は嫌いではないので観に行ってみたいなと思いふらっと拝見。
淡々としているのにどこかずっと不穏で、個人的には不安な時間が長くてしんどかった。
共感できる、あの年代ならではの残酷さと無鉄砲さ……なんだけど、いつか痛い目を見てしまうかもしれない、どうか立ち直れないほど悲しいことが起こりませんようにとずっと祈っていた。
人のものを勝手に触ったり、引き出しを開けたり、話を聞かなかったり、そんな電話しちゃダメだよとか、そんな形で知り合った人に会っちゃダメだよとか、そんな時間にひとりで外出ないで、なんて……心配性が発動しまくり。
平成一桁ガチクソババァ(ネットミーム)なので、色々と信じられなかった。
見た当初は、うん、悪くなかったと思ったはずなのに、見てから2ヶ月経ってレビューを書こうと思ったらそんなことしか浮かびませんでした。
でも、ゆるやかに成長はしていて、色んな人の色んな境遇や気持ちを実際に見て、知って、この子はどんどん大人になるんだろうなと、そういう救いで終わった気がして、絶望の話というわけではなかったかな。
わたしの修行が足りてないだけなんでしょうね(笑)
ひたすら暗い
相米慎二の『お引越し』みたいな映画かな?と思って見始めたら、ずっと宮台真司的な世界が描かれていて辛かった。子供の目線で大人の世界を描く映画はいくつもあるが、子供の無邪気さやその眼差しを通したありのままの世界のキラキラした様子と、大人の社会の苦悩や現実の対比が描かれているのが面白いところだけれど、これは子供のふりをした大人の眼差しといった様子で90年代のバブル崩壊後的な社会の歪みと陰が永遠と描かれている(設定的には80年代後半だが)
出てくる大人も基本的には皆んな嫌なやつで、主人公のフキもいい奴かと言うと微妙だし友達もほぼ出てこない。家でひとりぼっちで伝言ダイヤルに電話したりしている。これはきっと狙い通りで冒頭から自分のお葬式の空想から始まる所から、家庭の不安定さから離人症的になっていると推察される。
何処かで子供目線のユーモラスさなどを期待したが、ほぼそんな様子はなく本当にずっと暗い。基本的にフキが大人に出会い、その人たちの暗闇を見つめる構造になっているので会話のシーンばかりで映像に動きが無いのもシンドイ。舞台も田舎という訳ではなく、地方都市ぐらいの感じなので会話するシーンも狭く奥行きがない所がほとんどで画的にも面白くない。
唯一動きがあって面白い映像だと思ったシーンが伝言ダイヤルでロリコンぽい大学生に会いに行くシーンで狙ってやってるとしたら観客に何を思わせたいのか、感じさせたいのか甚だ疑問だった。
なので120分以上の上映時間も比較的苦痛で、いつ面白くなるのか、いつ終わるのかということばかりが頭にチラついてわざわざ劇場に観に来たことを後悔した。
角度によって別人のような
不確かなものを信じ、頼りにして生きる人たち
この映画ではさまざまなことを考えさせられました。そのうち「不確かなものを信じ、頼りにして生きる人たち」について、書いてみたいと思います。
超常現象、テレパシー、催眠術、祈り、手相占い、イミテーション、欺瞞などの不確かなものを信じる人たち。科学的に根拠が乏しいもの、まやかし、偽物、嘘、偽りなどをを信じ、あるいは、それを頼りに生きている人たち。その人たちにも、やがて、たしかな現実が現れます。その現実は、不確かなものを信じる人たちにとっては、必ずしも優しい現実ではなく、時として、厳しい現実となることもあります。それでも、人はその不確かなものを信じ、頼りにして生きています。
伝言ダイヤルで知り合った自称大学生、浮気相手の優しい表情と言葉、浮気の贖罪としての手相占い、家柄の良さそうな親友の家庭、健康食品、がんに効くという神の手道場、そして、バブルという時代背景そのもの。これらが、不確かなものとして挙げることができると思います。こういった不確かなものを頼りにして、人々は生きています。しかし、その後に現れる現実は、厳しいものであり、その現実には失望させられます。
この映画のタイトルである『ルノワール』についても、映画では不確かなものとして描かれていると思います。
映画では、主人公のフキはルノワールの『イレーヌ嬢』という肖像画に興味を示します。美少女『イレーヌ嬢』に、フキは少女としての理想像を見出したのかもしれません。ですが、フキが見た『イレーヌ嬢』は、芸術性がないレプリカ、不確かなイミテーション。
フキは、そのレプリカの絵画を父親に買ってもらいます。フキは、父親の生前はその絵画を病室に飾り、父親の死後は勉強机の横に飾ります。病室の『イレーヌ嬢』は、父親の回復を願うフキのささやかな思いの象徴のようです。勉強机の横に飾られた『イレーヌ嬢』は、フキにとって、亡くなった父親との絆と思い出を示す、シンボリックなものに感じます。言い換えれば、絵画はイミテーションであっても、フキにとっては、大切な父の闘病の証であり、父の愛情が詰まった大切な思い出の品ではないかと思います。
映画では、不確かなものを信じ、それを頼りにする人たちを、中立的に描いています。不確かなものを信じる人たちを、批判的ではなく、嘲笑的でもなく、憐憫的でもなく、「人はそういう不確かなものを信じながら、生きていくものです」と淡々と描いています。そして、このような描き方ができる早川監督に、「人間の尊さや人の営みの尊さ」と謙虚に向き合う姿勢を感じ取ることができると思います。
父子関係のよさがとてもいい。
誰にもやってくる「死」に対して、大人と子どもの向き合い方は違う。それは、生(性)に対しても同様だろう。
そんな「死」と「生(性)」に触れたひと夏を超えて、少しだけ大人に近づいた11歳のフキの物語。
ご存知の通り、ルノワールは女性や子どもを多くモチーフにした印象派の画家。
今作は、ルノワールのような眼差しを持って、主人公のフキという少女にまつわるエピソードを、フキの想像がつくりあげるフィクションと現実の部分の境目を馴染ませて、印象的に描き出した作品とも言えるかもしれない。
入り組んだ光と陰の対比、画面の中央付近に配置される垂直線や平行線、人物を中心に置く三角構図、時折差し込まれるアクセントなど、画面づくりが、PLAN75と大変よく似ていた。そこら辺が早川千絵監督の持ち味なのか、浦田秀穂撮影監督のそれなのかはわからないが、自然と物語の大切な部分へのフォーカスを導かれて、とても見やすく心地よかった。
<ここから思いっきり内容に触れます。鑑賞済の方だけお読みください>
・「のっけから、主人公死んじゃったよ。早逝した少女の話だったんかーい」思っていたら「作文でした」というオチ。「なぁーんだ」とも思ったが、「この分では、これから先もうかうかしてられないぞ」と、ちょっと緊張しながら観た。
・河合優実との邂逅は現実だったのか、それとも想像だったのか。冒頭の子どもたちの泣き姿を集めたビデオテープ視聴との関係や、時間軸の前後が不明なこともあって、その判別がつかない。
ただ、そんなあやふやさも、余白と思うと一興。
・11歳のフキにとって、「死」はまだフィクションなので、戦時中の様子を伝える絵や話を聞きながらもラムネが食べれてしまう。ただ、ガンで自宅療養を勧められるほどのステージの父の存在は現実的で、「死」の受け止められなさが、作文という形での言語化や、テレビニュースに気持ちが引っ張られる姿や水風船を落としてみる姿などに丁寧に表現されていた。
そうした、今この瞬間を生きることしか経験のない「子ども」と、先を見通した準備ができる「大人」との対比が、喪服で表されているところが巧み。
・実際に父が亡くなってからも、英会話教室でのシーンのように、フキは何となく実感が湧いていない様子だった。けれど、そういうことは、子どもだけでなく、大人にもあるし、フキが食卓で急に思い出したように、ふとした瞬間にその人の喪失を強く実感することもある。そんな所もリアルだった。(ファミレスのバスタオルのシーンとか、笑ってしまったが、とてもよかった)
・超能力ブームがあったのは、もうちょっと前な気もするけれど、誰かと念を送り合って意思疎通を図る象徴として、父と子、友人同士、そして子と母の関係を表現するのに、いい役割を果たしていた。
・様々な思惑が絡んだ大人たちの性や、性癖の問題は、ここで積極的にコメントしたいようなものではなかったので触れない。
・石田ひかり演じる母は、パワハラで研修を命じられることになるが、うがった見方をすると、男性の管理職が部下に対して彼女と同じような言動をしても、同様の処分だったのだろうかと思ってしまった。それから、中島歩のセリフを聞いて、認知行動療法的な取り組みが当時あったのか?
とも思ったが、こうした部分は、時代考証よりも、カンヌなどにフィットする現代的な感覚優先の部分なのかも。
・石田ひかりは、リリーフランキーの看病疲れと将来への不安で、ガンと戦っているリリーフランキー自身にも当たってしまうが、そこがとてもリアル。決して彼女がパワハラ体質ということではないと、患者の立場になった経験から思う。
・病院のナースキャップ、伝言ダイヤル、キャンプファイアで流れるライディーンなどに懐かしさを覚えた。また、ガン患者に対して、民間療法を持ちかけてくる手口は、当時実際に目にしたので、リアルだった。小道具など、細かなところでれも時代の空気感がよく現わされていた。
・とにかく、フキが不幸な結末を迎えずに、ホッとした。
クルーザーでのダンスシーンは、イニシエーションを経たあとの、明るい未来を感じさせた。
・数字を見ると、評価は余り高くないようだが、自分は好きな作品。特に、川沿いの道を、父と手を繋いで歩いてくれる娘が、同級生の前では手を離すが、それを何も言わないリリーフランキーと、再び手を繋いでくれる娘がいい。
体調が万全でない中で見ると寝る
雰囲気は良かったと思います。
どのシーンも映像が美しかったです。
ただ、朝5時起きで1日暑い外で動き回っていた日、22時近い時間のレイトショーで観たのが完全に失敗でした。
ゆったり流れる静かな映像と映画館の暗闇、涼しさで、途中途中意識が飛びました…(>_<)寝不足で観ちゃいけない映画です。
ただ、そんな状態でも、ロリコン大学生が迫ってくるあの静かな気持ち悪さはすごくリアルでした。
映画でなくては表せない生の凹凸
【ルノワール】
初めての長編監督作『PLAN 75』でカンヌ映画祭のカメラドール(新人監督賞)をいきなり受賞した早川千絵監督の第2作です。
11歳の少女フキが覗き見る大人の世界を小さなエピソードを織り重ねながら描いた物語。一緒に観た我が家の妻も僕も観終えてから
「相米慎二監督の『お引越し』(1993)の世界だね」
と、全く同じ思いを抱きました。恐らくその影響は受けているのでしょうが決して物真似ではなく、紛れもない2025年の映画でした。『PLAN 75』の様な強いストーリーがある訳ではないのですが、フキの目に映る社会、そして自分自身の危うさが繊細ながらも明瞭な凹凸感で展開します。一つ一つは小さなお話なのかも知れませんが、言葉にしない眼差しや表情・間が、僕自身にもあったかも知れない、そして今も抱えているであろう「生の苦み」の様な物を緩やかに浮かび上がらせます。ストーリーを言葉で説明しただけでは何も伝わらない、これこそ映画の世界です。
何より、フキ役の鈴木唯ちゃんが素晴らしい。子供だけれど何もかもを見透かした様な眼差し。不満だけれど不安な表情。よくぞこんな子供を見つけて来たものだと驚きました。
物語の組み立ても巧みです。冒頭でいきなり「なんじゃこれ?」と思わせて観る者を一気にお話の中に引きずり込みます。そして、物語と直接関係のないライディーン(YMO)のダンスを観る者の脳裏に強烈に刻み込むのです。これも監督の周到な計算なんだろうな。僕は大好きです。
明らかな目的が
昭和末期の家庭を覗き見するような怖さ
劇中に出てくる国鉄のカレンダーによれば舞台は1987年。途中、中学生が両親と祖母を殺害した事件(1988年)のニュースも出てくる。テストで平均点を下回ったらお小遣いナシという子育て方針の家だったとか。
そのような昭和末期の、「真面目を極めた末に正気を保てなくなっている」家庭が描かれる。リリー・フランキー演じる父は末期のがん。看病と家計のため孤軍奮闘する母を石田ひかりが演じている。この家庭のほころびを11歳のフキちゃん(鈴木唯さん)の視点で残酷に暴く。
このお母さんが印象的で、父の死を見越して葬式や喪服の準備までしている。「私は先のことまで考えているのよ」とフキに言い訳するが、必死であるがゆえにどこか空洞化してしまった価値観を体現しているようだ。
父の病室に部下が律義に訪れるけれど、後で「もう職場に帰ってこないだろう」と陰口を囁く。フキちゃんが習い事に通う英会話教室では丁寧なおもてなしが意地悪さを際立たせる。人間関係の儀礼がまだ生きていて、でも形骸化しているところがリアル。
しかし、残念ながら肝心のフキちゃんにキャラクターの核のようなものが感じられなかった。映画『こちらあみ子』のような奔放な個性でも、『夏の終わりに願うこと』『aftersun』のような父の死を予感する少女の感性でもない。ただ大人の痛々しさを暴く「眼」の役割だったのだろうか。
ラストでフキのテレパシーごっこにつきあう母。鋭敏な少女ではなく、老獪な母こそ、この映画を通じて成長した勝者だったかもしれない。
構成について、起承転結のはっきりした映画が見たいわけではないが、今作は「転」のあとにまた「承」が続くような場面が気になった。描く順序を変えても大差ないのでは、とも。何度か「ここで終わり?」と思いながら観てしまったのは、相性が合わなかったということだろう。
無題
まず、なぜ主人公フキはおかっぱあたまの大きめのシャツに半ズボンなのか。
最後まで理由が見えてこない。
80年代の思い出を連ねただけに見えてしまうシーンの連なり、
「死」に対しての、フキの、恐怖や不思議、興味などの話なのかと思いきや、その辺りは冒頭のみで、そのあとは薄らいでいくし、
子供から見た大人たちの不思議やおかしさ、その影響によるやりきれなさ、そして成長、という話でもない。
予告で使われていた大型客船のシーンも、予告用でしかない。
色々きつかったです。
考えるな、感じろ的昭和原風景
「カンヌノミネート」
哀しみを背負いながら生きていく
酷暑の中の平日休み、観そびれてたルノワールを鑑賞してきた。
難解でシュールな作品なのかと想像していたが、予想とは違っていた。
人は哀しみを背負い、感情と折り合いをつけて生きていく。
作家性の強い、抽象的な作品なのかと想像して鑑賞したが、人間が生きていく日常と、必ず訪れる死を誇張する事なく描いた作品であった。
もうその時が訪れるであろうとする、闘病中の父への子供からの視点。
父を失う恐怖心や哀しみではなく、不思議な感覚。
ありのまま出来事を受け入れ、時間は経っていく。
ダイヤルQ2で出会った男。
仕事をしながらも旦那の闘病を支える妻。
思い通りにいかずの八つ当たりや、感情の逃げ道のような恋心。
癌になりながらも仕事復帰を目指し、怪しい団体に投資して希望を託すものの願いは叶わず、最後の親子の時間に過ごす競馬場。
その競馬場の切なさ。
人は哀しみを背負いながら生きていく。
そして教科書通りには生きてはいけない。
寄り道はきっとある。
切ない寄り道かもしれない。
それは人間だから。
だけど人の死は必ず訪れるもの。
人生は一度きり。
そんな哀しみも背負いながらも、人生を楽しく充実させるべき。
他者の死から自らの生を感じる作品であった。
全200件中、1~20件目を表示