「女性心理の描写と解釈が、時代とともに進化してきたことを思う」アブラハム渓谷 完全版 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
女性心理の描写と解釈が、時代とともに進化してきたことを思う
物語をごく短く要約するなら、勤勉で堅物な夫との結婚生活に不満を募らせた女性が、その美しさに魅せられ近寄ってくる男たちと次々に情事を重ねる話。元ネタはフランスの男性作家フローベールが1856年に発表した小説「ボヴァリー夫人」で、時代設定も19世紀前半から半ば頃となっている。姦通を賛美するような内容が問題視され裁判沙汰になるも無罪となり、関心が高まった効果で本が大いに売れたという。
この「ボヴァリー夫人」を、ポルトガルの女性作家アグスティーナ・ベッサ=ルイスが1960~80年代のポルトガルを舞台とする物語に翻案した小説「アブラハム渓谷」を1991年に発表。これを原作に、同国の男性監督マノエル・ド・オリヴェイラが脚本も書いて1993年に映画化した。
映画の最大の魅力は、主人公エマを演じたレオノール・シルヴェイラの凛とした美しさだ。整った顔立ちの中でもひときわ目立つ大きな両眼は、妖しくも深遠な光をたたえる湖のよう。変化の少ない表情からは、しかし確かに内面の孤独と満たされない思いが読み取れ、エマに多くの男たちの目と心が奪われるストーリーに説得力を与えている。公道沿いのベランダにエマが立つと車や自転車で通りかかった男たちが見とれて事故が頻発するというくだりが個人的には大好きで、数少ない喜劇的な場面でもある。
先述のように翻案に際して女性作家の手を経たことで、20世紀のフェミニズムの視点が加わっている。エマの情事は具体的なシーンとしては描かれない。饒舌なナレーションと登場人物らが交わす会話を通じて語られるのみ。そのスタンスがエマの表面的・身体的な行為よりも、彼女の内面やアイデンティティーへの考察や解釈を促す。オリヴェイラ監督の詩情あふれる映像美と相まって、豊穣な文芸映画の品格が保たれているとも言える。
初公開時から30年以上を経て、未公開シーンが追加された「アブラハム渓谷 完全版」を観る意義のひとつは、女性心理の描写と解釈が時代とともに進化してきたことに気づかされる点だろう。2020年代の日本で、法改正やコンプライアンス重視の流れによってジェンダー平等の理想は広まってきたが、格差や差別が依然として残る現実をどうとらえるのか、考えるヒントにもなるだろうか。
とはいえ3時間23分という長尺は、合わない観客にとっては苦行の体験になってしまうかも。大衆向けの娯楽作というより、時間に余裕のある層向けの知的嗜好品ととらえるべきかもしれない。