フランケンシュタイン : 映画評論・批評
2025年10月21日更新
2025年10月24日よりシネマート新宿、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにてロードショー
“怪物”を再定義するデル・トロの革命的挑戦
メアリー・シェリーによる「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」は、近代科学と人間の過信を描いた最初期のSF文学として知られ、映画史にも多大な影響を与えてきた。1931年のユニバーサル版ではボリス・カーロフ演じるボルト付きの巨人が怪物のパブリックイメージを確立させ、1950〜70年代にはハマー・フィルムがゴシック的な恐怖を際立たせた。90年代にはケネス・ブラナー版が原作への忠誠を誓うなど、映像化は時代ごとに異なる解釈を経てきている。
そうしたプロセスを踏まえると、ギレルモ・デル・トロによる「フランケンシュタイン」の実現はジャンルの革命といえる。「クロノス」(1993)や「シェイプ・オブ・ウォーター」(2017)で怪物サイドに立ち続けた氏にとり、本作は20年以上温め続けてきた宿願の企画だ。彼は原作小説の悲劇性と人造人間が直面する拒絶と孤独の問題を、現代的な倫理の文脈に置き直すことで新たな命を吹き込もうとしたのだ。

Netflix映画「フランケンシュタイン」一部劇場にて10月24日(金)より公開 ※Netflixにて11月7日(金)より独占配信
そんなデル・トロ版の構造は原作に忠実でありながら、映像作品として独自の視点を加えている。物語は北極探検隊の船長によって救出されたヴィクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)の回想と、彼を追う怪物(ジェイコブ・エロルディ)の視点が交錯する形式をとる。ヴィクターは厳格な父への畏れと母の死によって「死を克服したい」という願望に取り憑かれ、ついには武器商人ハーランド(クリストフ・ヴァルツ)の支援を得て生命創造という禁忌に手を染める。いっぽう見放された怪物は人間社会との接触を通じて言語と知性を獲得し、次第に自我と怒りに目覚めていく。
本作の支柱となるのは科学の暴走ではなく、拒絶への罪だ。デル・トロは怪物を創造した行為そのもの以上に、それを拒み責任を放棄したヴィクターの行動こそが悲劇の本質とみなす。これは現代社会におけるAIや遺伝子操作など、制御不能なテクノロジーと倫理の問題に直結する問いだ。創造者が創造物に責任を取らなければ何が起こるのか、映画はその根源的な問いを突きつける。
怪物の描写にも監督ならではのこだわりが込められている。カーロフ版の悲哀やハマー版のグロテスクさを踏まえ、今回は漂白された皮膚に異様に発達した筋肉、そして空虚な眼差しといった、生々しさと異形性が混在した容姿で描かれる。それは既視感と新鮮さを同時に呼び起こし、ひいては観客に怪物の内面を想起させる作りとなっている。
いっぽうヴィクターの人物像には現代的アレンジが施されており、彼は自己実現のために他者を犠牲にするネットスター的な存在として描かれる。彼の傲慢さは承認欲求に支配される現代のSNS文化や功利主義的な社会をも反映。加えて怪物とエリザベス(ミア・ゴス)の関係には「シェイプ・オブ・ウォーター」の延長線上にある「異形との愛と受容」のメッセージが透けて見える。
2025年の「フランケンシュタイン」は1930年代ユニバーサルの悲劇的な怪物像と、原作リスペクトを試みたブラナー版の精神を併存させながら、それらを越境するものとなった。20年以上の構想と幾度の挫折を経て、デル・トロは怪物の映画史に新たなページを書き加えた。現代の不安と共鳴するこの作品は、まさにいま再び語られるべき物語となったのだ。
(尾﨑一男)