「私ごときが好きになって本当に申し訳ございません?」か「」く「」し「」ご「」と「 KaMiさんの映画レビュー(感想・評価)
私ごときが好きになって本当に申し訳ございません?
五人の群像劇だが、最後まで見てみれば大塚京(奥平大兼さん)とミッキー(出口夏希さん)が両想いで、友人のヅカ(佐野晶哉さん)・パラ(菊池日菜子さん)・エル(早瀬憩さん)は二人を応援するキューピッド役だった。嫉妬や三角関係もなく、一見すると大した恋の障害はないはずなのに、それでも恋が実るまで2時間の映画が必要になる。現代の若者はそれぐらいややこしいということなのだろう。
大塚京は、隣の席の女の子エル(早瀬憩さん)がシャンプーを変えたことに気付き指摘したら、エルは学校に来なくなってしまい、京はそれを自分のせいだと気に病む。
この場面によく表れているが、「自分(エル)ごときがお洒落なシャンプーを使っていると思われた」「女子に余計なことを言って傷つけた」(京)というように、若者たちは自意識過剰である。しかもそんな自意識が外に漏れることも致命的に恐れているのだ。
物語を先に進めるはずのキューピッドたちも、自分自身に対して「病んで」しまっている。京やミッキーが純粋に相手を思っているのに対し、ヅカやパラやエルは自分たちを「恋に盲目になれない=不純」と考えてしまうのだと理解した。
高校生より30歳以上年上の立場からすれば「いまの若者は大変だなあ」というのが正直な気持ち。共感するというよりも、「そういうことで悩んでいたんだ、意外と可愛いんだな」と、謎解き劇のような面白さがあった。
特に演じる役者さんたちは、自意識を隠そうとする強がりや、本心を指摘されたときの動揺を健気に演じていた。パラの「内面に空虚を抱えている分、文化祭を完璧に取り仕切るリーダー」という役どころは、本作のハイライトだったと思う。
五人それぞれ、少しだけ他人の心が見えるという設定は、「他人のことは分かるのに自分の気持ちを表に出せない」という意味ではリアルだった。中途半端に人の心が“見えた”と思い込むことで、かえって「対話する」「行動する」ことを後回しにしてしまうのではないだろうか。。
その意味で、冒頭では「人の心はこじあけないと分からない」と言い、ちょっと昔気質な人柄のミッキーが、なぜ自分の恋となると不器用なのか。ミッキーすらも特殊能力を過信して京の気持ちを見誤ったのか。それでもなぜ最後には告白できたのか。この辺がうまく描かれると、さらに筋の通った物語になったのではと思う。
uzさんコメントありがとうございます。ミッキーの能力、一番曖昧で役に立たない気がしますね(笑)。好きな人を前にした動揺をネガティブな気持ちと読み取ってしまうのかもしれません。
ミッキーから見た京とエルが互いにプラスに振れてたのが、結局よく分かりませんでした。
あれで誤解してたようですが、京から自分へのプラスには気付かない?
というか、好きなコに絆創膏貼ってもらうなんて、本来京の振り子は右向きに高速回転でしょうに。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。