「敢えて厳しく言うが、実体験者の方は見ないし、見ても「こんなものじゃない」と言うだろう」長崎 閃光の影で hayabusa3さんの映画レビュー(感想・評価)
敢えて厳しく言うが、実体験者の方は見ないし、見ても「こんなものじゃない」と言うだろう
戦後世代だが長崎に生まれ育ち、その後教師になった者として手記や体験記、関連書籍は相当数読んできた。今もそう。一言で言うならば、きれいすぎる。ある知人の実被爆者の方は、一度だけ原爆資料館を訪れて、「こんなもんじゃない」と思い、二度と行っていないとのこと。例えば、救護所だが、実際は嘔吐物や排せつ物にまみれて、蠅や蚊、蛆が蔓延して、まず手当の前の段階に看護師だけでなく動員されてきた一般人もあたっていた。中には幼い子どもを背負った若い女性が寺に収容された重症者たちの世話をしていたのだが、水も包帯もなく、膿だらけのどろどろの布をバケツで洗うしかなく、そんなことをしている内に、幼子は亡くなってしまった。それはほんの一部のことで、映画の中で白い白衣を着た少女たちが折り重なって眠るシーンとは、いかに現実とかけ離れているかわかるだろう。
浦上のカトリック信者は「神の摂理」として受け入れたという事は、永井博士の言葉から有名になったが、小崎修道士は住吉のトンネル工場内で意地の悪い先輩が苦しんでいた時、「ざまあみろ!」と思って放っておいたと告白している。また爆心地付近ではピカッと光ってからドーンと爆風が来たのではなく、光と音がほぼタイムラグの無い「ピシャッ」というのが近いと聞いたことがある。というようなことはいくらでもあげられるがやめておく。意味も無いし、矛盾をつくことが目的では無いからだ。ただ、若い世代に、「こんなものなのか」と理解されるのはちょっと厳しいと感じる。見終わった後、自分で調べて見たくなるような映画であって欲しかった。
あと気になったのは、「結局、この映画は何をテーマにしたかったのか?」ということ。ただ悲惨さだけを描きたかったのならば、前述の理由で成功していないと思う。
ひとつ思うのは、朝鮮人の被爆者が救護を求めてきた際、看護婦長?の女性は「朝鮮人につける薬はなか!」と足蹴にする。それに対し、主人公らの少女たちの心情などには一切触れられず流されてしまった。しかし、原爆・戦争の矛盾こそがこのワン・シーンに象徴されていたのであり、このテーマを丁寧に追っていれば、若い世代にも一石を投じる作品になった可能性もあったと思うが、残念である。
最後にエンディングで流れた「クスノキ」だが、あまりにも山王神社の楠だけが商業的に大きく独り歩きしすぎており、どうにも違和感を拭えない。被爆木は他にも市中に無数にある。中には被爆木と認定されていない木もあるのだが、木にとってはそんなことはどうでもいいことだ。
個人的には楠よりも遥かに小さい、若草町にある5本のカキの木の方をもっと多くの人に知ってもらいたいし、見てもらいたい。ほっそりとした木肌は無惨なほど焼け焦がされていながらも、健気に若葉やカキの実をつけているのだが、その姿に私は励まされる。
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