「チョルスとヨンヒは光州のロミオとジュリエットか」1980 僕たちの光州事件 Freddie3vさんの映画レビュー(感想・評価)
チョルスとヨンヒは光州のロミオとジュリエットか
『1980僕たちの光州事件』ーーこの邦題にはずっと違和感がありました。日本語は一人称の種類が豊富ですが、「僕」というのはどちらかというとナイーブめの男(の子)が使うイメージがあります。その一人称複数所有格(?)の「僕たちの」の後に、なぜ、あの韓国史における大きなタブーのひとつ、権力による民主化運動の弾圧という忌まわしい出来事をもってくるのかと疑問符がとびました。言葉の組み合わせとして「僕たちの青春」とか「僕たちの未来」とか「僕たちの新婚生活」とかだったら、それなりにおさまりがよいと思うのですが、よりによって「僕たちの光州事件」とは? 日本の新作に「僕たちの地下鉄サリン事件」というタイトルをつけたら、けっこう違和感があると思うのですが(ちなみに原題は”1980”)。
ということで、本篇を見てまいりました。邦題の件は納得はしておりませんが、ははーん、ここから来たのかというのは分かりました。物語の中心には中華料理店の一家がいるのですが、そこに店主の孫であるチョルスという小学生の男の子がいます。この子の視点を重視して「僕」、そして隣の家には美容院を営む母と暮らすヨンヒという、チョルスの幼なじみで同級生の女の子がいるので、「僕たちの」となったのではないかと思います(複数形になったのは家族まで含めてのことかもしれませんけど)。なお、チョルス一家の中華料理店とヨンヒ一家の美容院は長屋みたいな構造になっているらしく、ふたつの家族は文字通り、ひとつ屋根の下で暮らしています。
物語は、歴史を示す数枚の白黒写真を見せた後、光州の街に新規開店した中華料理店のシーンから始まります。ここ、後半とのコントラストをくっきりとさせるために、たぶん狙ってそうしているのだと思いますが、少し古めのホームドラマ風、または下町人情モノ風のつくりになっていて、ちょっと郷愁を誘います。この監督、日本の山田洋次監督のファンなのでは、とちらっと思いました。
やがて、運命ともいうべき歴史の大きなうねりは仲のよかったふたつの家族をも飲み込んでゆきます。チョルス、ヨンヒ、それぞれの父親の立ち位置が両家をモンタギュー家とキャプレット家のようにしてしまいます。チョルスもヨンヒも、それぞれの家族のメンバーも、この流れには抗っても抗いきれませんでした。
昨年、この光州事件に先立つ、いわゆる粛軍クーデターを扱った『ソウルの春』を見て感銘を受けました。映画のデキ、完成度としては『ソウルの春』のほうがはるかに上だと思いますが、個人的にはこっちのほうが好きかな。ただし、邦題に納得がいかないので星半分減点です。
《追記》
邦題の件、上記に記した違和感はあくまでも鑑賞前のものなので、本篇を見た上での納得感のなさはまた別種だと気づきました。本作は光州事件を真正面から描いたものではなく、それに巻き込まれた市井の人々を描いています。よって、邦題に光州事件をまるごと入れてしまうのはちょっと違うかなという感じです。代替案としては『1980光州家族』『1980光州 ある家族の肖像』『1980光州 引き裂かれた記念写真』あたりかな。