「「お堂めぐり」から、外に出ること」8番出口 yuki*さんの映画レビュー(感想・評価)
「お堂めぐり」から、外に出ること
この映画で描かれているものは、本質的には「お堂めぐり」だと思った。
堂々巡り、でもあるけど、お堂めぐり。
寺院などの真っ暗な地下通路やお堂の通路をぐるぐる巡り、「胎内から産道を通って誕生する」ことを経験するものだ。
もちろん、これは、回廊のような悩みや苦しみから脱却し、新たな自分に生まれ変わることの比喩である。
一貫して、主人公(ニノ)の内面の問題に焦点が当たっていると思う。
つまり「妻の胎内にいる子どもを殺すか否か」だ。
電車で理不尽な目に遭っている赤ん坊を見捨てる自分。その罪悪感と、差し迫る決断への悩み。
「赤ん坊を見捨てる」というイメージが「赤ん坊を捨てる」につながり、あの「コインロッカーに捨てられた赤ん坊」のシーンにつながる。繰り返し垂れてくる血液のようなものは、堕胎や流産のイメージ。
自分の決断次第では、赤ん坊を殺すことになる。「命をそんなふうに弄んでいいのか?」という主人公の葛藤が、あの耳や目を植えられたネズミたちにつながる。
つまり、ホラー演出に見えるものは、「主人公の悩み事のイメージの連鎖」だと思う。
悩み事は「とことん悩み抜いて」こそ、出した答えに価値がある。「おじさん(歩く男)」のように、途中で悩みに向き合うのに疲れて嫌になり、目の前の安易な答え(光ってた偽物の8番出口)に飛びつくとどうなるか。「俺は悪くない!そうだよ悪くないんだ!」と、他人にも、世界にも全く何の関心もなくなり、スマホの画面しか見えない、無関心ロボット的人間の出来上がり。それを主人公は、「あれはもう人間ではない」と手厳しく批判する。
歩く男が出会う女子高生は、多分、男自身の直面している悩み事を表すのだろう。
そして子ども(男の子)の登場。
繰り返し現れる「子殺し」のモチーフの中で、この子をどう捉えるかで、観たあとの
感じが変わるだろう。
①主人公の子どもで、まだ当然、胎内にいる。彼もまた、生まれるかどうか迷っている。
②主人公自身であり、幼い頃の記憶を表している。
この二通りを自分は想像したが、①なら、主人公が未来視(海のシーン)のあと、彼を破滅的洪水から救う決断をする。救われた彼は
主人公の子どもとして生まれる決意をし、悩みの回廊を出ていく。
②なら、親への愛に飢えていた(ようにセリフからは聞こえた)過去の自分を救った主人公。過去の自分が救われて迷宮から脱出したことで、現在の彼も迷いが晴れる。
ということだろうか。
何にせよ、この映画は「観客が映画に参加するかどうか」と、「8番出口を迷いや悩みの堂々巡りの象徴と捉えるかどうか」で評価が変わると思う。
「参加するかどうか」とは、元がゲームなのだから、主人公たちと一緒に「異変を探すゲーム」に参加するか否かだ。参加すれば「よっしゃ、正解!」「え、待って待ってどこが間違ってたの??」「ニノ、うしろー!!」と言うような楽しみ方ができる。ぼんやり眺めているだけなら、眠くなると思う。
また、「悩み事に迷っている象徴」だと捉えなければ、単なる意味不明な映画になってしまうだろう。
けれど、自分としては、「自分の子どもを生かすか殺すか」という重大な決断を前にした主人公の、そのイメージに従って丁寧に、しっかりと描かれた筋書きだと思った。
物語ではなくイメージの連鎖なのだ。
反吐を吐くほど「迷って、迷って、悩み抜いた」主人公は、見事、8番出口から出ていくことができる。それはピカーっと光り輝くようなものではなくて、「日常」へと帰ってくる答えだ。
本当にきちんと悩み抜けば、「悟ったぞ俺はすごいぞー!」ではなくて、そうなるはずだという話を聞いたことがある。その通りだと思う。
主人公の決断は描かれないが、最後、危害を加えられている赤ん坊の前で主人公が目に浮かべた涙が、物語っているだろう。
あそこでバーンと具体的に書いたら、カタルシスはあろうけど、薄っぺらくてみっともなくなる。
自分は終始、感心して異変探しして楽しんで見ていた。
そうそう、8番出口の8という数字は∞(無限)にも似てるけど、赤ん坊のカタチにも見えるんですよね。
今回はたまたま赤ん坊だが、メッセージとしては「目の前で起きていることと、自分自身の問題とに、どこまでも向き合え、問題に対して誠実であれ」ということなのだと思う。「異変を見逃さないこと。異変を見つけたら引き返すこと」。これは、戦争への流れなど政治的なことを含め、世の中の色々なことに言えると思う。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。