「力と葛藤の狭間で:現代を映すスーパーマンの肖像」スーパーマン Niskyさんの映画レビュー(感想・評価)
力と葛藤の狭間で:現代を映すスーパーマンの肖像
本作のスーパーマンは、生まれながらの高潔な救世主というよりも、偶然、超人的な力を得てしまった普通の青年として描かれている。
彼の行動原理は単純で、「不当に苦しむ人を放っておけない」という人間的な優しさにすぎない。人類全体を見渡すような超越的視点も、絶対的な善悪の基準も持ち合わせていない。だからこそ、彼はその力の使い方を自問し続け、その結果については常に他者から問い詰められ続ける。
スーパーマン――そしてその存在の意味をめぐる認識は、メディアやSNS、国家、そして敵対者によって勝手に歪められ、彼を深い苦悩へと追い込んでいく。
彼は、ただの正義のヒーローではない。
制御不能な巨大な力をたった一人の人格が引き受けることで得られる恩恵を、人々を救うという行動で示す一方で、そのリスクは世論と報道によって煽られていく。
「結局あいつはエイリアンで、心の奥では何を考えているか分からない」
「正義感を気取ったバカが、勝手な行動で世界を混乱に陥れている」
今回の敵は、そんな不信と恐怖を意図的に拡散すべく、メディアやSNSにまで工作を仕掛けてくる。そこが実に面白い。
結局のところ、今作が描いているのは、「他者によって傷つき、歪められる自分のイメージ」と「それでもなお、自らの信念をどう保ち続けるか」という、極めて現代的でありながら普遍的なテーマだ。
だからこそ、本作における“最強の敵”とは、単なる悪の存在ではない――信念を揺るがす、外部からの見えない力そのものなのだ。
その点で「敵キャラの掘り下げが甘い」といった批判は的外れであり、むしろその抽象化がうまく機能している。
冒頭、スーパーマンは架空の同盟国による軍事行動を、政府の許可も得ずに単独で阻止したことが明らかになる。
彼は記者の取材に応じるが、アメリカを象徴する存在が、無断で同盟国に介入した行動は、外交上も道義上も大きな問題を孕んでいると批判される。
彼は感情を爆発させ、「市民が目の前で殺されそうになっていたんだ!」と叫ぶ。
この場面は、現実に起こっているガザでの虐殺を思い起こさせる。イスラエルの行動を黙認し続ける西側諸国と、そこに介入できない私たちの無力感が、スクリーンの向こうでスーパーマンの怒りとなって現れる瞬間だ。
スーパーマンという、ともすれば非現実的な存在のはずのキャラクターが、現実世界の質量を伴って迫ってくる。彼の巨大な力と、それを抱える等身大の人格のバランスが、観客の中に生々しく立ち上がる。
彼が信念を貫いて人々を救うとき、そこに宿る神々しさは、映像美や音楽の力だけではない。
私達の心の奥底の願いを彼に投影するからこそ生じるものだ。
登場人物が多すぎるという指摘もあるが、私はむしろ歓迎したい。
彼らの存在が、スーパーマンを追い詰め、逆に救いの糸口ともなり、展開に深みと予測不可能性をもたらしている。
超人的な力で全てを解決してしまえば、ドラマは単調になりかねない。だが今作では、スーパーマンですら打開できない局面がいくつも用意されており、そこで必要になるのが、周囲との信頼と絆、そして彼の信念の真価である。
他のヒーローたちとの対比によっても、彼というキャラクターの輪郭がより際立ち、その孤独と強さの意味が立体的に描かれている。
正義は単なる“答え”ではなく、問いそのものである。
そんな視点から描かれる本作は、スーパーマンを「信じたい」と思ったことがあるすべての人にこそ観てほしい。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。