「「幸せ」を探す前に、まず「自分を知る」必要がある」ケナは韓国が嫌いで livest!さんの映画レビュー(感想・評価)
「幸せ」を探す前に、まず「自分を知る」必要がある
舞台挨拶に登場したチャン・ゴンジェ監督は、とても小さな声で話す人だった。
静かな佇まいや誠実な受け答えから、自分が発信する手段は「あくまで映像として」であるという信念を感じさせた。
それは、作り手の意向など気にせず、自分が感じたことを何より大切にしてほしいというメッセージとして受け取れた。
『僕は僕の思いを大切にこの映画を作りました。だから観てくれる人も、この映画から感じた自分のまっすぐな思いを大切にしてほしい』
きっとそんな思いがあるだろう。
舞台挨拶では、撮影場所選定の背景や原作からの変更点の理由など、あくまで映像制作までの過程については興味深い内容を語ってくれたが、重要なシーンに込めた狙いや映画全体の監督の思惑など、観る者の受け止め方に影響を及ぼすような内容は、さりげなく避けながら話している印象が強く残った。
そして、この映画はそんなチャン・ゴンジェ監督の想いが映像の隅々にまで行き渡った作品だった。
若い時期というのは、「自分がいるべき居場所」を探して、いろんな人に会ったり、今いる場所からの脱出を真剣に考えたりしがちだ。
「『自分のためだけの幸せの聖地』がこの世のどこかにきっとある」
そんな子供の頃に大人たちから暗示をかけられた思い込み。
「せめて、お前は自分の好きなことをしてほしい」
そんな親心から出た言葉が若者の心を漂流させる。
けれど、「自分にとっての幸せ」や「本当に好きなこと」が具体的にどんなものかは、大人たちは誰も教えてくれない。
どこに行けば手に入れることができるのか、誰も知らない。
「自分がいるべき居場所」を探し続ける時間が青春であり、「そんなものは世界のどこにもない」という事実を受け入れた時が、その人の青春の幕が降りる瞬間なのかもしれない。
この映画の主人公ケナは、韓国に「自分がいるべき場所」を見つけられず、異国へと旅立つ。
ここではないどこかへ。
ニュージーランドで出会う若きstrangerたちは、それなりに「居場所」を見つけている(ようにケナには見える)。
寒さ厳しい生まれ故郷を離れ、南国の温かい異国の地に逃げていても、どこか胸の中に冷たい隙間風が吹き続けているような孤独感。
その孤独感はきっと少なくない人たちがかつて経験したことがあるはずだ。
だからこそ、ケナが感じる「冷たさ」は、観ている者の心にじんわりと伝わってくる。
両親の支援が足らなかったから良い大学に行けず、そのために良い会社に就職できなかった……。
念願の職業への就職が決まり、結婚しようと言ってくれた恋人からの愛情が鬱陶しく感じてどうしようもない……。
自分の夢を叶えるための資格を取得するため、何年も苦学を続ける友人に街で偶然出会った時、寒空の下の彼のサンダル履きの足元から、ケナは目を離すことができない。
そんなケナの心の中の「冷たさ」は南国に逃避行しても消えることはなかった。
「幸せ」を探す前に、まず「自分を知る」必要がある。
自分を知らなければ、今の自分の立ち位置を真に理解しなくては、どこに行っても「幸せ」は見つからない。
「幸せ」とは幻想だ。
それは、自分の心の目が、今いる場所で発見するものだからだ。
「自分を知る」ことができれば、今の場所にもたくさんの「幸せ」が存在することに気づくだろう。
愛を持って接してくれる家族、心から心配してくれる友人、どんなことでも優しく受け止めてくれる愛する人たち。
私たちは、日本や韓国で生まれたということだけで、どれほど「幸せ」なことかを、この映画を見てもう一度実感するべきだ。
そのことに目を向け、異国に逃避行を続ける限り、「幸せ」を見つける心の目は閉じたままだから。
舞台挨拶で、壇上に座るチャン・ゴンジェ監督の姿は、ハリウッド映画で世界的大ヒットを狙う映画監督のイメージとは真逆のものだった。
けれど、彼が映画というものを、映画を愛する人を、心から愛していることはヒシヒシと伝わってきた。
彼が映画の向こうに見ているものはきっと、評判や名誉やお金なんかではなく、まだ見ぬ自分の感情だったり、自分の中の新たな発見だったりするのだろう。
そして、自分の映画を観る者にも、自分の映画を観ることを通じて、そんなことを期待しているのだろう。
そんな凜とした監督の芯の強さから、「幸せ」の見つけ方を教えてもらったような気がした。