「原作に由来する短篇パートは大好物。ただし映画オリジナルのネタにはイマイチピンと来ず。」#真相をお話しします じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
原作に由来する短篇パートは大好物。ただし映画オリジナルのネタにはイマイチピンと来ず。
生まれて初めて、バルト9の深夜上映を体験した。
会社からの帰宅は概ね終電になることが多いのだが、
この日はタッチの差で、桜上水まで行く終電すら逃してしまった。
新宿からだと調布まで自腹タクシーで1万円弱かかる。
ネットカフェの朝までコースに3千円払うのも癪だよなあ、
と逡巡していたら、ふと思い出した。
「そういや、バルト9は深夜2時くらいから朝まで映画やってたよな」
で、いざ行ってみたら……おお、やってるやってる!
ただし、これとコナン君の二択(笑)。
じゃあ、こっちにするかと消極的な理由で選んだ次第。
なので、申し訳ないけど、今回は、
「居眠り優先」「身体を休めることが第一」
という強い目的意識をもって観させていただいた。
よって、しょうじき何か所か、記憶が飛んでいるところがある。
特に、ラストの辺りを多分僕はちゃんと観られていない。
過去話をやってる間はぎりぎり意識があったのだが、
ネット投票をやりだした辺りでついに力尽き、
ふと気づいたらエンドロールが流れていた(笑)。
なので、僕は●●ちゃんの運命を知らないし、
●●ちゃんの猿ぐつわが外れて、本人の口から、
何らかの弁明があったかどうかもわからない……。
まあ、気になるっちゃあ、気になるけど……、
見直すほどでもないかな?(笑)
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作品は、いわゆる「連作短篇集」の体裁をとっている。
ここでいう「連作短篇集」とは、単に、同じキャラクターが登場する短篇のシリーズという意味ではなく、別々の短篇を結び付ける「つなぎ」のパートと全話に共通する「趣向」がある、「ひとまとめ」の作品ということだ。
小説ではときどきある形式だけど、
(若竹七海の『ぼくのミステリな日常』とか、霞流一の『首断ち六地蔵』とか。あと泡坂妻夫の『11枚のとらんぷ』や『生者と死者』も「特殊な仕掛けのある」連作短篇といえる)
映画でこれだけがっつり、長篇のなかに短篇を埋め込んであるタイプのオムニバスを観るのは、比較的珍しいかもしれない。
個人的に面白かったかどうかでいうと、
短篇3篇は、どれもそこそこ面白かった。
ただ、外枠の話は、どうなんだろうね。
過去篇の「真相」までは楽しめたが、
視聴者参加型の部分のネタについては
僕には何がなんだかよくわかりませんでした……。
で、あげくラストを見届ける前に寝落ちしちゃったと(笑)。
元の原作(未読)は、単純に5篇のミステリー短篇を並べただけのつくりらしい。
なので、今回の連作短篇仕立ての構造は「映画オリジナル」ということになる。
すなわち監督は、5篇のうちの「#拡散希望」を外枠として拡大して、3篇を「中で語り部が語る話」に変更し、さらに原作の「パンドラ」をカットする(おそらく映画向きでない題材なのだろう)という整備工事を行ったわけだ。
すなわち、「事件の内容を当事者が配信する」
「番組配信者には、裏に別の意図がある」
「大森と菊池が出逢って懇意になって一緒にいる」
といった要素は、すべて「映画オリジナル」ということになる。
単なる短篇集を、「連作」として関連付ける手法。
それ自体は、映画だけの新ネタを加味したうえで、
「一本の映画として短篇集をまとめる」
うまいアイディアだとは思う。
でも、それがうまくいったかどうかは……、
なんともいえないところだなあ。
なんでひっかかるかというと、僕のなかで、
「犯人を断罪して殺すか」
「自分の個人情報をさらすか」
という二つの選択肢が、
まったく二者択一されるような等価なものではなく、
「そんなこと言われてもなあ」としか思えないからだ。
なんだろう、その妙ちきりんな二択は??
あと、人のプライヴァシーを暴くことで快感を得るというのは、たしかによろしくないことだとは思うんだけど、「事件の当事者が自分でエンタメとしてぺらぺら語ってる殺人事件の裏話を面白がって視聴してる観客」って、そんなに責められるべき存在なのだろうか? なんでこいつら、そういう客に対して、ここまで敵意むき出しにしてんの??っていう疑念がどうしても拭えない。
たとえば、広末涼子の事故の背景に何があろうが、田中圭と永野芽郁が何をしていようが、10年以上前の松本人志や反町キャスターがどれだけハレンチだったろうが、下々の大衆にはまるで関係のない話だし、そういうネタで商売をする雑誌もネット媒体も、みんな本当に下衆だと思うし、それを愉しんでるネット民も本当にカスばっかりだと思う。とくに、芸能人や「しでかした人たち」を批判・攻撃するような文言をSNSやヤフコメで披露しては「いいことした気になってる」クズどもに、何とかして鉄槌を食らわせたいと思うのは、僕だって全く同じだ。
僕はとにかく、文春や週刊女性やフライデーのような暴露媒体が吐き気がするほど嫌いだし(絶対に買わない)、ガーシーやコレコレを視聴したことなど一度たりともないし、有名人を叩いてホルホルしている有象無象の「良い気になった大衆」のことも吐き気がするほど嫌いである。
なんなら、小保方さんを叩きすぎて笹井さんを自死に追いやったネット民は「ガチの人殺し」だとマジで思っているし(こいつらはなぜか「小保方のせいで笹井さんは死んだのであって、自分たちには責任がないと本気で思っている)、ジャニーさんに食い物にされていたはずのジャニタレを「ジャニーズを叩くことで長く番組に出させなかった」大衆の愚かさ(まるでジャニーズに残っていたこと自体を罪として罰するかのような)にも本気で反吐が出る。
だが、『#真相をお話しします』の視聴者がどうかというと、それとはまた、ちょっと違う話だと思うんだよね。
過去にあった事件の関係者が、裏話を語るのを視聴し、
凄惨な事件の背後にあった「真相」に興味をもつ。
それって、ものすごく普通のことなんじゃないの??
誰かを悪意をもって貶めてるわけでもないし、
面白い語り部に投げ銭をして収益化させているだけで、
ヤフコメやSNSでいきり倒して正義棒を
振り回してる連中とは、根本的に違う存在のはずだ。
そういう「単に好奇心の強い受動的な視聴者」相手に
「本当の悪はお前らだ!お前らのせいで俺たちは!」
みたいなことを言われても、まるでピンとこない。
タレントや犯罪者や政治家を貶めたりくさしたり叩いたりするコメントに「いいね」を押すさもしい精神と、事件の当事者の語る真相の面白さに対して「いいね」を押す健常な好奇心とは、けっして同列に語っていいものではないと、僕は思う。
だから、個人的には、「映画的な付け加え」の部分があまりうまく機能してるようには、どうしても思えなかったわけだ。
正直、「ふるはうす☆デイズ」の真相がわかって以降の展開は、完全な蛇足のようにしか僕には思えない。
むしろ、こんなことがしたいがためにここまでの準備をして、WEB番組まで立ち上げている連中の執着心や他罰感情のほうが、よっぽど気持ち悪いのでは?
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一方で、原作に由来する4本分の「短篇」ネタについては、とても楽しめた。
僕が本格ミステリーをこよなく愛するのは、表面上構築した仮想の現実を「根底からひっくり返そう」とする作者の稚気と、世界がゆらぎ反転する際に発する「ざわざわ」するような独特の感覚が、こたえられないくらいに好きだからだ。
その意味で、一話目の「惨者面談」は、たとえどんなに細部に瑕瑾があろうと、辻褄の合わない部分があろうと、徹底的に「表面上見える仮想の現象と真相のギャップ」と「ギャップがあるがゆえににじみ出る違和感の正体」にこだわったつくりに、大いに好感がもてる。
クリスティで僕が最も好きな作品のひとつに、幸せそうな一家と見えた家族で殺人が起きて、捜査していくうちに、家族全員が実は赤の他人の集積体で、強請り屋や詐欺師が「血縁や友人」を装って集っていたことがわかる話があるが(麻耶雄嵩にも似た話がある)、今回の「惨者面談」は、まさにそういうノリで、なかなかぞっとさせられた。
家庭教師の知っている真実。お母さんが知っている真実。子どもが知っている真実。三者にそれぞれ「ズレ」があるがゆえに、「なにかがおかしい」事態が頻発することになる。なんか泡坂妻夫の『亜愛一郎』シリーズに出てくるようなネタだよね。「母親の正体」で立ち止まらずに、さらなるどんでんを用意している辺りが特に心憎い。そういや、桜井ユキの不穏な母親役を観るのは、あのウサギと玉木宏が出てくる『この子は邪悪』以来だな(笑)。
二話目の「ヤリモク」(おお、ヤリモクって「ヤる目的」の略語なのか!)は、伊藤キノコの美声と怪演ぶりには大いに笑わせてもらったものの、本来なら、伊藤パパの視点で描かれるべき話を、諸般の都合で別の●●が語っている設定にしたせいで、いろいろと話や語りに大きな齟齬が生じてしまっているのがもったいないところ。そもそもアバターの背後で、誰がしゃべってるかも丸わかりだしね……。「真相」自体は予測可能だけど、逆立ちしたみたいな動機(●●に●●●させないために●●する)はとても面白かった。
それにしても伊藤キノコは、キノコ決めてるみたいな演技させると本当にキノコすぎるくらいキノコで素晴らしいね。莉子ちゃんは生まれついての天使なので、無理してこういう役はしなくていいと思います。あと、原義孝が、どう見ても『オーズ』出てたころの三浦涼介にしか見えないチンピラホストメイクで出ていて、腹を抱えて笑った。
三話目の「三角奸計」は、話の面白さとしては「ヤリモク」よりさらに落ちるかなあ。
いかにもコロナ禍でバーチャル呑みやりながら降りてきたようなアイディア自体はとても共感を呼ぶのだが、結局、落としどころが他になさそうな「真相」なのでねえ。
いろいろあった伊藤健太郎の再活用法としては最適解のような配役で、そこはとてもよかったと思うのだけど。一方で、王子様じゃない菊池風磨は、あんまり個性を生かせていなかったような。短篇パートじゃ伊藤健太郎に食われて、長篇パートじゃ大森元貴に食われて、ちょっとかわいそう。
ネタの面白さとしては、「惨者面談」「ヤリモク」「三角奸計」の順番で下がっている気がしたのに、作品内の観客評価が逆になっているのも、なんとなく解せない。
「ふるはうす★デイズ」のミステリーとしてのネタ自体は、掛け値なしに素晴らしい。
ロジックを「逆転」させるような、泡坂妻夫的な「逆説」の発想が随所に観られて、とくに出てくる三人の子供のドキュンネームぶりが、事件の「真相」と密接に結びついていたのには、僕のなかのミステリーマインドがいたくくすぐられた。なるほど、そういう名づけをするような親だったこと自体が、すべての発端だったと言いたいわけね。
YouTube配信全盛の時代を背景に、それ自体をネタにして新しい「意外な真相」を生み出して見せた原作者の発想力は、そのトリックがどれだけ実現可能性の低いものであっても、大いに称揚されて然るべきものだと思う。
大森元貴は、これが初めてとはとても思えないくらいの堂に入った演技ぶりだったが、そもそも歌手としてのこの人を全く知らないので、個人的にはなんとも言いようがない(結局、がんだったからなんだったんだっけ?)。
岡山天音は、こういう役なのかもしれないが滑舌が悪くて今一つ。中条あやみは、これだけやり甲斐のなさそうな役をよく受けたなあ、と(笑)。
僕は、監督の豊島圭介について、実は結構買っている。
『怪奇大家族』はとても楽しいドラマだったし、うちの嫁さんはあれにはまって、まだ20代だった高橋一生の追っかけを始めた。『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』は、僕の2020年のベスト・ムーヴィーだ。
今回も、短篇パートのほうは『怪談新耳袋』で鍛えた「怪談小噺」のナラティヴを生かして、うまくこなしていたように思う。ただ、長篇パートの締めに関しては、前述のとおりピンとこなかったというのが実際のところだ。
ちなみにこのあと、バルト9の向かいの珈琲貴族エジンバラで珈琲飲んでから、無事始発で帰りました(笑)。
バルト9、そんな時間にやってるのですね。
自分は瑕瑾が気になるタイプなので、あまり乗れませんでした。
「最後に観客も視聴者にされた!」という意見も散見されますが、自分、個人情報握られてませんし。
まぁ自分なら、結局晒されて卑劣漢のレッテルまで貼られる可能性を恐れて「個人情報を晒す」に一票ですが。
あ、投げ銭額が後になるほど上がるのは、単純に視聴者の数が増えたからかも。
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詳細は遷移先をご確認ください。